第19話

 男のアパートを辞すと、狭い路上で私は白スーツの女と向き合った。

 そして、私は女を霊視した。だが、この女が生きた存在なのか死んだ存在なのかさえ判然としなかった。

 女は顎を上げ、せせら笑うように私を見ていた。女がどういう存在なのか確証が持てないことで、私は自分の能力に少し疑問を持ち始めていた。

 この女は、こうやって、少しずつ警察に通報されない程度の精神的ダメージを他人に与え続け、最後は決定的に人を死に導くのだろう。こういう人間が一番たちが悪い。人の心に小さな針でちくちくとダメージを与え続け、いつの間にかぽっかりと大きく修復不可能になったその穴を、最後に引き裂き、命を奪う。

 警察には裁けない、この性悪女。他人にこれ程強い殺意を抱いたのは、生まれて初めてだった。

 人は、自分の行動は自分で選択したのだと思い込む。他人に左右されたなどと思いたくないからだ。だが、実際には、人は、一人では生きられない。人の影響を大なり小なり受けている。そして、他人の言動によって取る行動は変わってくる。その人間の性質を利用して、この女は、明らかにわざと他人を死に導いている。この女の影響を受けないなら、仕方がない、そう思うだけなのだろう。この女は、他のコントロールしやすいターゲットを探すだけだ。女は、何も苦労しない。自ら誰かを物理的に手にかけることもしない。だが、この女は確実に、他人の自信を奪い、自尊心を破壊し、他人が自ら破滅を選ぶように行動を取っている。顎を上げ、人を食ったようなその表情。ぶん殴ってやりたい。だが、それも、女の思う壺なのだろう。私が手を出せば、女はすぐさま警察を呼び、私を前科者にするだろう。その程度、と人は、思うかもしれないが、前科者になれば、例えば就職しようと思っても、採用してくれないところもあるだろう。前科者だと周りが知れば、口を利くことすらやめる人もいるかもしれない。いや、この女なら、こっそり私の周りに近づいて、私が前科者だと吹聴して回るだろう。その程度のことでは、この女は捕まりはしない。井戸端会議の中で、うっかり口が滑った噂話、程度に話すのだろう。だが、人は、信じる。そして、私から去っていく。この女は、他人に対してそういうクソみたいな腐った行動をとり続けてきたのだ、いつからかは知らないが。他人に、自ら人生の破滅を選ばせるのが、この女の最終目的だ。他人が自ら死を選んでいくのを眺めながら、この女は笑っているのだろう。一体いくつだ?一体、何回そうやって笑ってきた。その数だけこの女をぶん殴れば、どれだけスッキリするだろう。

 私は大きく息を吸い、狭い空を見上げた。落ち着かなくては。衝動的になっては、この女の思う壺だ。


 「にえ」


 ふいに女が小さい声で言い、またニヤニヤと笑った。にえ?一体何のことだ?にえ……。生け贄のことか?!

 ……。これだ。これが、この女のやり口だ。人に聞こえるか聞こえないかの大きさの声で、気持ちの悪いことを呟く。気持ち悪すぎて、こちらは、今何を言った?と咎める気にもならない。私は家に帰り、ご飯をたべ、風呂にでも入り、テレビでバラエティー番組やニュースでも見れば、このような些細なことは忘れてしまうだろう。だが、この女は、日を置いて、このようなことを繰り返してくるだろう。自分は反撃を受けない程度のところでやめておく。それを、他人の人生の中で何度も何度も繰り返す。だんだんと、日々いろいろなことが起きる中で、私は何故これ程までに自分の気が鬱ぐのか、何故何か新しいことを始めようという気力も無くなっているのか、分からなくなっているだろう。特に、この女のせいだとは、思いたくないはずだ。このような、蚊のようにブンブンと自分の周りとうるさく飛ぶくだらない存在に自分が左右されているなどと、思いたくないからだ。だが、こいつは確実に自分を刺してくる。そして最後に、決定的に私を死においやるはずだ。自分は、決して捕まらないやり方で。自暴自棄になった私は、自ら死を選び、受け入れるだろう。それを、見て、この女は笑うだけだ。この女は楽しんでいる。ゲームのように。他人が生きても死んでも、この女は損をしない。ただ、他人が自らの破滅と死を選んだ時が、この女の勝ちだ。女は笑い、ガッツポーズをするのだろう。女は満足し、ご飯を食べ、いつものように眠るのだろう。やがて、また勝った時の快楽が欲しくなり、ターゲットを探し求め、見つけて、またゲームを始めるのだ。 

 この女の行動を、やめさせるには、どうしたらいいだろう?いや、この女は、決してその楽しいゲームをやめはしないだろう。この女に死が訪れるまで。この女の死を望む。こんな後ろ暗い考えを持つのも、この女に操作されているのだろうか。この女、何故ここまで心が腐った状態で、こんなに平気で生きていられる?それとも私の目が節穴で、世の中はこの女を喜んで受け入れるほどまでに、腐りきっているのだろうか。


 「ねぇ、分からない?」

 ふいに、女が真剣な表情になり、言った。今まで通り、ニヤニヤ笑いでいてくれたら、こっちは話を聞かないものを。女の表情のせいで、女が何を言おうとしているのか、私の心は真剣に聞こうとしている。

「あなたは、まだ、幼いのね」

 幼い?私はもう立派な大人だ。若い、と言われるのならまだいいが、幼いと言われるのは少し腹が立った。

 「社会の平和のためには、誰かの犠牲が必要なのよ」

 そんなことを、本気で言っているのか。犠牲になり、悲しい無念の気持ちを抱いたまま死んでいった人間はどうなるのか。

 「それが分からなければ、いづれ、あなたも見つかって、この社会から弾かれるようになるわ」

 そんな社会、こちらから願い下げだ。だが、どこかの山を買って住もうと、この地球上にある人間が作り上げた社会から、逃れることは出来ないのだろう。

「私は、この世から、悲しい思いをする人がいなくなってほしいだけ。それは、いけないことなの?」

「甘いわね」

女が言う。

「もっと世の中というものが見えてくるようになれば、あなたにも分かるわよ」

 分かりたくもないことだった。私は、ずっと死者の声を聞き続けてきた。その辛く無念の思いは、無視できないものだった。その辛く無念の思いが、必然であったなどと、そんなこと。みぞおちの辺りが、怒りで熱くなってきた。と同時に、涙も出そうになった。この女が、理解出来ないと思った。理解したくもなかった。この女に消えてほしい、と思った。だが、世の中は、この女を消しはしない。消されようとしているのは私だ。それが、答えなのか。それなら、いっそ消されたほうがいい。世の中の闇を見ずに消えることが出来たほうが、どれだけ幸せだろうか。

 「だけど…。私は仇は打たせてもらう。私の彼の命と、私の幸せを奪ったお前を、私は消す。それで世の中が私に制裁を加えるのなら、好きにすればいい。世の中全体を呪って死んでやる!」

 ホホホ、と女は口を押さえ笑った。

「その威勢の良さ、いつまでも続くといいわね」

 女は背を向けると、手を振り去っていった。

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