第15話

矢歯海岸にいた男性の独白




 僕は、今、冬の日本海に打ち付ける荒波を見ていた。波打ち際に出来た白い泡が、まるで地獄の底にいる悪魔に引きづられるかのように消え、力を込め再び砂浜を襲ってくる。

 ゴツゴツした岩場に座りながら、僕は日々のバイト生活で酷使し疲弊しているふくらはぎを揉んだ。

 自然を眺めていれば癒される、と思ったのだが、一人で眺める荒波は余計に体を緊張させ、疲労が増していくようだった。

 一人でそんな風景をぼんやり眺めていると、どうしても、もう二十年も前の子供の頃にあった嫌な出来事を思い出してしまう。

 僕は兄に続き、兄が生まれた次の年に、二番目に生まれた。

 小学校低学年のある日、主人公に妹のいるアニメを見た僕は、妹か弟が欲しくなり、お母さんに言ってみた。

「ねぇねぇ、僕も妹か弟が欲しい!」

アニメに影響されただけの、ただの何も知らないガキの無邪気な言葉だった。

食卓にいた母は、頬杖をつき、ゆっくりと溜め息をついた後、わざとらしく口角を上げ、意味ありげに微笑を作ってこちらを見た。

「経済的に、うちは二人しか子供は無理だからね」

 ……。『そのうち、コウノトリさんが運んで来てくれるかもね』その程度の、子供向けに発せられるアホのような返事を予想していた僕にとって、その返事は衝撃だった。

 母は、諦めたように溜め息をついた。そして、落胆していた。大人に対するような返事をしてなお、僕に対して本心を見せていなかった。


 ある日、親戚と会う機会があった。親戚一家は、父、母、姉、弟という構成だった。リビングに皆が集まって、それぞれがたわいのない世間話をしていた時、僕の母が何気無く言った。

「いいわね、あなたのとこは、子供の順番がうまくいって。一姫二太郎が、一番子供を育てやすい、って、いうじゃない?」

 僕はその時、一姫二太郎って、どういう意味だろう?と不思議に思っただけだったが、すぐに不穏な空気に気付いた。それきり、母と、話し相手だった親戚のおばさんの会話が途切れてしまったのだ。そして、あきらかに、親戚のおばさんはチラチラとこちらに視線をやり、気にしていた。

 気になった僕は、その後辞典を勉強机の奥から引っ張り出して調べてみた。

 そして、母さんの本心を初めて悟った。

 ……。きっと、母さんは、僕なんかでは無く、女の子が欲しかったのだと。


 僕は、母さんがよく着ていた淡い色の花柄のブラウスが好きだった。その日も学校から家に帰ると母さんはそのブラウスを着て、夕食の準備のために空豆の皮を剥いていた。「ねぇねぇ」と話しかけてみた。その日は話しかけたのは、それが初めてだったにも関わらず、「なんでアンタはいつもいつもそうやって私の邪魔をするの!」と母さんは叫んだ。

 すごい剣幕だった。

 どうして女の子じゃなくてコイツが生まれてきたんだろう、男の子一人、女の子一人だったら完璧な家族だったのに。常日頃そんなことを思っていなきゃ、出て来ない言葉だった。

 兄が生まれてきた時は、まあ、次に女の子が生まれてきてくれればね、その程度に思ったのだろう。だが、次に生まれてきたのは僕だった。

 僕だって、好きで生まれてきたわけじゃない。母の理想の家庭を邪魔したかったわけでは無い。だけど……。生まれてきてしまったからには、好かれる努力をしてみよう。僕がうるさかったのなら黙るし、なんでも言うことをきく。だけど、そんな僕に、母は明らかにイライラし始めた。小癪な存在である僕が、知恵を絞ってそんな小癪なマネをし始めるのが、たまらなくイライラしたのだろう。

ところがそのうち、吹っ切れたような顔をして、「うちの子はおとなしくて聞き分けがいいのよ~」と他人に対して自慢し始めるようになった。僕がその気なら、自分はそれを利用させてもらうわ、そんなふうに気持ちを切り替えたようだった。

 僕は、そんなふうに他人に告げ口するように自慢して欲しかったわけじゃない。ただ、あなたに好かれたいだけなんだ……。

 それなのに、それだけは無理、とばかりに母は僕の行動をいつもあざ笑っていた。

 

いつしか僕は、母親が着ていたブラウスの花柄が、嫌いになっていた。嫌い、という言葉じゃ足りないぐらいかもしれない。嫌悪感、といったほうが僕の気持ちに合っているかもしれない。クラスで女の子が花柄のハンカチを持っているだけで、その女の子がどんなに可愛いくても吐き気を催すようになった。


 僕は何をやっても駄目なんだ、何をやっても人に受け入れてもらえないし、理解してもらえない、そんな心境で学生時代を過ごした僕は、高校を卒業しても自信が持てず、アルバイトをして暮らしていた。こんな毎日、つまらない。そう感じていた頃、バイト先の同僚から、海外で働いてみないか、という話を持ちかけられた。同僚は、いつも職場に白いスーツで来る、清楚な女性だった。

 海外か……。行ってみてもいいかもしれない。そんな怪しげな話に乗るほど、俺は、毎日に嫌気が差していた。こっそりと密入国し、嫌になったらまた同じ方法で自由に帰って来れると白いスーツの同僚は言った。

 僕は列車を乗り継ぎ、指定された海岸へ向かった。人気がなく、崖に囲まれた岩場だ。誰にも見られずに渡航するのにうってつけの場所だった。岩場の影や水平線を眺めるが、まだどこにも船は見えない。

 ……早く着き過ぎたか……。岩場にでも座って待つか、そう思ったその時、後頭部に激しい痛みを感じた。あまりの痛さに転げ回ると、背後に長靴を履いた見知らぬ足があった。

 ……くそ痛え……。人生で初めて味わう痛みに怒りが湧き、僕は相手の足を掴み引き倒した。

「うあっ」

 相手の口から間抜けな声が出たかと思うと、それきり岩場の上に伸びてしまった。

「おい」

 恐る恐る声をかけるが、三十代とおぼしき男は口をだらしなく開け、両の目は何も無い虚空を見ている。人間が、何も無い虚空をただ見続けているのは、ひどく不気味だった。

……死んだのか?……

 まさか、自分が人殺しになるなど、何度生まれ変わっても無いだろうと思っていた。

 靴の先で男の頭を小突くが、力無くグラグラするばかりで、生命力というものが少しも感じられなかった。

 ……マジかよ……。辺りを見渡すが、誰もいない。

 そもそも、何故こいつは僕を襲おうと思ったのか。バイトの同僚に担がれたのか?海外で働ける話など嘘だったのか。……。そうだよな。捕まる危険を犯してまで他人に海外での仕事を紹介するなど、どうかしてる。僕を活動不能にした状態で海外へ連れ出し、臓器売買か、あるいは……。

 もしかしたら、こいつはバイト先の同僚とは何の関係も無く、ただの物盗りか何かだったかもしれない。

 どっちにしろ僕は、もうここで海外に行く船を待つ気になどなれなかった。

 踵を返して帰ろうとした時……。

 遠くの岩場の影に女性が背を向けて立っているのが見えた。僕に海外へ行く仕事を紹介してくれた同僚だ。まさか心配して、様子見に来てくれたのか?よくそちらへ目を凝らした僕は、途端に吐き気を催した。同僚は、淡い花柄のブラウスを着ていた。

 いつも真っ白なシミ一つないスーツを着ていたのに、何故……。

 耳に携帯を当てて、誰かと話しているようだ。

 僕は、吐き気をこらえ、そちらへ歩き出そうとした。

「おい、いたぞ!アイツだ!」

 男の怒鳴り声が聞こえ、振り返ると警察だった。誰だ……。見ていた誰かが、通報したのか。それとも……。同僚を見ると、携帯を下げ、こちらを見てニヤリと笑っているようだった。


あいつ、もしかして……。


 僕は岩場を逃げながら、母のことを思った。僕が捕まったら、悲しんでくれるだろうか……。いや、かつてのように言うだろう、『私の人生の邪魔をしないで!』と。


 僕は、どうすれば良かったのだろう。生まれてきたことを泣いて詫びれば、母の気は済んだのだろうか……。


 そして、母は一度も僕に手を上げなかったことを思った。いや、手を上げなかったというより、触りたくも無かったのだろう。他の家庭の子供がよくしてもらっているように、頭を撫でてもらった記憶など一切無かった。

 ……そんなに、嫌われていたんだな……。

そう思うと、走りながら涙が出てきた。

 僕に手を上げなかったのもきっと……。

 手を上げてしまえば、反射的に今日あの男にしたように僕が反撃してしまうことが母には予想できていたのだろう。

 ……そう、僕は、母に嫌われて、鬱屈が溜まっていた。僕を馬鹿にし続ける母を、僕はきっかけさえ与えられれば……。


 いつの間にか、高い断崖の上まで来ていた。警官たちが、わらわらと群れをなして登ってくる。僕は、誰にも触られたくない。……母にすら、触ってもらえなかったのだから……。誰にも、僕を触らせない。

「つまらない人生だったな……」

 自分の言葉に自分で思わず笑うと、僕は崖から跳んだ。

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