第13話

龍離町の橋にて出会った女性の独白



「あっ、痛い」

「あら、ごめんなさい」

 私は慌てて患者の腕から針を抜きやりなおした。

 午前中に起きた、あの突然の出来事に心を乱されて、今日はやること為すこと、上手くいかない。

「はい、採血終わりました~」

「ちょっとー、看護師長さん。看護師長さんでしょ、あなた。さっき、若い看護師に、そう呼ばれてたし。ちゃんと針の先見えてる?もう引退したほうがいいんじゃないの?もうお年みたいだし」

 七十歳の車椅子に座った男性患者が、私に戯れ言を言う。

「やあだー、ちゃんと見えてますよ。」

 私は笑顔を作ってそう言うと、廊下を歩く看護師に声をかけた。

「阿蚊田さーん、患者さんを検査のために一階に連れて行って」

「はーい」

 阿蚊田さんがやって来て男性患者を連れて行くと、溜め息一つついて、さっきの患者の言葉を忘れた。

 患者は具合が悪くて病院にいる。当然だが、機嫌のいい患者など、一人もいない。嫌な言葉の一つや二つ、誰かに言いたくもなるのだ。そんなこと、分かってる。

 私はナースステーションに戻ると、椅子にどっかりと座り深呼吸した。

 ……、いけない、いけない。仕事に集中しなくては。いくら、午前中に来院した、あの女に心を乱されてるとはいえ。

 ……。それにしても、あの女。いけしゃあしゃあと不倫相手の病院に来やがった。私の旦那が経営する病院に。妻である私が看護師として働いてると、知ってのこと?

 …いや、妻が同じところで働いていることは、知らないのだろう。キョロキョロしたり、私のことを探している様子は無かった。

受付を通ってしまった以上、旦那は診ないわけにはいかない。旦那の、顔に脂汗の浮いた、あたふたした表情。それを、口元を押さえながら、フフと何度も笑いをもらし、上目遣いで旦那を見つめる楽しそうな若いバカ女。私には、少し小馬鹿にしている表情のようにも見えた。女は黒いノースリーブの、首元がVの字に開いた胸の形と尻の形がクッキリと出るようなタイトなワンピースを着ていた。

 それで、どうするのかしら、と旦那の様子を遠巻きに見ていた。旦那の、丸い肉厚の耳、少し垂れぎみの目、面長な顔の輪郭。かつて、あんなに愛おしかったものも、今は目につくだに鬱陶しい。旦那は、型通りの問診をして、さっさと薬を出して帰しやがった。ふん。今日の夜にでも落ち合うか、後で電話でもして、病院に来てはいけないよ、と諭すのだろう。

 ……あんなバカそうな女が、言うことなんか聞くだろうか。これからも、何度でも来るに違いない。……きっと、私の旦那が目を白黒させながらも冷静に対応するのが楽しくて。それに、旦那が、私が同じ病院で働いていることも言えば、妻はどいつだとコッソリ探し、私だと特定して、私の反応も楽しむようになるに違いない。あの若いだけが取り柄のようなバカ女に、そんな屈辱的な目に合うのはごめんだった。

 ……外でコッソリ会うだけなら、許していたものを。疲れている時に旦那の相手をしなくて済むので、むしろ好都合だと思って、放っといていた。

 なのに、私の神聖な場所である病院に来るとは……。看護学校を卒業して勤め始めたあの病院で、私は10歳上の旦那と知り合った。その後結婚し、以来二十年、二人の間に子供は出来なかったけど、真面目に働き続けてきた。

 もう許せない。図に乗るあの女を、もう放置してはおけない。

 18時に業務が終わると、私は車のなかで、病院からコッソリ持ち出したメスを眺めた。

いつ見ても美しい。なめらかに、人の皮膚を切る道具。切る場所は、分かってる。首の、頸動脈。一息にやってあげるわ。あまり、苦しまないでしょう……。なんてね。私は一つ、ため息をつく。これは、ただ、もう病院に来ないように、脅しに使えればいい。そう思って用意したもの。大胆に人一人殺すとか、そんなこと……。そんなことが出来れば、何十年も看護師なんかやってはいない。


 ふと、駐車場の脇に植えられた山茶花が視界に入る。若い頃、私が夫に頼んで植えてもらったものだ。植えられたばかりの時は自分の腰ぐらいの高さだったのに、今では二メートルぐらいにはなっているだろうか。鮮やかなピンク色を、どんなに寒い日でも咲かせて目を楽しませてくれていた。車を出て、木に近づく。地面に美しい色の花びらが落ちている。それを私はそっと踏む。花びらが破れ、下のアスファルトの灰色があらわになる。

 なんの、感情も湧かなかった。以前は、車を動かす時も、花びらを踏まないように気をつけていた。

 私はため息をついた。一体私の感情は、どこへ行ってしまったのだろうか。


「あの…」

 ふいに声をかけられ、私はドキリとした。あの女か。振り向くと、白いスーツ姿の女性が立っていた。見たことない女だ。

「はい?」

 ここは病院の裏側にある職員用の駐車場だ。見舞いにでも来て、迷ったのだろうか。

「マーマー」

 女は小さい女の子を連れていた。まだ二、三歳ぐらいだろうか。丸い大きな耳をしている。どこかで見たような…。何故か親近感が湧き、私は微笑んだ。

「あ、すいません、迷っちゃって…」

 女はやはり迷っていたようで、出口を教えると女の子の手を引いてそちらへ向かった。

 どうして、私たちの間には、子が出来なかったのかしら……。自分の子供の手を引くというのは、どんな気分なのだろう。ちょっと貸して、と手を掴む訳にもいかない。

 急に北風が吹き、私の体がブルリと震えた。

 とりあえず、今日は家に帰ろう。私は車へ向かった。 


 家へ帰ると、リビングの戸棚にある若い時に海で撮った写真を伏せた。今は見たくない気分だった。夫の浮気を知ってからも、あの写真さえ飾っておけば、夫のめにつく所にさえ置いておけば、夫はいつか私の元に帰ってくるだろう、そう思っていた。だが、甘かった。

 携帯に夫からのメールが届く。急患で遅くなる、だと。今までに何回このメールが来たことか。後でこっそり確認しても、いつも急患などいなかった。

 写真立てを再び手に取る。無性に怒りが湧いてきて、それを床に投げつけた。大きな音を立てて、ガラスが割れる。写真を拾い、破こうと切れ目を入れ、やめた。この砕けたガラス、誰が掃除するの?結局、私じゃない。馬鹿馬鹿しい。尻拭いするのは私じゃなくて、あの女じゃないの。


 私は再び車に戻った。あの女の存在は、興信所を使って一ヶ月前に把握していた。旦那に見つからないように入れていたダッシュボードから、興信所からもらった報告書を取り出して、女の家の住所を確認する。あまり馴染みの無いの無い土地だ。だけど、近くを車で通ったことはあるので、だいたい、どこに何があるかぐらいは分かる。

 私は、女の家から歩いて二十分ぐらいの、人気の無い場所に車を停めた。携帯電話で地図を見て、だいたいのルートを確認する。

よし、とりあえず、行こう。もし、あの女が家にいなかったら?その時はまた、日を改めればいい。私はメスを入れた黒いトートバッグを掴み、車の外に出た。

 人通りの少なそうな、住宅街の中を歩く。コンビニの前を避けるように、曲がる。万が一、私に脅された女が警察に通報した時ために、防犯カメラに映るわけにはいかない。

女の家は、豪華な一軒家だった。親から受け継いだ家なのだろうか。興信所の調べでは、女はシングルマザーで、三歳の女の子と二人で暮らしているという。……どうせ、見境なくいろんな男とやっては捨てられる、バカ女なんでしょうよ。今日、病院に来た時は、女の子は連れておらず、一人だった。託児所にでも預けてきたのだろうか。まあ、どうでもいい。私には、関係無い。

 女の家の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。なかなか応答しない。いるのか、いないのか。いても、知らない人だと、用心しているのか。

その時、ガチャリとドアが開いた。

「あら、今日行った病院の、看護師さん。どうされたんですか?」

 ……こいつ、意外に記憶力がいい。私は姿を見られていたようだ。少し焦ったが、これは逆に好都合かもしれない。

「あ、こんばんは~。実は、今日渡したお薬に間違いがありましてぇ。新しいお薬お届けに参りましたぁ。お薬についての細かい説明もしなきゃしけないので、あがらせてもらってもいいですかあ?」

 警戒心を抱かせないように、やや語尾を伸ばして、柔らかく話す。

……。まあ、普通の女なら、怪しんで追い返すとこだろう。だけど、このバカ女なら……。

「あっ、そうなんですかぁ。わざわざありがとうございますぅ。どうぞ、お茶でもどうですかぁ?」

 女は、体を横にずらし、口調を私に合わせ、私を入れてくれる。

 …良かった。この女がバカで。私は中に入ると、女がドアを閉めるのを待った。

ガチャリと音を立て、女がドアを閉める。

これで、犯行を誰かに見られる心配もない。

「お宅の病院の院長さんって、ホント素敵ですよねぇ~、優しくて、ダンディーで」

 女がウットリとした表情で、胸の前で手を合わせる。

 ……何が、優しくてダンディーだ。アイツ、この女に何をしてるんだか。

「看護師さんは、院長先生の奥さんに会ったこと、あるんですかぁ?」

 女が、艶のある赤い口紅をオーバーに塗っただらしのない口元をにやつかせる。

もうこれ以上の屈辱はごめんだ。もうばらしてしまおう。私の正体を知ったところで、メスをちらつかせれば、もう病院に来なくなるだろう。

「私よ。私があの人の妻よ」

 女は口に手を当て、驚いたような表情をすると、少し後ずさった。だが、すぐに顎を上げると、私を見下すような目付きをし、馬鹿にするように口の端をあげた。

「あら~、そうだったんですか。あ、今思い出したんですけど、ワタシ、この後来客があるので、薬だけ今すぐ渡して帰ってもらってもいいかしら」

 ……。来客とは、旦那か?旦那が来るのだろうか。残念ね、あなたが旦那に会うことは、もう二度とないわ。

「お薬の説明はちゃんとしないと…。これは義務なの。それに、さっきお茶を入れてくれるって、言いましたよね?」

 女はしぶるように口をとがらせたが、「分かりました、リビングはこちらです」そう言うと、先に立って廊下を歩き出した。

「それにしても、あなたが院長先生の奥さんだったなんてね」

 振り返り気味に、また見下したような目付きで、口の端を上げて笑う。

 その憎たらしい表情に我慢できなくなった私は、低い声で言っていた。

「もう、二度と病院に来ないでちょうだい」

「えっ、どうしてですかぁ~」

 女が、口をとがらせる。その表情で、何でも男に言うことをきかせてきたのだろう。だが、女である私には通用しない。

「いいじゃないですかぁ~。私は患者ですよぉ?これから、何度でも、毎日でもお邪魔するわ」

 最後は、馬鹿みたいに語尾を伸ばさなかった。この女は、本気だ。放っておけば、これから毎日でも病院に来るに違いない。

女がクルリと背を向け、リビングへ向かう。私はバッグからメスを出して、女の顔の前にちらつかせた。

「いい?これで、どうかしら。二度と病院に来ないって、言いなさいよ!」

 女は怯むかと思いきや、メスを見ても、顔色一つ変えなかった。それどころか、甲高い耳障りな声で笑い出した。

「ギャハハ、そんなちゃっちいナイフで、私を脅そうっての。あんたみたいなキモイブスババアのいうことを、この私がどうして聞かなきゃいけないのよ」

 若い女にこけにされて、私のメスを持った手が、怒りで震え出す。

「…それに、あんたはもう、旦那に捨てられたのよ、古いボロ雑巾みたいにね」

 私は、気がついたら、憎たらしいその女の首の頸動脈めがけて、メスを突き立てていた。たまたま立ち位置が良かったおかげで、吹き出した鮮血は私にかからずに済んだ。

 女は、何が起こったのか分からない、といった表情で、ゆっくりと床にくずおれていく。私はしばらく、その様子を眺めた。人を殺すだなんて、そんなことをしたら、きっと後悔の念にかられるのだろう、平素はそう思っていたが、実際に人を殺めた今、私の心には何の感情も沸き起こらなかった。

この出血量なら、すぐに死ぬでしょう。それまでの数秒、自分の行いを後悔しながら死ぬといい。

 その時、小さな足音が聞こえた。玄関からのびる廊下の奥の部屋から姿を表したのは、小さな女の子だった。薄いピンクのワンピースを着て、柔らかそうな茶色の髪を二つに結んでいる。ジーッと、まん丸い目で、私を見ている。顔を見られた。やるしかないか……。足を一歩踏み出した、その時、私は女の子の顔をまじまじと見て、ハッとした。メスを握った手が、無意識にブルブルと震える。頬に、冷たいものを感じた、手の甲で拭うと、それは透明な涙だった。

 ……。なんで、私が泣かなきゃいけないのよ……。

 ゴシゴシと涙を拭い、もう一度、マジマジと女の子の顔を見た。

………………。

 見れば見るほど、旦那にソックリだった。丸い肉厚の耳。少し垂れぎみの目。面長な顔の輪郭。旦那の子であることは、疑いようがなかった。シングルマザーの女が、こんな豪華な一軒家に住んでいることも、そうであれば納得がいく。きっと、旦那が買い与えたのだ。血の繋がった、娘のために。

 私の全身が、頭から爪先まで、ブルブルと震える。


「……お母さん、寝ちゃったの?」

 床にうつ伏せにくずおれたまま動かない母親を見て、女の子が小首を傾げる。

私は、ハッとして目を見開いた。

女の子のその仕草は。旦那が患者に「どうしましたか?」と尋ねる時にやる仕草にソックリだった。私の心臓が、小動物のようにはねあがり、そして、止まってしまったかのように静かになった。


「ねぇ、お母さん、お母さん……」

 さっきの女の子が私を見上げる。え?私?私のことをお母さんと呼んでいるの…?気付けば辺りは白い靄に包まれている。ここは、どこ?女の子が、ポスンと腰を落として座る。カラフルな色の、レジャーシートの上に。

「おい、母さん。早く弁当開けてよ、お腹すいたよ、なあ?」

 女の子の隣には、夫が座っていた。女の子の頭を撫で、優しく顔を覗きこむ。

「え?ああ、そうね……」

 私は二人の隣に座り、持ってきた弁当の蓋を開ける。ハンバーグや唐揚げ、ブロッコリーのサラダ。娘の好きなものを、たくさん用意した。その中でも、娘がとりわけ好きなミニトマトを箸でつまみ上げ、女の子の口に近づける。

「はい、あ~ん」

 その時、箸でつまんだトマトが、何故かどろどろに溶け始めた。真っ赤な血のような液体が、娘の口から首筋にかけて落ちていく。

「何をやってる!おい、お前!」


 我に返ると、そこは女の家で、私は女の子の首に手をかけていた。私は、一体この子に何を?

「おい、お前……」

 後ろから誰かに肩を掴まれ手を離すと、女の子は眠るように床に倒れた。

 ゆっくり振り返ると、そこに夫がいた。私のほうには目もくれず、女の子に近寄る。

「お前、なんてことを…」

 そう言って私を見た夫の顔は、かつて私が愛した人とは似ても似つかない顔だった。  

 ……誰?この人……?

 女の子を抱き上げようと後ろを向いたその首筋に、私はメスを突き立てた。

 

 窓ガラスの外に、誰かが立っている。病院の駐車場で会った、あの白いスーツの女だった。顔は、白くぼやけてよく見えない。ただ、その口が、裂けそうなぐらいに吊り上がり、ニヤッと笑ったのだけは分かった。

 女はどこかへ去っていく。

 私は女の子に近づき、鼻に手をかざした。

 息はある。

 ……。この女の子のことは、やれない。愛する旦那の血を受け継いだこの子を、私はやれない。

「さよなら」

 私は呟き、少女に背を向け、静かにドアを開けると外に出た。


 その後、車に戻り、どこをどう走ったのか、覚えていない。

 気付けば、大きな長い橋を渡っていた。橋の真ん中に、あの白いスーツの女がいた。その口が、真っ赤に裂けそうなぐらいに開くと、ニヤリと笑うのが見えた。

 私は、女を避けようと、ハンドルを切る。車は欄干を突き破り、宙へ浮く。その時、私は初めてこの世の全てのものから解き放たれ、自由になった気がした。




「なるほど、それで、あなたは……」

たまたま通りかかった橋に佇む彼女を見て、私は声をかけた。通常なら、その程度のことでいちいち霊に話かけはしないのだが、彼女は橋の下に繰り返し飛び込んでいたので、気になったのだ。

「あなたに話かけられるまで、私は自分が何故ここにいるのか、思い出せなかったんです。ただ、何か胸に重苦しさがあって、それから逃れたくて、何度も何度も橋に飛び込んできました。飛び込めば、終わりに出来る、そう思っているのに、私の意識はずっとここにある。……どうすれば、終わらせることが、出来るのでしょう?」

「そうね……。ところで、その白いスーツの女に見覚えは?」

 女性は力なく首を振った。

 「あの日初めて会っただけで、どこの誰だか…。今思い出そうとしても、白い顔に裂けた口しか思い出せないんです」

 「とりあえず、私について来てください。女について何か分かるかもしれない。協力してもらえますか?」

 女性は微かにうなずいた。

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