第18話

白スーツの女との邂逅


 ある朝方帰って来て泥に沈むように眠り、昼に目を覚ますと、頭がぼんやりと靄がかかったように重くどんよりとしていた。

 白いスーツの女は、一体何者なのだろうか。様々な人間を死においやり、楽しんでいるのだろうか。

 彼氏の無念を晴らしたい。そんな思いで手掛かりが得られないかと、浮かばれない霊に出会っては話を聞いてきたが、少し疲れ始めていた。

 曖昧がいいのかもしれない。全ての物事は。知らなくていいことを知り、傷つかないでいいことで傷つく。そんな日常にうんざりしていた。

 

「でやんすから、でやんすからしてぇ、でやんすですからす」

 私の住んでる2Kに、太古の昔からいたような様子で寛ぎ、妖怪がテレビを見ながら妙な合いの手を入れている。

「なんなのよ、その、でやんす三段階は」

 のっぺらぼうは、振り向くと口だけでニヤッと笑い、またテレビに向き直ると手を叩いてバラエティー番組に見入った。

「妖怪は気楽でいいわね」

 今度は私の言葉などろくに聞こえなかったらしく、テレビを見たまま大爆笑し、涙を流す代わりに口から涎を垂らしていた。

 ええと、今日の依頼は、と…

 パソコンを開き、メールを確認する。

 今日の午後2時半、新宿駅に来てください、か…。

 時計を見ると12時を過ぎていた。

「あんたも一緒に行く?」

 一応声をかけると、妖怪はサッと振り向き、ペロリと舌を舐めた。

「ご馳走にありつけるでやんすかぁ?行きやす、行きやぁっす!」


 午後二時の新宿は、やたらにアスファルトばかりがギラギラとしていて、仮初の余所行きの空気を纏っているようだった。

 土地の空気を知りたくて、アルタ前、都庁前、新宿御苑を歩いたりしたが、どこもまだ、この時間帯には本気を出していないような気がした。

「どうも。いかにも霊媒師みたいな格好してるから、すぐ分かりましたよ」

 青年は私を目にとめると、スッスッとスマートな細長い足を小気味良く動かして歩いてきて、茶色に染めた髪をかき上げ腰に手を当てた。

 駅前のなんだかよく分からない空きスペースに来た青年は、自分が人に見られているということを、よく分かった立ち振舞いをする人だった。そして、その青年は、一人の女性を連れていた。その女は、白いパンツスーツを着ていた。年齢不詳。若くも見えるし、老けても見える。この女だ、直感した。私の彼を死に追いやり、私がこれまでに出会った人たちを悲しませたのも。

 青年が、僕を見てほしいとばかりに咳払いし、髪をかきあげる。

「僕は夜の商売をしてまして…」

 あー、ね。言われる前に、分かってた。

白いシャツ、細みの黒いズボンを身に付けて、茶色に染めた髪をやたらにかきあげる。かきあげると、陽光に照らされた部分が透けて金色に光る。彼が手を離すと、それは再び陰鬱な茶色に戻り、片目を深く覆う。そして、彼は安っぽく光るブレスレットをカチャカチャ言わせながら腕を上げ、再び髪をかきあげる。視界が煩わしいことこの上ない。 切っちゃえばいいのに、と思ったけど、口にはしなかった。

「ところで、そちらの女性は?」

「ああ」

 今思い出したとでもいうふうに、青年は白いスーツの女を振り返る。

「待ち合わせまで時間があったので、駅前の喫茶店でお茶してたんです。そしたら、隣のテーブルにいたのがこの女性で……」

「何かお悩みのようだったので、声をかけたんですよ。そしたら、部屋で霊現象が起きるというので。私も見えるので、同行して力になれたら、と思ってね」

 女の目がギラついた。本能的に、嘘だ、と思った。この女は、明らかに私を狙ってきたのだ。

「こっちです」

 およそ新宿とは思えないような寂れた路地裏に入って行くと、木造二階建てのアパートの前で立ち止まる。

「ここです」

 一見して、風呂無し、トイレは共同だと分かる物件だった。

「ボロいアパートでやんすねぇ。いくら妖怪でも住みたくないでやんす」

 青年に妖怪は見えていないようだったが、何らかの気配は感じるらしく、のっぺらぼうが喋べると、ガシガシと頭を掻いた。

「ところで君は、よく見ると随分若いんだね。高校生ぐらい?学校は?」

 また、若く見られた。接客業をしてるくせに、年齢も当てられないの。

 女を見ると気味が悪いほどニヤニヤと笑っていた。この女に素性を知られたくないし、まあ、本当の年齢を打ち明けなくたって、霊視は出来る。

「まあ、事情があって…」

 男が軽く背を曲げ、私の顔を覗き込む。

「分かるよ…。僕も、学校は中退したくち」

 目を合わせたまま、ニッコリ笑う。

 …この人垂らし…。

 女性が落ちるのも、分からなくはない。

 男に終始付きまとう、胡散臭さに目を瞑ってしまえば。

「こっちです」

 アパートの中へと続く、薄暗く細い階段を上がる。まるで、人間の細長い小腸の奥へと入り込んでいく感覚に襲われた。

 階段を上がってすぐの二階の角部屋のドアを青年は開ける。

 …なるほどね…。アパートの出入り口の近くの部屋は、落ち着かず人の心が不安定になりやすい…。

 青年はドアに鍵すらかけていなかった。

「盗られるものなんか、何も無いんで…」

 人懐っこい笑みを浮かべ、また頭を掻く。

「まだ駆け出しですからね」

 そう言うと、背中を見せ革靴を脱いで部屋へ入っていく。

 青年が来ている白いシャツはハンガーに掛けられたかのように、真っ直ぐ見えた。肉体の、何のふくらみも表れていない。女性を守る気など一切無い、痩せた体。きっと、道を女性と歩いていて何か危険があった場合、我先にと逃げるのだろう。女性に守ってもらうことしか考えていない、貧弱な体。

「夜な夜な出るんですよ、あいつが…」

 カーテンレールを指差す。窓からは、都会のスモッグを通してやっと到達した日の光が、鈍く辺りを照らしていた。

「あいつ、って?」

「キリンですよ、キリンのぬいぐるみ。僕が幼少期から大事にしていたんですが、ここに引っ越してくる時に捨てちゃったんです」

 キリンのぬいぐるみ…。見た目とのミスマッチに驚く。そういう可愛いらしいものを、大事にしないタイプだと思ってた。てっきり、女性関係だと…。

「きっと、あいつ、僕に捨てられたことを恨んで…」

 青年は目を丸くすると、まるで喉に何か詰まってしまったかのように、ゴクリと盛大に音を立てて唾を飲み込んだ。痩せて飛び出た喉仏が盛大に上下する。


 そこは、およそ生活感の無い、何も無い部屋だった。

 電気も点けずにいると、暮れる気も無く、空がいつの間にか暗くなっていく。

 明るさの消えた部屋に、一際黒い影が伸びる。自然のものではない、意思を持った何か…。

 窓ガラスに映るそれは、確かに首の長いキリンのようだった。だが、顔をよく見ると、そこには若い女性の顔がついていた。

…やっぱり、女性関係じゃない。

「窓に今、女性がいるわ」

 白スーツの女が私を先制するように口を開いた。

「ヒェッ」

 男が驚いたようにシャックリのような声を出す。

 この女……。私に仕事をさせない気か。この女が私の前に姿を現した目的が見えた気がした。

「あたしね、待ちくたびれちゃったの…」

顔に垂れ下がる髪の陰で、彼女が呟いた。

「待っても待っても帰って来ない…。他の女のところにいるって、分かってたの…」

 女性の頬に、涙が光る。

「待って待って待って、彼を待ち続けて。そしたらね、こんなに首が長くなっちゃったの…」

 彼女が頭をくゆらして、髪がさらさらと動くと、そこには細く伸びきった白い首が現れた。

 不安定に、細い首の先についた頭が、ゆらゆら揺れる。

 よく見ると、首には紐がかかっていた。

「待ち続けるのが苦しくて、首を吊っちゃったのね…」

 彼女は遠い目をして窓の外を眺め、私の言葉など聞いていないようだった。


「あたし…は、…どうなるの…」

 首を斜めに傾げ、俯いたまま諦めきったように女性が囁く。

「もう、ここに縛られるのも、嫌になってきた。天に上って、楽になりたい……」

 「天に上って、楽になりたいって言ってるわよ」

 また白スーツの女が茶々を入れる。やりにくいったら仕方がない。

「あっ、じゃ、さっさと成仏してもらって」

 今からお茶しにいこう、とでもいうような、軽いノリで男が言った。

 どうも、この男に苛立ってきた。もっともっと、ここに留まって、男を呪っちゃえばいいのに。だが、それでは、彼女が苦しむだけだろう。

「大丈夫。ちゃんと成仏してもらうから」

 私は青年に告げた。

 その横で、白いスーツの女が腕を組み、鼻から盛大に息を吐いた。

「私も成仏させることは出来るけど、報酬を貰うのはあなただし、ここはあなたに任せるわ」

 だったら、帰ってくれ、と言いたくなってきた。マウントを取り、私をイライラさせるのが目的で来たのだろうか。私の仕事など、たいしたことでは無い。青年に、そういう印象を植え付けるのが目的か。あるいは帰りがけに青年に名刺でも配って、青年伝いに私に来るはずだった仕事を横取りする気なのかもしれない。

 私は持ってきた花を供え、経を唱えた。最後に線香に火をつけると、その煙に乗り、女性の姿は儚く天に上った。

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