第11話

十暮山で出会った女性



 私は、白い色が、好きだった。全ての迷いや、邪悪さを覆い隠してくれる、秋の空に浮かぶ雲のような眩しいほどの白色が。


 その日、私は、白いロングワンピースを着て出かけることにした。

 行き先は、山の中の銀杏畑。老夫婦が農業を引退後、山を訪れた人に楽しんでもらいたいと、植えたものらしい。コツコツと二人で植え続け、今では百本にもなるという。

 人の噂で聞いて以来、ずっと行きたいと思っていた場所だった。

 今日は、仕事が二連休の一日目。疲れたら、宿に泊まればいい。私は車を走らせた。

一時間半かかって、やっと辿り着いた、何の変哲も無い山。普通の、緑の木が生い茂っているだけの、小さな山。

 噂は、ただの噂だったのか…。人の口にのぼる噂には、二種類ある。本当に凄いもの。あるいは、その逆で、たいしたことないから噂にのぼるもの。たいしたこと無い体験を、人にも押し付けて共犯にしたいから、というのが理由だろう。

 ……、まあ、いい。私は街の人混みと、一日中吸い続ける埃にウンザリしていた。普通の山でも、十分な気分転換になる。

山の麓の、砂利を敷き詰められた駐車スペースに車を停め、林道に向かって歩き出すと、手書きの看板が見えてきた。

『この先、一キロ。銀杏畑』

 ……。一キロか…。大学を卒業し、事務の仕事を始めて早五年。ろくに運動もせず、体がなまっている。今日は、体力作りの日といくか。

 道は、緩やかに勾配し、カーブが続いている。山をぐるりと回るようだ。

ふいに、黒い影が木立の間に見えた気がして、立ち止まる。じっと目を凝らす。そこには、風に揺れる常緑樹の葉っぱがあるだけだ。

 急に、人里離れてこんなところに一人ぼっちできた、自分の今の境遇を思った。ただ、爽快感や解放感を求めて来ただけなのに、山に飲み込まれてしまうような。自分の小ささ……。何故、自分の隣には、誰もいないのだろう。風だけが、自分の周囲を抜け、葉っぱの揺れる音だけを立てて山を駆けめぐっていく。

 ……、やっぱり、行き先は海にすれば良かったか……。鼻だけでは酸素の供給が足りなくなり、だらしなく口を開け、老犬にようにヒイヒイ息をし始めた頃。カーブの先に見えた景色に、私は息をのんだ。そこには、まさに黄色の世界が広がっていた。日常には無い、異世界。顔を上げれば、黄色い葉が涼しい秋風に揺れ、視線を下げれば、風が吹くたび黄色い落ち葉のさざ波が立つ。その音は、サラサラと優しく、心地がいい。

素晴らしいことを考え、実行する人間がいたものだ。老夫婦の素敵な人生を思い、私は思わず目に涙が滲んだ。

 その時、その黄色い世界に白い人影が映った。私は、ハッとした。まるで、鏡を見ているようだった。私と同じ真っ白な、パンツスーツを着ている。相手は私には気付かず、銀杏の木陰に消えた。

 不思議なこともあるものだ……。まさか、ドッペルゲンガーじゃないよね?こっそり回り込んで、もう一回、遠くから顔を見てみようか…。

 一歩動いた私の肩に、誰かが手を置いた。その手は、ずっしりと重く、大きく、私はゾッとして体が震えた。振り払って相手の顔を見ようと思ったが、その手はまるで接着剤で私の肩に張り付いたかのように付いてきた。

「何?!誰よ!」

 声を振り絞ると、重い吐息が耳元でした。

「お前だな。こっちへ来い」

 お前だな?こっちへ来い?全く、言ってる意味が分からない。誰?誰なの?男は、私の肩をガッシリ掴むと、引っ張って歩き出した。有無を言わさない力強さだった。男の手を離そうと両手で掴むが、まるで丸太を掴んでいるようだった。まるで、どうにか出来る気がしない。

「離して!離してよ!」

 黒いスーツを着た熊のような体型の男は、ニヤリと口の端を上げた。

「ほぉ。今さら、心変わりかい?借金の返済のために、身を売るって決心したのは、そっちじゃねえか」

 男が私の腕を掴む。次の瞬間、チクリと痛みが走る。男は、私の腕に注射器を突き立て、得体の知れない液体を私の体内に送り込んでいた。

 視界が滲み、薄暗くなっていく。視界の隅に、私とよく似たあの女の姿が、見えた気がした……。



「それで?」

「それからの記憶は、曖昧です。曖昧なままがいい。思い出したくも無い……」

 美しい白色のロングワンピースを着た女性は、銀杏の木にもたれかかる。

「ドッペルゲンガーだったの?」

「いえ、実在する女性でした。たまたま、服がかぶったんです。彼女と間違えられてしまったんです。連中は、それに気付いても、証拠を隠蔽するために、私にクスリを打ち続け、身体を売らせた……」

 女性は、両腕を組んで、身体を包むようにかき抱いた。

「こことは別の山の中にあるあばら家に閉じ込められた……。そして、病気になると、生きたまま、埋められた」

 女性の唇が震えた。

「私は、死んだら、海に散骨してもらいたい、って思ってたの。でも、それは叶わなかった……。もう、忘れたい、忘れたいの何もかも……」

 銀杏の木にもたれ掛かったまま、女性は空を見上げると、溜め息をついた。

「ところで、その生き物は、何?」

 女性の視線の先では、のっぺらぼうが、銀杏の落ち葉の上に胡座をかき、ボリボリと腹を掻いていた。

「こいつは、あなたを安らかな世界へと導く、道具」

 道具、と言われたのっぺらぼうは、首を私の方へ捻るとフギャッと鼻を鳴らした。

「冗談よ」

 女性は、口元に手を当て、少し、ふふと笑った。

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