第17話
蛾羅渓谷で出会った女性の独白
ある夏の暑い日、風呂上がりにリビングで扇風機の風に当たりながら寛いでいると、夫がニヤニヤしながら部屋に入ってきた。春に一人息子が東京へ行って一人暮らしを始めて以来、家ではほぼ無表情を貫いていた夫が、珍しい。
「どうしたの?ニヤニヤして」
夫は、その表情を崩さないまま、テーブルの上に何かのチケットをパサリと置いた。
「お盆に、二人で旅行に行こう」
へぇー。私は驚いた。息子が出来て以来、二人きりで旅行など一切なかった。
「え、ええ。いいわね」
平静を装いそう返事すると、夫は自分が置いたチケットを再び手にとり、「行き先は俺に任せといてくれ。どこか山奥の静かな温泉宿で、長年の疲れを癒そうじゃないか。お盆は、予定を空けててくれよ」、それだけ言うと、立ち去ろうとする。
「あ、待って。もしかしたら、お盆は息子が帰ってくるかも」
「いや、こないだ電話があって、お盆は仕事で帰れないって言ってたよ」
「あ、そうなの。」
息子は夫と仲がよく、二人きりで話していることがよくあった。
夫がリビングを去る。久しぶりの夫と二人きりの旅行か。年齢と共に枯れきっていた自分の心に、若い時の華やぎが戻ってきたような気がした。
「え?急に行けなくなったって、どういうこと?」
旅行当日の朝、早起きしてバッチリとメイクした私に向かって、夫は慌てたようにネクタイを結びながら告げた。
「急に仕事になったんだ。悪い。終わり次第駆けつけるから、先に行っといて」
それだけ言うと、朝ご飯も食べずに出て行ってしまった。
一人で?…行くのを辞めようかとも思ったが、後から来てくれるというし。とりあえず、一人でのんびりしながら景色でもみて旅を楽しめばいいか。
私はタクシーで駅に行き、電車に乗った。お盆だからか、田舎の電車にしては人が多かった。
「オバサン!ここ座っていい?」
向かい合わせになった四人掛けの席に、男子大学生らしき三人組が、私の返事を待たずにどかりと座った。
「あ、ええ、どうぞ」
どうにか返事をしてその場を取り繕うと、言い終える間もなくプシュッと音がして、三人は缶ビールを開けグイグイ飲みだした。酒が進むにつれ、耳を塞ぎたくなるほど、三人の声は大きくなっていく。
最近の男の子って、こんなに女子みたいにペラペラと喋るものなの?うちの子なんか、口をどこかに落として来ちゃたのかしら、と思うぐらい、家では一言も発しないこともあったけど。気を許した仲間うちでなら、うちの息子もこんななのかしら。
「ちょっと、失礼」
耐えきれずに私は席を絶つと、車両を出て大きく息を吐いた。やっぱり、この年て、一人で旅行なんて疲れるわ。辞めておけばよかった。小窓からソッと覗くと、さっき私の隣に座っていた男が真ん中に移動し、大股広げてガハハハと笑っていた。ま、そんなことをされなくても、もうそこに戻る気はなかったけれど。一人でいるオバサンに対する世間の態度って、そんなものよね。町で横断歩道を渡っている時など、当然、ババアがどけよ、と言わんばかりの態度で、若い男はこちらに突っ込んでくる。若い人は、年をとった経験が無いから、年齢を重ねた人間の気持ちなんて分からないのよ。
空いてる席はないかと別の車両を見渡したが、どの席も家族連れや友達連れでいっぱいで、無理言って座らせてもらっも、また邪険にされたら、と思うと声を掛ける気にはなれなかった。
車両の端っこで、壁にもたれ掛かって立ち、風景を眺めることにした。山の緑や、田んぼの青さも、心を慰めてくれることはなかった。暑い盛りの木々や草花の鬱蒼とした勢いが、今は鬱陶しく感じられた。
目的地に着いて、夫が予約してくれていた宿にチェックインする。鍵を受け取って部屋に入ると、畳の部屋が二間の、一人には広すぎる部屋。
宿の食堂へ夕飯をとりに行くと、家族連れや友人同士で来た人たちの賑やかな話し声でいっぱい。
一人で食べる食事が、永遠かと思うほど長く感じられた。お腹は空いていたはずなのに、食事の途中で急に喉が閉まったような感覚に襲われ食べられなくなった。残すのは悪いと思ったが、仕方ない。そそくさと部屋に戻る。
広く、知らない部屋にいるとだんだんと侘びしくなってきた。
私だって、家族ぐらいいるのよ。
夫に連絡しようと携帯を取り出す。着信はない。夫はいつになったら来れるのだろう。
電話をかける。出ない。まだ仕事が忙しいのだろうか。
ふいに、旅の移動での疲れがどっときた。布団に横になると、泥に沈むように眠った。
翌日、障子越しの日光が眩しくて、目を覚ます。時計を見ると、朝の5時。なんとなく、まだ疲れているが、日差しが眩しすぎて眠れそうにない。障子を開けると、窓の外には山々が連なっていた。いつの間に、こんな山深いところに来てしまったのだろう。昨夜は着いた時には辺りは暗くなっていて、分からなかった。
ここであと3日も過ごすのか。思い返せば、こんなに一人の時間を過ごすのは、家族を持って以来初めてのことだった。何をしていいのか分からない。携帯を見ても、夫からの着信はなかった。どれだけ、仕事が忙しいのだろう。かけてみようかと思ったが、しつこいと怒り出す人だった。
まあいい、久しぶりの、一人の時間を楽しんでみよう。そう気持ちを切り替えることにした。
だが、とりあえず、何をしていいのか分からない。テレビを見ながら8時頃になるのを待って、受付へ行き観光案内のパンフレットを貰った。部屋に戻ってゆっくり見ようと思ったが、何故か気持ちが落ち着かず、紙の上を目が滑るだけで、何も頭に入ってこない。
ふと、思った、そうだ、夫が帰ってくるから、朝食の用意しなきゃ。
そう思った、自分を自分で笑った。今は旅館にいるのよ。何言ってるの、私。
そんな必要もない、となると、一体何をしたらいいのだろう。
もしかしたら、息子は今日ぐらい休みで、こっちに遊びに来ないだろうか。携帯を取り出して電話をかけてみたが、出ない。そうよね、仕事だって言ってたものね……。電話番号を登録してある数少ない友人たちに電話をしてみたが、誰一人出ない。お盆で皆、家族と過ごすことに忙しいのだ。
何故私はここに、一人でいるのだろう。仕方ないから、少しは気晴らしになるかもしれない、パンフレットをもう一度よく見て、観光地を回ってみることにした。
パンフレットにあった、滝や川を巡ってみたが、どこに行っても家族連れ、友人同士のグループばかりで、楽しげ。それらの人々は、一人でいる私をチラッと不審げに見た後、気を取り直した様子でまた仲間内ではしゃいでいた。
私は、ここに居てはいけない人間なのだろうか。
移動に時間がかかり、長い夏の一日もやっと日が暮れてきた。
朝、昼と食べていなかったので、さすがにお腹が空いた。宿に戻ったが、食堂に行く気にはなれなかった。
そういえば、宿の近くに小さな居酒屋があった。そこなら、もしかしたら客も少なく、店主と会話しながら楽しく食べられるかも。
居酒屋の扉を開けると、酔客の大声が聞こえてきた。ガハハハ、と大笑いしている。客は多いのだろか。店内を眺めると、奥のテーブル席に先ほどの大声の主が三人いるだけで、カウンターには誰もいなかった。まあ、これなら……。
五十代の髪が薄くなった店主ににこやかに「いらっしゃい、どうぞ」とカウンターの椅子を指された。そこまでされたら、クルリと回れ右して帰るのも悪いだろう。
カウンターに座り、メニューから目についたものを適当に二品頼む。
店主はあまり喋らないたちのようで、もくもくと料理を作っている。酔客の声が、どんどん大きくなる。
そこそこの距離があるから、リラックスして食べられるだろう、と思ったのに……。
これから怪しげな店に繰り出そうという話を、恥ずかしげもなく大声で喋っている。
ああ、男の人は、旅先でそういうところに行くのよね。楽しそうね。
こちらが無視できないほどの、笑い声。いうなれば、テレビのリモコンの音量を押し続けて、最大音量までいききったかのようだった。
せめて楽しそうな雰囲気でももらおうとチラッと見る。
三人組の中の一人が、こちらを見ていた。その顔は、口は笑っているのに目はまん丸で、まるで穴蔵のようだった。
何よ。何でそんな目でこっちを凝視するの?
もう二度と見ないように前を向き、いつの間にか目の前に置かれていた料理をひたすらモクモクと喉の奥に押し込んだ。
トイレに行きたくなったが、行くには酔客の横を通らなければならない。
「会計、お願いします」
トイレは諦めて、私はそそくさと居酒屋を出た。
女の一人旅って、こんなにツマラナイのね。
結婚前もあまり旅行などしたことがなく、行っても友人と一緒だった。
宿の部屋に戻ってトイレを済ませると、ふいに涙が出そうになる。いい年こいて、一人ぼっちで泣くなんて。
携帯を見たが、まだ夫からの着信はなかった。
何かあったのだろうか。でもそれなら、会社の人とか、あるいは事故にあったのなら、警察から連絡がくるはず。
怒られるの覚悟で、私は夫に電話をかけた。
「はい」
ダルそうな声で、やっと夫が電話に出た。背後にテレビの音だろうか、女性の声がボソボソと聞こえる。
「一人で旅行楽しんでたか?」
楽しいわけないじゃない、そう言いたかったが、言葉にすると涙がまた出てきそうで、私は飲み込んだ。
ひとしきり昨日と今日あったことを話す。
「悪いな、明日まで仕事終わりそうにないんだ。最後まで、一人旅を楽しんできてくれ」
理不尽に、私の心に怒りが湧いてきた。でも、仕事だったのだから、仕方がない。
「今から風呂入るとこだったから、じゃあな」
夫が言ったその後に、キャハハと女の大きな笑い声が聞こえ、電話が切れた。
私は耳を疑った。テレビの音量を、突然大きくした、ってことも、考えられる。だが、何故、電話しながらそんなことを?テレビのような電波を通じた声ではなく、まるで夫のそばに誰かがいたような、そんな生々しい笑い声だった。
……もやもや考えてても仕方がない。とにかく、久しぶりに夫の声が聞けて少し平常心を取り戻した私は、もう寝ることにした。
昨夜は、翌朝宿を出たらその足で駅に向かい、電車に乗って帰ろう、そう思っていたのだが、朝、目が覚めると、せっかく来たのだから、もう少し見て回って帰ろう、そんな気持ちになっていた。一人旅に、やっと慣れてきたのかもしれない。なるべく人のいないところがいい。パンフレットを見ると、軽装でも登れる低山が紹介されていた。山なら、そこまで人はいないだろう。低いなりに、山頂からは遠くの海が見え景色がいいですよ、とお勧めしてある。これだ。山頂まで行き、この旅行であった嫌なことを全て忘れ、清々しい気持ちで帰ろう。
低い山とはいえ、ずっと上りが続き、息の上がった私は、少し道をはずれて森の中へ入り、地面から出ている木の根っこに座った。空気はひんやりとしていて、鳥の声しか聞こえない。しばらく座っていると、綺麗な空気を吸った肺が落ち着いてきて、息が整ってきた。鳥がバサバサと飛び立つ音に、少し驚ろく。その後にやってきた、静寂。私が生まれる前、そして私が死んだあとも、山はここにあり、静かに存在していくのだろう。初めは、人もあまりいなくて、いいところを選んだ、と喜んでいたが、ここにこうしてジッと座っていると、だんだんと自分がこのまま消えてしまいそうな、森に取り込まれてしまいそうな感覚に襲われる。そろそろ、もう少し頑張って、頂上の見晴らしのいいところへ行こう。
パンフレットに書かれた簡単な地図を見ると、もう少し行くと吊り橋があるようだった。
ガサガサッと音がした。また鳥か?振り向くと、木々の陰に白い何かが見えた。女だ。白いスーツを着ていた。こんな山の中で、スーツ?足元を見ると白いヒールだった。
嘘でしょ?!
真っ白いスーツとは裏腹に、女の髪はボサボサだった。
何、あれ……。あんな格好で山の中に来る人などいるはずがない。もしかして、私は生まれて初めて見てしまっているのか、幽霊を。
女はゆっくりと顎を上げた。女の顔は真っ白で、のっぺらぼうに見えた。その下半分がぱっくりと真っ赤に裂け、女が笑い出した。
「キャハハハキャハハハハハハハ」
その声は、昨夜、夫との電話で最後に聞こえてきた女の声とそっくりだった。
女が笑うのをやめ、顎を下げる。今度は、顔の上半分に、ボコリ、ボコリと二つの穴が空いた。その目は、昨日居酒屋で私を凝視していた目にそっくりだった。
に、逃げなきゃ……。
恐怖で震える足を心の中で叱咤しながら、どうにか私は走り出した。草をかき分け山道に戻り、上り坂を駆け上がる。
本当に、あれは幽霊だったのか。少し遠かったから、顔がよく見えなかっただけじゃないのか……。だが、生きている人間にしろ、白いスーツにヒールでこんな山の中に入ってきて、人を見て高笑いし出す女に追いつかれたくはなかった。
振り返ると、女はさっきと変わらない距離で後ろにいた。
どうして、あのヒールでこんな山道を私と同じ速さで移動できるのよ。
息が上がり、心臓が大きく鼓動を打って苦しくなったが、何度振り返っても女は一定の距離にいて、足を止めるわけにはいかなかった。
坂道を駆け上がると、突然ひらけた場所に出た。そこは崖だった。吊り橋がかかっていて、向こうの崖まで五十メートルぐらいはありそうだった。
振り返ると、木々の向こうを白い影がちらついた。
行くしかない。
橋の踏み板は十センチぐらいの間隔があり、踏み外して下に落ちないように、慎重に渡った。踏み板の隙間から、下を流れる川が見える。高さは、体感で百メートルはあろうかと思われた。
足がすくみ、心臓が縮み上がる感覚がする。
もう、動けない……!
私は一旦足を止め、ギュッと目をつぶった。
大丈夫、大丈夫だ、この橋は、高さが五十センチくらい。だから、大丈夫だ、落ちても、助かる。
私は、自分で自分に嘘をついて励ました。
だから、動け、足!
その時、たん、たん、たん、……と、後ろから板を踏む足音が聞こえた気がした。
動け、動け、足!
震える足を、一歩、また一歩と、手で抱えながら前へ出す。
だが、もう限界だった。橋の真ん中で、私は一つの板の上にしゃがみこんだ。
たん、たん、と、一つ、また一つと足音が背後から聞こえてくる。
すぐ後ろの板を、たん、と踏む音が聞こえた。幽霊だろうと、生きている人だろうと、もう私を無視して、先に行ってください……!
私がしゃがみこんでる板の端を、たん、と踏む音がした。
そう、そのまま、どうぞ先へ……。
何かが、少しずつ裂ける音がした。次の瞬間、私の体は宙を舞っていた。風圧を受けながら私の体が回転し、橋が見えた。女がそこから、笑って見ていた。
あの、女が、何者なのか分からないまま死ぬのが悔しい……。馬鹿みたいに青くて高い青空をぼんやりと眺めながら、私は思った。
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