第16話

住宅街のとある一軒家の前に、悲しそうに立っていた女性の話



「ねぇ、奥さん、ガスライティングって、知ってます?」

「ガス……、何?」

五歳の娘を幼稚園に行くバスに乗せた後、いつもの近所の奥さんとの井戸端会議。

「なんでも、とある団体の手口で、ターゲットに決めた人に集団で嫌がらせして、孤独に追い込んで団体の仲間入りをさせる手法らしいわよ~」

「へぇ~」

私は欠伸を噛み殺しながら、話し半分で聞いていた。この奥さんは不思議なことに、いつも白いスーツを着ている人だった。そして、どこそこの旦那が浮気をしているだの、どこそこで自殺があり、それ以来そこで幽霊を見る人が耐えないだの、どこから情報を仕入れてくるんだか、眉唾な話をよくする人だった。

「例えば、どんな嫌がらせをするんです?」

「例えば、咳払い」

「咳払い?」

その程度なら、近所のおっさんが早朝によくしている。

「それが、一日にいろいろな人に通りすがりにやられるものだから、最初は気にしないようにしていても、だんだん気に障るようになり、精神的に参ってくるそうよ」

「そうかなあ……。咳払いでそんなになるかしら」

「私だったら、嫌だわ~。毎日毎日いろんな人から咳払い聞かされ続けたら、きっといつかイライラがピークに達して発狂する。あっ、今日は洗濯しないといけないんだった、じゃあまたね」

 奥さんはヒールをカツカツ鳴らし、去っていく。

 しかし、咳払いごときで人が追い込まれるとか……。そんなことがあるだろうか。

「ハクション!」

 突然、男の野太いくしゃみが聞こえ、私はドキリとする。随分近くから聞こえた……。通りを見渡すが、誰もいない。どこかのお宅からか。ああ、びっくりした。

午前中の人が少ないうちに、買い物を済ませよう。そう思った私は、近所のスーパーへ出かけた。

 ……どうも、人の視線を感じる……。辺りを見ると、通路の角に、店員が立ってこちらを見ている。……。なんか、監視されてる?ああ、もしかして、今の時間帯、万引きが多いのかしら……。

 今日の安い野菜はどれだろう。野菜コーナーでどれを買おうか迷っていると、さっきの店員が野菜がたくさん入った箱を私のすぐ横にドスン!と大きな音を立てて置き、品だしを始めた。

 ……。なんか、感じ悪いわね……。まあでも、きっと仕事が忙しいんでしょう。私は、その辺にあったキャベツを籠に突っ込むと、レジで支払いをし、そそくさと店を出た。

なんだか、さっきの店員の態度に、モヤモヤする……。だけど、私には、その程度の話を聞いてもらえる友達などいない。旦那の転勤にくっついてきて一ヶ月、なじみの無い土地で、私は孤独だった。

 家賃月五万の中古の一軒家に帰ってきて窓を開けるなり、また「ハアーックション!」と、くしゃみが聞こえてきた。……。人のくしゃみって、こんなに大きいものだったかしら。しかも、私が窓を開けるのを見ていたかのようなタイミング……。いや、気のせいだろう。窓から外を見渡しても、こちらの見ているような人影はいない。

 ……、朝、あの奥さんに変な話を聞いたから、きっとそのせいで神経質になっているんだ。

 夜遅く帰ってきた旦那に食事しながらその話をすると、鼻で笑われた。

「ガス……、何?そんな話、あるわけないだろう。だいたい、その程度の誰も気にしないような事柄で嫌がらせとか……。そんな暇な人、いないよ」

 食事を食べ終えると、さっさと風呂に入り寝てしまった。

 まあ、確かに、あまり現実感の無い話だ。

そんなどうでもいいことを、気にするほうが、おかしい。


 翌日も、朝、幼稚園のバスを見送った後、奥さんにどこそこのお爺さんが認知症で行方不明になったのだという話を聞かされた。

……どうも、あの奥さんは、ネガティブな話題が好きなようだ。せっかく清々しい朝に心地よさを感じていても、奥さんの話を聞くとどんよりとした気分になってしまう。まあでも、せっかく話かけてきてくれる人を、邪険には出来ないし……。


 奥さんと別れ、家に帰ると、道路に面した窓の外からシャッシャッシャッと微かな音が聞こえてくるのに気がついた。始めは気にせず朝御飯の後片付けをしていたが、休憩しようとリビングに座ってテレビを見ていると、どうも気になってきた。カラカラと窓を開ける。すると、塀越しに誰かの頭が見えた。その人物がスッと去っていくと、音は聞こえなくなった。

 何?誰なのよ。自治会の人でも掃除をしていたのだろうか。

 まあいい、布団でも干そう。二階に上がり、ベランダに布団を干す。今日はよく晴れていい天気だった。すると、布団を叩く音が聞こえてきた。今日はいい天気だから、他にも布団を干す人がいたのだ。それにしても、今は朝の9時。干してすぐ叩いているのかしら。一日干した後にくっついた埃を飛ばそうっていうなら分かるけど。塀の上から身を乗りだして、音のするほうを見渡した。だが、干された布団も、それを叩いている人も見当たらなかった。車がやっとすれ違えるほどの狭い道路を挟んだ向かいは、三十代の男性が一人で二階建ての白い家に住んでいた。右隣は和風の平屋で男性のお年寄りが一人で住んでいる。左隣はあのいつも白いスーツを着ている奥さんの家で、庭の広い豪邸だった。昼にお茶でもしないかと何度か訪ねに行ったことがあったが、いつも室内は暗く、カーテンがかかっていてチャイムを押しても誰も出ない。奥さんは昼はいつもいないようだった。


 昼過ぎ、今度はカンカンカンカンと甲高い音が聞こえてきた。何事?また掃除か、あるいは何かの工事が始まったのか。

 窓をそっと開けてみると、向かいのお宅で三十代くらいの男性が、駐車場の屋根を支える柱に盛大に箒をぶつけながら掃除をしていた。うるさいわね。窓を開けると騒音並みのうるささだった。窓を閉めるといくらかはマシになったが、それでもずっと聞かされているとイライラしてくるレベルの音だった。

 今日は昼からリモートで会議があるのに。

 ところが会議が始まるとそれを知っていたかのように音がやんだ。

 その日から、これらのことが、毎日毎日繰り返されるようになった。気にしないようにすればするほど、相手は自分の存在を知らしめようと音を大きくしてきた。そして、こちらが窓を開けたり、何らかのリアクションを起こすと、満足したような顔で去っていく。

 彼らは、私と話をしたい訳じゃない。ただの、嫌がらせだった。

 それらにも、だいぶ慣れると、向こうは効いてないと感じたのか、スーパーに行って商品を取ろうとすると無言で知らない女が横取りしてきたり、レジに並ぶと不快なぐらいすぐ後ろに、くっつきそうな距離で立つ人が現れ始めた。音だけじゃ効かないと思ったのだろう。一体、何が目的で?それが分からないから、気味が悪かった。人に喧嘩を売っておいて、こちらが声をかけようとかいうリアクションを見せると、それは御免だとでもいうふうに立ち去った。

 私のイライラは、日々つのっていった。

 夫にいっても、そんなの気にすんな、という一言しかなかった。

 相談する相手は、もうあの人しかいない。

 朝、いつもの白いスーツの奥さんに、相談してみた。奥さんなら、きっと、分かってくれる。

 「やだあ、そんなの、ただの生活音じゃない。気にするほうがおかしいのよ」

 ガスライティングの話をし出したのは、あなたのほうじゃない。

 釈然としない思いを私は持った。おかしい。明らかに、わざとなのに。


 家に帰ると、強烈な煙草の匂いが漂い始めた。隣家の人が吸っているのか。まあ、すぐに吸い終わるだろう。だが、その匂いは、三十分も続いた。シャッシャッシャッ。外から箒の音が聞こえてくる。カンカンカンカン!また柱にぶつけている。私が干していた布団を取り込むと、まるで見ていたかのように、誰かが布団を叩く音が響いてくる。

 私は、泣きたくなった、そして、実際に泣いた。そうか、これは、大人がやるイジメなんだ。そっちがそのつもりなら。私は警察に電話をした。話は丁寧に聞いてくれたが、全部聞いたあと、こう言った。「その程度じゃあ、警察は動けないんですよ」

 それならもう、自分でなんとかするしかない。

 また、カンカンカンカン!と音が聞こえてきた。私は窓を開けて、「うるさい!」と怒鳴った。男は、不思議なことに、傷ついたような顔をして無表情のまま、こちらも見ずに去って行った。何故、その男のほうが被害者であるかのような表情をするのか謎だった。……なんだ、ちゃんと主張すれば、言うこと聞くんじゃない。

 翌日から、男のカンカンカンカン音は、しなくなった。だが、窓の外で誰かが「死ねばいいのに」と呟いて去っていくようになった。

 始めは、ただの通行人の会話だと思っていた。だが、やはり、これもおかしかった。毎日、入れ替わり立ち替わり、私が夕方外に洗濯物を取り込みに出るタイミングを狙ってやってきた。シャッシャッシャッと箒をはく音、道路で年配の女性が携帯電話で喋りながら誰かをなじり続ける。庭に出ると隣家の男が「出てくんな!」と姿を見せずに叫ぶ。若い女がギャン泣きの赤ちゃんをあやすふりして、私の家の前に留まり続ける。

 だいたいそのルーティンにも慣れて、くだらないことを飽きもせずやってくるその人々の行動に笑いが込み上げるようになってきた頃。

 今度は不自然なまでに、玄関前でゴキブリに遭遇するようになった。

 ゴミ集積場のすぐ前ならいざ知らず、うちは遠い。

 ほぼ毎日遭遇するようになったその変化に、私はピンときた。

 ある日、たまたま買い物帰りに隣人が玄関から出てくるところに遭遇した。そちらを見たくも無かったが、ガチャ、とドアの開く音がしたので反射的に振り向いた。開いた玄関から見えたその室内は、昼間だというのに異様に暗い。玄関内のすぐ脇に、五十センチ四方のどでかい透明なプラスチックの虫籠が置いてあるのが見えた。その中に、カサカサと無数に蠢く何かがいた……。暗くてよく見えない……。気持ち悪くて見たくもない……。

 隣家の男が、まずいところに遭遇したと言わんばかりの顔をした。私に挨拶する気もさらさら無いようで、無表情にくるーりと緩慢に向きを変えると室内に消えドアを閉めた。

 私は確信した。ゴキブリを撒いているのは、こいつだ。この男は夜中、こちらが寝静まったのを見計らって、うちの玄関前にゴキブリを放しにくるのだろう。

 あの手この手でよくやるものだ。

 こんなの、殺虫剤一つで済むというのに。

 だが、それらの手口は、一つ一つは些細な無視できることでも、寄せては返す波のように毎日毎日気も休まることなく繰り返されると、だいぶ参ってきた。

 まず、家から一歩でも外に出るのが嫌になってきた。とても億劫で、でも出なきゃ暮らしていけない。外に出るだけで、手がぶるぶると震えるようになった。道を行く人行く人、皆が敵に見えた。

 それまで楽しみで見ていたテレビ番組も、つまらないと思うようになった。

 こちらがカーテンを開け閉めし、電気をつけたり消したり、それですら見られているのではと思うと、些細な行動を起こすのも嫌になってきた。室内で、ただ座っていたソファから立つ、それだけの行動をするのも、億劫になった。

 騒音、嫌がらせ、悪口、子供のギャン泣き、臭い匂い、害虫、私と同じ行動、音を出して、私のことを見てますよアピール……。

 だんだんと、すぐに怒ったり、泣いたり、私の気持ちは不安定になっていった。

 特に隣家の男は鬱陶しく、この気味の悪いことをやめさせるには、もうこの男を殺すしかない、そんな心境になっていった。


 トイレだけが、狭く落ち着く……。窓も高いところにあって小さいし、曇りガラスだし。誰かに見られる心配も無いだろう。トイレに入り、座った。その瞬間、水の流れる音が聞こえてきた。振り向いてレバーを確認した。ゆるんでいて、座った拍子に勝手に動いたのかと思ったが、違う。音は外からだ。私は窓を開け、外を覗いた。隣の一軒家は、お年寄りの一人暮らしだったはずだ。めったに外に出ないのか、会うことは無かった。隣の家との距離は、二メートルぐらいだった。うちのトイレの向かいの壁に、うちと同じように小窓があった。たまたま、トイレのタイミングが同じだっただけだろう。

 だが、次の日も、その次の日も、一日一回は必ず私が便器に座った瞬間、水の流れる音がするようになった。もしかしたら、トイレの音を聞かれているのかも……。一瞬、便意が止まる。

 だんだんと、トイレに行くのも嫌になり、慢性的に膀胱がヒリヒリと痛むようになった。便秘も酷くなり、同時に血が出るのも当たり前になった。

 

 カンカンカン!

 突然の金属音に、心臓に釘が刺さったような痛みが走るようになった。

 それらの嫌がらせは、娘が幼稚園から帰ってくる午後4時にはパタリと止んだ。


 私は怒りで気が狂いそうになった。慰謝料を請求してやりたい。でも、誰に?警察は、動いてくれない。



 ある日、洗濯物を取り込む時、買ったばかりの下着がなくなっていることに気がついた。さすがに下着は新品でも洗いたい。だから、洗って干したのをよく覚えていた。それが、無い。

 そこまでするのか……。さすがにこれは、犯罪だ。警察も動くだろう。だが……。前の対応からしてどうなのだろう。やはり、証拠があったほうがいいのではないだろうか。

 私は、昼の空いた時間に寝ることにし、夜通し見張ることにした。犯罪者は、自分の犯行現場に再び戻るという。成功体験は忘れわれないだろう。きっと、また来る。その時、お前は終わりだ。

 夫と娘が寝静まったのを見届けると、私はカメラを構え、洗濯物の見える窓の前に陣取った。

 深夜、三時。カサカサ、と外から音が聞こえてきた。街灯の明かりを受け、動いている人間の姿がうっすらカーテンに映りこむ。

 きた。カサカサいう音が、もっと大きくなる。その音は、まさにピンチハンガーを動かした時のそれだった。

 私の鼓動が痛いほど速くなる。カメラを持った、手が震える。勇んで張り込んではいたものの、いざとなると、少しだけカーテンを動かして、外を覗くことすらためらわれた。

 ……怖い……。少しでもカーテンを動かしたその瞬間、相手に気付かれたら……。こんな静かな、真っ暗闇で、男と目が合ったら……。顔を覚えられ、逆恨みされたあげく、警察にも捕まえられなかったら……。捕まえられたとしても、下着泥棒など執行猶予か、刑務所に入ったとしてもすぐに出てくるのだろう。復讐しに、刑務所を出たその足で、ここへやってくるかもしれない……。

 気付いたら、カーテンを一ミリも開けることの出来ないまま、私はずっと同じ姿勢のまま固まり、気付けば外は明るくなっていた。

 ほっとし、金縛りが解けたように動けるようになった私は、カーテンをそっと開ける。

 当然だが、もう人はいなかった。犯人を釣るために干しておいた下着さえあれば、無かったことに出来る。深夜に聞いた物音も、猫か何かだったのだと……。

 だが、下着は無かった。Tシャツなどを全面に干し、下着の両脇もシャツやバスタオルなどで囲い、見えなくしていた。それでも、取っていくのか……。見えないように干している、女の気持ちなど、微塵も感じないのだろう。私が嫌がっている、という気持ちなど、何も通じない。いや、嫌がるだろうということが分かってて、やっているのだ。これが、現実だ。

 とてつもなく、怒りが湧いてきた。みすみす下着を犯人にくれてやった自分にも、こんなクソみたいな人物を生み出し平気な顔をしている社会にも。今度こそ、今度こそ捕まえてやる。

 翌、深夜、また張り込んだ。深夜三時、カチャカチャと音が鳴る。来た。今度こそ、こいつの姿をカメラに捉え、警察に突きだしてやる。

 そっとカーテンを開けて外を覗いた。街灯のせいで逆光になっているので、顔や服装の色など見えなかった。ただ、黒いシルエットの人影が、カチャカチャと音を立てている。当然そうだろうと思っていたが、姿形からして男だった。ピンチハンガーに伸ばしたその手が見えた。それが見えた時、ふいに私は怒りで震えた。ただの、人間の手だった。魑魅魍魎のたぐいでは無い。こいつは、他人の下着をこそこそと取っておきながら、昼はご飯を食べ、素知らぬ顔をして普通に暮らしているのだろう。

 許せない!

 男は下着に手を伸ばすことに夢中になっているようだった。今なら、いける。ガラス越しにシャッターを押したって、ガラスに光が反射して何も写らないかもしれない。私はそっと窓を開けた。撮影できるだけの幅だけ、音をたてないように、気付かれないように……。こいつの出すカチャカチャ音にまぎれて、聞こえないように……。いつの間にか、カチャカチャ音は止み、シン、と静かになっていた。しまった、もう下着を取られて、こいつは逃げ去ってしまったか……。

 慌てて、窓を勢いよく開けた。そこに、男が立っていた。その真っ黒いシルエットは、私のほうを、正面向いて、ただ突っ立っていた。まるで豹のような素早さで、男が私に掴みかかってきた。私は、咄嗟に持っていたカメラを男の頭に打ち付けた。レンズが砕ける音がする。一瞬、男の動きが止まる。ケダモノのような、深い呼吸音が聞こえた。

 殺される……。

 間近で見た男の顔は、私が予想した隣家のそれでは無かった。そこにあったのは、刑務所に入ったり、警察を相手にすることをなんとも思わない、感情のない、ただどす黒い目がついているだけの見知らぬ男の顔だった。

 後悔した。こんなケダモノを捕まえようなどと、私には無理だったのだ。普段、警察に捕まらないように些細なことを、まるで子供の遊びのように無邪気にやってくる連中とは、顔つきから佇まい、何もかも違っていた。

 何よ!何で私がこんな目に合うのよ!

 男が拳を振り上げた。脳天に受けた脳ミソが飛び出るほどの衝撃に、私は気を失った。

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