第14話

差乗山で出会った男性の独白



 俺にとって、一番大事なものはダチだけだった。

 親に捨てられた俺は、学校でも先生やクラスの連中に見捨てられていた。先生はいつも俺のやることなすこと鼻で笑い、クラスの連中もそれに倣った。小学校高学年になって、俺だって!と一人で頑張る気持ち持ったって、そういった連中にいなされ、だんだんと、(俺なんか……。そうだよな。親に捨てられた子だもんな)という心境を自然と持つようになった頃、ヤツと出会った。

ヤツ、ナオヤの存在は、そういえば、こんなヤツ、クラスにいたかな……、ぐらいで、ほとんど眼中になかった。鼻で笑ってくる先生や、その取り巻きたちをどうやってギャフンと言わせてやろうか、そればかり頭にあった俺にとっては、あ、そういやこいつ、クラスにいたな、ぐらいの感覚だった。

その日、俺とヤツは、水泳を25メートル泳げなくて残された。先生はテントの下の涼しそうなところで、折り畳み椅子に座り居眠りを決め込んでやがる。

「残されちゃったね、ハハ……」

 おとなしそうな、線の細いナヨナヨしたヤツ、という印象のナオヤが、思いのほか親しげに話しかけてきた。俺は、意外に思った。たまに視界に入るコイツの表情は、いつも俯いていて、口をギュッと結んだ頑なな表情しか見たことなかったからだ。俺は、驚きと共に、認識を改めた。もしかしたら、コイツも、俺と同じで、先生やクラスの中の先生お気に入りの強気な連中と、戦うのに精一杯だったのかもしれない。

「ああ……。残っちまったな……」

そう言葉を返すと、ナオヤは満足気な、どこか安心したような顔をして、バタ足の練習を続けた。

 その日、帰る道が途中まで一緒だということも初めて知り、その日以来、ほぼ毎日一緒に帰るようになった。ナオヤといる時、俺の心は戦闘状態になったり、あるいは自信を喪失させられたり、そんな台風の目の中にいるような状態にさせられずに済んだ。例えるなら、凪だった。あるいは、澄んだ水がコンコンと湧く、オアシス。何故、今まで俺は、コイツの存在を発見出来なかったのだろう。そう思わせられる程だった。

「僕んちはさ、父ちゃんがいないから」

何かの話しのついでに、そうさらっと聞かされた時は、俺はもう、コイツと出会ったのは運命なんだと思った。両親に捨てられ、婆ちゃんと二人でつましく暮らしてる俺と、境遇が似ている。

 ナオヤは、俺にとって、掛け替えの無い存在になった。

 ナオヤのいない学校生活など、もう俺には考えられなかった。

 中学を同じところへ進み、婆ちゃんを亡くした俺は、働かざるを得なくなった。

「バイトでもして、食いつなぐかぁ。俺には、そんな人生がお似合いだろ?」

河原の原っぱの上で、俺は寝そべり、天を見上げた。空は、今日も馬鹿みたいに青いくて広い。天が俺に用意した人生なんて、所詮そんなものだろう。

「トモキ君はさ……。割と手先が器用だと思うんだ。だから、自動車の修理とか、そういうのが似合うと思う……」

いつも、何を発言する時も、ただの世間話でさえ自信無さげに喋るナオヤが、その時だけは、随分とハッキリとした口調で喋った。だから、そのナオヤの言葉は、やけに俺の心に残った。

「まさか……。俺なんかが車の修理とか……。出来るわけねーだろ」

そう言ったものの、時間が経てば経つほど、そのナオヤの言葉は俺の心に根付いた。

……駄目元で、自動車修理工場を面接してみるか……。

 その後、俺は、なんとか自動車修理工場の面接を受かり、働き始めた。どうせミスばかりやってドヤされ、早々に首になるんだろう、そんな俺の予想はいい意味で裏切られた。

俺は、ただただ夢中で仕事をした。少しも、ただ働かされてる、生活のために嫌々やってる、そんな感覚はなかった。ただ楽しくて、一日が過ぎた。そして、職場の先輩たちは、そんな俺を温かい目で見てくれた。あの学校での、地獄の日々が、何だったのかと思えるぐらい。あの学校での日々は、悪い夢か何かだったのか。

 あるいは今という現実のほうが、すぐに泡と消えてしまう夢なのか。

ただのバイトをしてその日暮しするような人生を選んでいたら、一体どうなっていただろうと思うと、怖気が震えた。

 もし俺が就職せずバイトでその日暮らしをしていたとして、バイト先には、親の金で学校に通ってる高校生や大学生がくる。また、学校時代の延長だ。無邪気なヒエラルキーで、傷つけられるつもりも無く、俺は、傷つけられていたはずだ。そして、どこにも居場所が無く、転々として……。金に困ったあげく……。そこまで想像して、俺は、ゾッとして身震いした。

 ……ナオヤのおかげだ。親に捨てられ、教師やクラスの連中にも見捨てられてきた俺を、ナオヤだけは見捨てはしなかった。

……ナオヤだけは……。ナオヤに何かあったら俺は……。ナオヤだけは、幸せな人生を送ってほしい。

 しばらくは、仕事に慣れるのに必死で、休日はただただ寝て疲れをとるだけで終わった。

 数年ほど経って、やっと、休みの日に昼過ぎまで寝ることなく目覚め、今日は一日何しようか、と考える余裕が出来てきた頃、俺の頭に浮かんだのは、ナオヤの顔だった。

 ナオヤは、母ちゃんに言われて高校だけは行って、それぐらいの金はなんとかするから、と懇願されて、公立高校に進んでいたはずだった。

 慣れない仕事に疲れている、というのは、言い訳だった。やっぱり俺は、高校に行かせてもらえるアイツが心のどっかで羨ましかった。そしてその醜い感情を、親友であるアイツに悟られるのは嫌だった。俺のそんな醜い感情など、アイツの楽しい高校生活には邪魔でしかないだろう。アイツにはアイツの生きる道があり、俺には俺の生きる道がある。それでいい。

 そう思っていたが、免許を取れる年になり、中古だが車を買うと、気持ちに余裕が出てきたのか、無性にナオヤに会いたくなってきた。

 あいつが制服なんぞ着て、いっぱしの高校生として澄ましてやがるのかと思うと……。顔がにやけて来た。いっちょ、その制服姿でも拝ませてもらうか……。

 平日に休みだった俺は、夕方、ナオヤの通う学校の門が見える場所に車を停めた。授業の終わったらしい連中が、ぞろぞろと出てくる。だが、待てどくらせどナオヤは出て来ない。業を煮やした俺は、男女二人ずつのグループで出てきた連中を捕まえた。

「ナオヤってやつ、まだ学校にいるか?」

「ナオヤ?……あー」

馬鹿そうな顔をした女が、わざとらしく唇に人差し指を当てる。

「確か、三ヶ月前から学校をバックレてるヤツ?」

 クスクスと笑いが起こる。

「何……?バックレたって、何だよ?」

女の肩を掴むと、汚いゴミでも除けるかのように、手の甲ではらわれた。

「知らねーよ。あんた、アイツの友達?直接聞きゃあいいじゃない」

それだけ言うと、こちらを見ることも無く、楽しそうにキャッキャキャッキャと去って行く。

 ナオヤ……。一体何があったんだ?もしかして、ナオヤの母ちゃんに何かあって、学校が続けられなくなったとか……。


「いや……、そんなんじゃ、無いんだ……」

 相変わらずの団地の狭い一室で、俺は、ナオヤと向き合った。あまり外に出ていないのか、ただでさえ白かった肌が、さらに青白く見える。

「僕、最近、いじめられてさ……。はは、情けないよな……」

 ナオヤが、口の端を上げ、笑う。ツライことを打ち明ける時ほど、ナオヤは無理に笑顔を作るとこを、俺は知っていた。

「ほんとは、僕もトモキのように、中学を出たら働こうと思っていたんだ。だけど、母ちゃんに、どうしても高校だけは行け、金ならなんとかなるから、って懇願されてな……。へへ、母ちゃんの意地だよな。あそこは片親だから、って、言われたくないばかりに、無理して……。それに、乗っかったんだ、一度は、僕も。やっぱり、高校生活に対する憧れはないか、っていったら、嘘になるからな……。でも、やっぱり、キッパリ断るべきだった。僕の中にはもう、頑張って学校生活を送ろうって気概がもう、無かったんだよ」

 ナオヤの瞳が、キラキラ光る。俺は、そんなナオヤを見たくなくて、ナオヤの着ているトレーナーの胸ぐらを掴んだ。

「おい、そんなわけねぇだろ。何であれ、お前をいじめたヤツが悪いに決まってる。言えよ、どこのどいつだ?」


 俺は、嫌がるナオヤを車に乗せ、再び学校の門へ向かった。

「ヤツが出てきたら、言えよ」

 日が暮れて、見えづらくなった門から出てきたのは、五十代ぐらいの白いスーツを来た女だった。

 「あれは?センコーか?」

「うん……。一応、担任」

 ナオヤが浮かない顔で返事する。

「センコーには、相談したのか?」

「したけど……」

 ナオヤは口をギュッと結び黙る。

「何もしてくれなかったんだな?」

 問いかけると、もう何も考えたくないというふうにうつ向いた。

 「あいつに、文句言ってきてやる」

 ナオヤにそう言ってセンコーを振り返ると、横道のない真っ直ぐな道なのに、もう、そいつの姿は無かった。

 「なんだよ、気味ワリィな……」


 前を向くと、門からフラリと男が一人出てきた。ナオヤが隣で息を飲み、体を固くするのが分かった。

「ヤツだな……」

 腰までずり下げたズボンのポケットに手を入れ、クチャクチャと汚ならしく何かを噛みな、ダルそうに靴底を擦るように歩いてくる。道路脇に停めている俺の車を追い越す際、サイドミラーにカバンが当たったが、チッと舌打ちするとこちらを見ることもなく去っていく。俺は、静かに車を走らせ、ヤツの後を着けた。

 ヤツは住宅街を抜け、空き地やあばら家がまばらにある地域に入っていく。

「この辺で話をつけてやる」

俺は、車を降り、空き地の前でヤツを掴まえた。

「ああ?」

 腕を捕まれたヤツが、不機嫌そうに振り返る。

 そして、俺の少し後ろに不安そうに立つナオヤに目をやった。

「なーんだ、モヤシっこのお友達か」

 俺がヤツの右頬を殴ると、ヤツはよろけ空き地の草の上に座り込んだ。

 俺は、ヤツに言ってやった。

「なんだ、よええヤツだな」

 さらに左頬をぶん殴ると、ヤツはペッと唾を吐いた。

「ちょっかい出しても何も言い返して来ないモヤシ君に、暴力男か。いい組み合わせじゃねえか。おホモだちか?」

 俺は、ヤツの腹を蹴る。

 ヤツは地面の上に転がり、口から血をたらしながら言った。

「そいつが、寂しそうなツラしてたからよ……。まあ、浮かれた生活を満喫しようって連中の中に、しけたツラしたヤツがいたから、……まあ、目障りだったんだ。友達の勤めだと思って、かまってあげただけじゃねえか……」

 俺は、ヤツの胸ぐらを掴んだ。

「いいか、寂しそうに見えるのは、てめえの主観であって、ナオヤの問題じゃあねえ。そんなくだらねぇもんで、他人の人生をぐちゃぐちゃに出来る免罪符を得た気になってんじゃあねえよ。……それに、友達はいじめなんかしない。てめえはナオヤの友達なんかじゃない」

 俺は、再びヤツの腹を蹴ると、ヤツは呻き声を上げ、背中を丸めた。

「トモキ君……」

 ナオヤが、後ろから俺に声をかけてくる。

「フン、これぐらいにしといてやる。次、ナオヤに関わったら、命は無いと思え」

 振り返り、帰ろうとすると、背後から汚え笑い声が響き渡った。

「終わったな、お前。顔を覚えたぞ。警察に言ってやる。お前はもう、おしまいだ」

 俺は足を止め、職場の優しい先輩たちを思った。夢中になれる、楽しい仕事のことを思った。そして、それを俺に与えてくれた、ナオヤのことを思った……


「やめて、トモキ!もうやめて!死んじゃう!!」

 気付いたら、俺は、背後からナオヤに羽交い締めにされていた。俺にむちゃくちゃに殴られ蹴られしたヤツは、見たところ、地面に横たわったまま、すでに息をしていないようだった。

「黙っとけよ……。お前さえ黙っておけば、俺らの人生は安泰なんだ……」 

 俺は、ヤツをトランクに積み込むと、途中ホームセンターでスコップを買い、人気の無い山の中へ分け入ってヤツを埋めた。

 そして、車に戻ると、車内で何故かナオヤが泣いていた。

「……どうした?」

 俺の暴力を見て、怖気をふるっちまったか。だが、ナオヤのためを思ったら、これぐらい……。

 下を向いていたナオヤが、キッと顔を上げこちらを見た。その目は、憎悪そのものだった。

「わりぃ。やりすぎた……、よな?ナオヤに嫌われても仕方がな……」

「違う!」

 ナオヤが泣きながら叫んだ。

「どうして今頃会いにきたんだよ!」

 俺は、ハッとした。俺は、ただ、純粋に久しぶりにナオヤに会いたいと思った、だから……。

「今までほったらかしにしておいたくせに、どうして!僕は、寂しかった。高校生と社会人、立場が変わったら、そんなふうにすぐに僕を忘れるんだ、僕はそう思った。僕との付き合いなんか、その程度だったんだ!」

「違う……。俺は、お前が羨ましかったんだ、それで……」

 俺はそう伝えたが、ナオヤの、人を恨むような、かたくなな表情は変わらなかった。

 それを見て、俺は、理解した。

 そうか、俺は、孤独に慣れている。だが、小学生のあの日、ナオヤに話しかける前にナオヤを目にとめたのは俺だ。俺が、ナオヤを孤独じゃなくさせたんだ。

 どうして、俺はナオヤを孤独にした?こいつに、一人ぼっちは無理だったんだ。

「どうして、今頃、会いに来たんだよ。どうせ、車を持ち、運転出来るようになったことを自慢出来る相手が欲しかったんだろ……?」

 ナオヤはしゃくり上げ、鼻を啜った。

 ナオヤにはいつも俺がいた。いつも母ちゃんがいた。こいつに孤独は無理だったんだ。こいつの中の孤独が、増殖し、膨張し、こいつを包み、疑心暗鬼を生み出し周りを見えなくさせた。

 俺だ。俺のせいだ。俺が、こいつを孤独にしたから……。

 かすかに、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。それは、どんどん大きくなるようだった。

 ナオヤはうつむいた。膝の上に置かれた手は、震えていた。

 その手には、携帯電話が握られていた。携帯電話が割れそうなほどの、強い力で……。



「……、その後は、誰でも想像できるような、転落人生っすよ。当然、職も失った。真面目に刑期を努め上げ、三十年経って仮出所で出てきたが……。金に困り、万引き、強盗で再び刑務所入り。嫌気が差した俺は、出所後、ヤツを埋めた山に導かれるようにやってきて、首を吊った」


 トレッキングに来た山で、木の下にしゃがみこむ彼を見つけた私は、話に付き合うことにした。

「刑務所に入っても、俺はナオヤと手紙のやり取りを欠かさなかった。そのうち、ナオヤは結婚して子供も二人出来た……。それでいいんだ、それで。ナオヤには、幸せになってもらわなきゃ……。俺は、ナオヤに一度幸せな人生をもらったのに、棒にふっちまった。アイツが幸せなら、それでいいんだよ……」

 山を吹き抜ける冷たい風が、少し柔らかくなった気がした。

 それにしても、また出てきた白いスーツの女。

「ところで、白いスーツの先生は、どんな人だったかしら?」

「今思い出そうとしても、まるで陽炎のように、よく思い出せねぇんだ。ただ言えるのは、そいつの横顔を見た時は、三十代くらい?と思ったが、後ろ姿は五十代……といか、まるで老婆のようにも見えた。生きているのに、まるで幽霊のような……。とにかく、そいつを見た当時は、普通に生きてる人間だと思ったが、今となってはただ不気味なやつだった、そんな印象しか、残っていない」

「その後、白いスーツの先生に会うことはあったかしら?」

「会いたくもねえな、いじめられてる生徒を見殺しにするセンコーなんか」

 木々を揺らす風が、また冷んやりした。

「……あなたも生まれ変わって、次こそ幸せにならなきゃいけないわよ」

「俺に、幸せな人生なんか、あり得ねえ……」

「だけど、そこでそうして怨念を振り撒いていると、心の弱った人が導かれて、あなたと同じ運命を辿ってしまうのよ?」

 実際、今スマホで調べてみたら、この山は自殺の名所となっていた。

…ああ、よく調べてから来れば良かった。

「そうなんすか……。じゃあ、これ以上は、迷惑をかけられませんね……」

 男性は顔を上げ、青い空を見上げた。

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