第10話
九洲町の橋の上で出会った少年
僕の母親は、僕に依存する人だった。
いつも、僕に構っていた、学校で給食はちゃんと食べたか、中学校の通学に使っている自転車は壊れていないか。僕が聞かれることにウンザリしてお座なりな返事をするようになると、こっそり僕の友達を捕まえて聞いたり、僕のいない時にこっそり自転車をチェックするようになった。そんなことをするぐらいなら、直接僕に聞いてくれ、と悲鳴を上げたくなったが、そうしたら逆戻りだ。どっちにしろ、鬱陶しいことには変わりない。もうちょっと、僕をそっとしてくれないか、いい距離感は保てないのだろうか……。そう思ったが、口には出来なかった。まだ中学一年生の僕にとっては、そんなことを口にして、本当にたった一人の親に見捨てられたら……。やっぱり、それが怖かった。
「お前の母ちゃんってさ、若いよな」
うちに遊びに来て母親を目撃した同級生が言う。
……。若く見えるから、何がいいってんだ?いつまでも若いババアは、僕から見たら、いつでも新しい男を迎えられる準備をしているようで、気持ちが悪い。まあ、ただの偏見だが。母親になったのなら、私は立派な母親です!とばかりに、でんとした貫禄のある見た目になって欲しいものだ。ま、完全な、偏見だけど。母親は工場で働いていた。見た目などどうでもいい仕事のはずなのに、いつも化粧バッチリで仕事に出かけていく母親が気持ち悪かった。
僕にとっては、ちゃんと家族を養ってくれる、親父がいてくれたほうが良かった。
……子供は、親を選べない……。そんな世の中、間違ってるよな。
ある日曜日、午前中のサッカーの部活が終わり、そのままの流れで午後も仲間とサッカーをやって、くたくたに疲れた充実感でいっぱいで家に帰ると、母親がねっとりとした悲しげな表情で僕を迎えた。
居間に座って退屈そうにテレビを見ていた母親が、見返り美人の絵のように顔を半分だけこちらに傾ける。だが、決して僕の目を見ようとはしない。
「ケンちゃん、今日は午後から、ママと遊園地に行こうって、や、く、そ、く、してたじゃない……」
弱々しげにそれだけ言うと、目を合わさないまま、再び視線を見たくもなさそうにテレビに戻した。
……。そんな約束、したっけ……。あ、そう言えば、昨日の晩ごはんの時に、なんかそんなことをゴニョゴニョ言っていたような……。バラエティ番組に夢中で、ろくに聞いていなかった……。それにしても、息子に約束すっぽかされたら、代わりに一緒にお茶する友達ぐらいいないのだろうか。母親のドロリとした表情と感情を見るに、きっと一日中見たくも無いテレビを見て過ごしていたのだろう。……。重い。正直、重い。僕は、母親の旦那か何かなのだろうか……。
他人だったら、とっくに怒鳴り散らしてるんだろう。「干渉すんなよ!」ってな。でも、言えない。やっぱり、親子だから。血が繋がってるから。僕も、母親の性格を半分、受けついでいるから。
ある日、彼女が出来た。僕は、学校への行きも帰りも、彼女に合わせた。彼女と一緒に昼食を食べ、口に食べカスがついてたら拭いてあげ、彼女が家に帰り着く頃、そして寝る前、必ず電話した。
ある日曜日、彼女と朝から夜まで一日中一緒に過ごした。朝待ち合わせして、遊園地へ。昼は喫茶店で軽く食べ、その後はウインドウショッピング。広い芝生のある公園へ言って寝そべり、たわいない話しをして笑った。やたらに彼女のテンションが高く感じたのは、僕との会話を楽しんでくれていたから?
夜はファミレスへ入った。窓際の席に座る。外の道路を走る車のテールランプが、もの悲しく窓ガラスに反射する。
とたんに、彼女のテンションが下がった。公園にいた辺りまでは、無理して笑っているの?と思うぐらいよく喋り、笑っていたのに。
「ねぇ、あなたのお母さん、ムスコンなの?」
ムスコン、という言葉を初めて聞いたが、彼女の中ではマザコンとか、シスコンとか、そういう類いの言葉らしかった。
「なんで?」
「見てよ」
彼女が窓の外を顎でしゃくる。
見ると電柱の影にいた白い服の女が、サッと隠れるのが見えた。
「一日中よ。今日、い、ち、に、ち、じゅう。視線を感じて振り返ると、いつもあの女がいた。遊園地でも、喫茶店の窓の外にも、公園の木々の影にも。気のせいだって思うようにした、だって、せっかくのデートだから。でも、もう限界。もう笑えない。あれ、あなたのお母さん?」
僕は、ダッシュして外へ出た。もし、母だったら、掴みかかって殴り倒してしまうかもしれない。それぐらい、腹の中で何かが沸騰する音がしていた。電柱の影へ周り込む。だが、すでに、そこにあの女はいなかった。母ではなかった、ように思う。だから、席に戻って彼女にそう伝えた。
彼女は納得したように頷いた。だが、その無表情は、酷く疲弊して見えた。
僕も彼女も、家庭が裕福ではなく、携帯電話など夢のまた夢だったので、二人で話し合って交換日記をすることにした。家にいる時、彼女とお喋りしたくて寂しくなっても、日記を読み返すと温かな気持ちになれた。
その日も夜、日記を読んでいて、ふと最後のページに爪跡がついてるのが気になった。翌日、学校で会って彼女に聞いてみても、そんなものは付けて無いと言う。彼女の爪は、桜貝のように短く清潔に切り揃えられていた。
翌々日、ノートを持ち帰った僕は、机の引き出しに入れ、同時に髪の毛を一本挟んでおいた。これで、開けられたら髪の毛がなくなっていて、ノートを見られたかどうかが分かる。僕は風呂へ入った。上がり、部屋へ戻る。はたして、引き出しの髪の毛はなくなっていた。ノートを開く。最後のページは爪跡どころか、かきむしったようにボロボロになっていた。僕は、背筋が寒くなった。台所から、いつものように鼻歌を歌いながら食器を片付ける音が聞こえていた。こんなことをしておきながら、いつものように鼻歌を歌いながら食器の片付けが出来る、母親の神経が分からなかった。
そんな日々を過ごしていたある時、彼女が友達に言っているのを聞いてしまった。「鬱陶しいんだよね」
そして、振られた。最初は、振られる意味が分からなかった。あんなに、愛情を注いだのに、何故?
だが、母親を見て、納得がいった。僕は、母親とは違う人間になれるはずだ、そう信じて生きてきた。だが、中学生にして既に、母親の立派な二世が出来あがっていた。
絶望だ。絶望だった。一刻も早く母親の影響から逃れなくてはいけない。
僕は、図書館へ行き、本屋を巡り、テレビを見ては、中学生でも一人で生きて行ける方法を探った。
ある日、深夜に母親がいない時にテレビを見ていると、ドキュメンタリー番組が流れてきた。都会のホストを扱った番組で、シャンデリアのかかったきらびやかな店内で、高そうなカッコいいスーツを着たホストが「俺なんて中卒だけど月収百万っす。イェー!」とカメラに満面の笑みを向けていた。田舎だと、中卒には肉体労働しかないイメージしかない。
僕は、一つの結論に行きついた、東京だ、と。
ホストでなくても、テレビをつければ、子供でも芸能界で働いてるヤツはいっぱいいたし、あんな大都会なら、仕事ぐらいいくらでもあるはずだ。
僕は、決めた、東京へ行く。もう、母さんの、旦那の代わりをさせられるのは、ごめんだ。
僕は、母さんが夜勤でいない時に、家を出た。夜の闇に紛れれば、きっと誰の目にもつかないはず。僕は、自転車なら二十分で済む駅までの距離を、歩いて歩いてとにかく歩いた。自転車で駅まで行ってそこに放置すれば、駅に行ったのがばれてしまう。自転車には乗れない。田んぼ沿いを歩き、線路を渡って、川沿いに出た。橋を渡り真ん中まで来たところで足が止まる。橋はポツンポツンと街灯があるだけの薄暗いところで、人気は無く、車すら通らなかった。
……、どうした、僕?今ごろになって、怖じけづいたのか。……。まだ、僕、中学生だもんな……。しかも、何のあてもない。ふいに涙が出そうになり、僕は、慌てた。泣いてはいけない、泣いては……。泣いたら、きっと、僕は回れ右して家に帰ってしまう。 ……、それだけは、ごめんだ。低い橋の欄干にもたれかかり、一息つこうとした。その時、足首を強い力で掴まれた。驚いて見ると橋の下から白い手が伸びていて、僕の右足首を掴んでいた。
誰だ?いつから、そんなところにいた?もしかして、ずっと橋にぶら下がっていたのか……?引き離そうと、右足を引っ張る。だがその手の力は強く、まるで僕の足首に接着剤でくっついているかのようだった。右に左に揺り動かし、縦にも振ったが、手は離れない。しつこい!ていうか、なんだ、こいつ。自殺に失敗して必死にぶら下がっているところに、たまたま僕が通りかかったとでもいうのか。ジリジリとその手により、僕は端のほうへ引きずられてゆく。
クソッ!こいつ。死にたいなら一人で死ね!僕は未来に希望溢れる中学生なんだ!
ふいに、めまいが僕を襲う。ぐるぐると、世界が回る。辺りは闇で、どっちが天か地かも分からない……。僕は、しゃがもうとした。
だが、その手の力は、異様に強かった。執念深い何かさえ感じた。……なんだよ、僕が何かしたっていうのかよ……。僕の目に、涙が滲むのを感じた。
欄干に足先がくっついた、その時、白い手の人間の顔が見えた。目や鼻がなく、真っ白だった。ただ、口だけが、裂けるように開き、どす黒い血のような口内が見えていた。
真っ白い服を着ている。生きている人間ではない。
なんだ、こいつは?だが、僕は靴の裏で橋の欄干を支えながら、思った。いくら、こいつの力が強かろうと、僕は赤ちゃんじゃあるまいし、僕の体はこんな10センチ程度しかない欄干の下の隙間を通らない。こいつが幽霊であろうと何だろうと、物理的にここを通れない僕の勝ちだ。
その時、パキン、と何かが折れる音がした。次の瞬間、猛烈な激痛に襲われる。僕の足の甲が、あり得ない方向に折れ曲がっていた。手が、強い力で僕を引く。太ももが欄干の隙間に挟まって、ようやく僕の体は止まった。が、手は止まらなかった。太ももの肉がそげ、白い骨が剥き出しになっていく。
どうして、こんなことが……。あまりの激痛に言葉も出ないまま、気絶しては激痛で再び目を覚ます、それを繰り返し、最後に僕の頭が欄干の隙間にはまった。さすがに、頭蓋骨はどうにもできまい。誰か、通りかかってくれれば。今なら助かる!
ゴキと頭内で音がした。
僕の頭蓋骨は砕けながら、欄干の隙間をヌルリと通った。
泣きそうになった、その時……。何故か、こんにゃくのように僕の体は曲がりくねり、欄干の隙間をヌルッと通った。
その瞬間、体が宙に浮いた。……呆然とし、悲しいと同時に、不思議と、心が冷たく沈んだ。僕は、今、何もかもから、解き放たれて、自由になったのだ……。
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