第12話

街角の民家の前でうずくまっていた女の子の話




「ただいま」

 それは、いつもの習慣だった。

 誰もいないのは、分かっていた。

 だけど、言わずにはいられなかった、もしかしたら、母が帰っていて、「おかえり」と、返事をしてくれるかもと思って。

だけど、今日も、そんなことは無かった。

まあ、いつものことだ、仕方ない。二年前、私が中三の時に両親が離婚して以来、ずっとそうなのだから。

 お父さんと、一つ上の姉はいつも私より帰りが遅い。帰っても家に誰もいない寂しさを、紛らわしたかったのかもしれない。

ところが、誰もいないはずの家の中に、その日は何故か人の気配がした。なんとなく、家の中が煙臭い。

 ……もしかして、お母さん?離婚する前、母はいつも気難しい顔をしながら、居間で煙草をふかしていた。

「お母さん?」

 急いで靴を脱ぎ玄関から上がると、居間から人影が出てきた。だが、私の高揚した気持ちは、一瞬で沈んだ。

 ……、違う、お母さんじゃない。居間からヌッと出て来たのは、図体のデカイ男だった。ベージュの作業着のようなツナギを着て、右手は不自然に後ろに回している。

「だっ、誰…ですか?」

 敬語を使ったのは、もしかして父のお客さんかも、と思ったからだ。今日は珍しく、父の帰りが早かったのかも。

「お父さん?いるの?」

 だが、返事は無い。まさか、姉の知り合いってことは……、無いよね?

「お姉ちゃん?」

 男の背後の家の中は、シンとしている。この男だけだ、今家の中にいるのは。

ご、強盗だ。

 男は黙ったまま、無表情で、泰然とした様子で肩を揺らしながら廊下をこちらへ近づいて来る。

 逃げなきゃ。

 慌てて身を翻したせいで、廊下から土間に転げ落ちた私は、玄関のガラスで頭を打った。

派手な音を立てて、破片が外に飛び散る。

痛い。けど、痛がってる場合じゃない。ドアノブに手をかけた、その時、襟首を引っ張っられ、土間に引き倒された。男が私に馬乗りになると、右手に隠し持っていたガムテープで私の口を塞ぎ、抵抗しようと暴れる私の両手と両足をなんなく抑え、ぐるぐる巻きにした。

 右手に隠し持っていたのは、ガムテープだけでは無かった。ナイフを私の顔の前にちらつかせると、低い声で言った。

「騒ぐと、命は無いぞ」

 私は頷いた。とりあえず、今は男の言うことを聞いて、逃げるチャンスをうかがわなくては。

 男が、私の口に張ったテープをはがす。

「このうちには、金目のものなんか無いわよ。残念だったわね。離婚家庭で、片親なの。金なんか、無い。それにここの近所は皆仲がいいから、今の音を聞いて誰かがすぐに飛んでくるわ」

ここまで言えば、諦めてすぐに去るだろうと思った、だが、私の目論見は外れた。

「俺の目的は、金では無い。お前だ」

 私、なの?……。背筋が氷で撫でられたように冷たくなる。

 もしかして、知り合いか……。まじまじと男の顔を見るが、知った顔では無かった。

 何故……?大声を上げようかとも思った。たが、目の前にギラつく鋭いナイフに邪魔をされて、大きな声は出そうも無かった。それに、近所は皆仲がいいというのは、嘘だ。この辺の人間は、皆人見知りで、必要最低限のこと以外、関わろうとしない。きっと今のガラスが割れる音を聞いた人がいたとしても、よくて何が起きたのか遠巻きに確認しに来るぐらいで、ガラスが割れただけだと分かったら、また静かに家に帰っていくだろう。

「お前、俺を、覚えてないのか……」

男はわざとらしく盛大に溜め息をつくと、土間に胡座をかいて座り込んだ。

「……、よ~く見てみろ。次に覚えて無いと言ったら、ナイフがその顔を切り裂くぞ」

 私は泣きそうになりながら、一生懸命に記憶をたどって、頭をフル回転させた。

えーと、あ、用務員さん、……は、もっと小柄で、こんないかつくなかった。……。父の知り合い……。父はめったに人を家に連れて来ない。誰?誰なのよ!いくら考えても、男の顔に見覚えは無かった。

また男が盛大に溜め息をつく。

「お前さ……。悪いことをしたら謝る。これは、人間の基本だよな……。そうだろ?お前は、人に悪いことされても、謝ってもらえなかったら、どう思う?」

悪いこと……。私は記憶に無いこの男に、何か悪いことをしてしまったのだろうか……。

「答えろ!」

「い、嫌です……」

「だよなぁ」

 男がナイフの平で、私の頬をピタピタと叩く。

「じゃあ、謝れ」

「わ、私は、あなたに何もしてません!」

「思い出せと言っただろう!」

 男の手の甲が私の頬に飛んだ。恐怖で閉じた目蓋の裏がフラッシュを浴びたように眩しくなり、すぐに暗闇が訪れた。目を開けると、ゆっくりと時間をかけて、うっすらと視界が戻る。

「何を……」

「お前は、この俺の足を踏んだんだ。そして、謝りもせずに、友達と笑い合いながら去っていった。それ以来、俺はいつ謝ってくれるのかと、お前をつけ回すようになったんだよ。お前は全く気がついていなかったけどな」

「い、いつから……」

「一ヶ月前だ」

「ど、どこで……」

「バスの中でだよ」

 私はいつも、バスに友達と乗って通学している。その時に……?バスが急にブレーキをかけたり、カーブを曲がる時に揺れる時がある。その時に、気付かずに踏んでしまったのだろうか……。

「ご、ごめんなさい、気付かなくて……」

「いいんだよ、今さら、な」

 男が再びナイフで私の頬を叩く。

「それより、お前、高校生の割に、いい身体してんじゃあねえかあ。身体で謝ったら、許してやる」

「あの、私のこと、嫌いなんですよね……?ガムテープ取ってくれたら、土下座して謝りますんで……」

「いや、そこまでしなくていい。それにな……」

 男が私の顔に近づき、耳元に息を吹き掛ける。

「男はな、例え嫌いな女とでもやれるんだ。むしろ、嫌いな女のほうが、気が楽だったりする。凌辱だよ……。辱しめてやるんだ。嫌いな男に体を触られて、死にたくなるだろう……?それがいいんだよ…。興奮する」

……、なんだ、この男。変態だ。サイコパスだ。こんな男にやられるなんて、真っ平ごめんだ。


 それに、足を踏んで謝らなかった……?私なんか、その手のことなんか、毎日、いくらでも我慢してる。バスの中で、バッグが当たっても知らん顔のオバサン。ぶつかっても、ちょっと嬉しそうな顔をするだけで、謝らないオジサン。そんなもんでしょ?人生なんて。

 そりゃ、謝ってくれるんなら謝ってほしいけど、そんな小さなことで立ち止まってうじうじ言ってたら、人生立ち行かない。あなたがそんな態度に出るのなら、私だって今まで私にぶつかって来た人全員に、ナイフ突き付けて回るけど?!

「……、やっぱり、私は謝らないわ。人を許さない、あなたが悪いのよ」

言い終わるやいなや、私の思考がとんだ。真っ白になった視界を取り戻そうと、目をしばたたく。右頬がヒリヒリする。男が右手を痛そうにヒラヒラさせていた。

「俺だって痛いんだよ、お嬢ちゃん」

 痛いなら、やめたらいいのに……。

 だが、何か言う前に、再び私は殴打された。男が私にのし掛かる。私は薄れそうな視界の中、必死に叫んだ。そのうち、喉がナイフで切り裂かれたように声が出なくなったが、誰も駆けつけて来てくれる気配は無い。……もう、死んだほうがマシだ……。私は何度か舌を噛みきろうとしたが、男に気付かれ、口にタオルを入れられた。

 死なせてもくれないの……。男はズボンを上げると、倒れて動けない私の縄をほどいた。証拠隠滅をはかり、そのまま逃げるようだ。最後に、男の後ろに隠していた、うちの包丁を目の前の床に投げてよこす。

「それ、片付けとけよ。あと、誰かに言ったら、また来るからな」

 男が背中を向け、玄関から出て行こうとする。その背中に私はあらんかぎりの力を振り絞り、包丁を突き立てた。うまいこと骨の間を貫通し、深々と刺さった包丁は、男の心臓を貫いたのだろう。男は声を上げることも無く、バッタリと倒れた。

「人殺し!人殺しー!!」

叫び声に驚き、見ると、割れた玄関のガラスの隙間から、白いスーツを着た女が私を見ていた。誰?この人……。近所にこんな全身真っ白いスーツを着て歩いている人なんかいない。私と目が合うと、女はふっと鼻で笑った。何この女……。

「助けてください!今、この男に襲われて……」

 女はその場に佇んでニヤニヤ笑うと、私を無視して去っていった。

 何?あの女……。この状況を見て助けてもくれないの……。

 そっか、世の中って、こういうところなんだ。他人が苦しんでいても、それはその人にとってのちょっとしたスパイス。そんなもんなんだ。

 自分が男に凌辱されたことを、私はもう二度と人に言うつもりはさらさら無かった。言えば、正当防衛が認められるだろう。だけど、その後は、近所や学校中の、好奇の視線にさらされて、二度犯される。そんなのは、ごめんだった。だったら、人殺しのまま、死んだほうがいい。私は、割れたガラスの鋭い縁に、手首を押し付けた。




「あなたは、強いのね。でも、もっと、人の好奇の視線ぐらいはね除ける強さを持って欲しかったわ。まあ、どう考えても、あなたは悪くないのだけど。人間って、好奇で、噂話が好きで、卑しい生き物なのよ。期待しては、生きてないけない」


 霊能師をしている私には、気分転換が必要だ。たまには、静かな住宅街を歩いて、人のぬくもりでも感じたい、そう思ったところ、そうはいかなかったようだ。住宅街に入ってそうそう、目についた廃墟になった空き家の玄関にたたずむ彼女に「見えるんですよね?」と声をかけられてしまった。彼女が佇む玄関のガラスは割れ、そこから黒い液体が滴り落ちていた。

「女は、体を汚れたら、同時に心も殺される。同じ女なら、分かりますよね?それとも、同じ目に合わなきゃ分かりませんか?」

 彼女の目が奥に落ち窪み、そこに真っ黒な眼窩が広がっていく。

「……そうね、同じ体験をしなきゃ、残念ながら人間は……。そんなものかも。でも、悲しみにくれるあなたをどうにかしてあげたいって、それぐらいのことは思うわ」

 私は深く息をついて、天を見上げた。


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