第9話

八茶浜にいた高校生の独白



 ああ、僕は、今日、初めて女神というものを、現実に見たんだ。

 家で夕食の唐揚げを頬張りながら、僕は、夢心地で先生のことを思い浮かべていた。

 今日から高校二年になる。新鮮だった高校一年を終え、まだ受験も遠い、中途半端な一年間が始まる。そんなつまらない気持ちを抱えていた僕の視界に、先生はまさに太陽よりもまぶしい光をまとって入ってきた。

「今日から君たちの担任になる、澤賀ミナと言います。よろしくね」

 よく本で、鈴のなる声、という表現を目にするが、一体どんな声なのだろう、といまいちピンと来なかったものだ。だけど今日、僕は理解した、鈴の鳴る声とは、先生の唇から奏でられる音のことをいうのだと。


 唐揚げを頬張りながら、ふと、母さんの不思議そうに僕を見る目に気付き、僕は視線をそらした。僕の母は、妙に勘のいいところがある。小学生の頃、同じクラスのある子を少しだけ気になり始めたばかりの頃、「あんた、あの娘のこと好きなんでしょ」とズバリ当てられたことがあった。

 その時の、小学生のくせに背伸びして異性を意識し始めたことを冷静に指摘された気恥ずかしさといったら……。

 思春期の、現実か夢かも分からない、胸に湧いた恋心など、母親になど知られたくなかった。いや、世界で一番母親に知られたくない。きっと、笑われるに決まっている。

 僕は唐揚げを二、三個いっきに頬張り、それを味噌汁で流し込むと、「ご馳走さま」と声をかけ、この地球上で唯一の自分のオアシスである自室に逃げ込んだ。


 次の日も、その次の日も、僕は授業中、ただ先生の姿だけを脇目もふらずに見続けた。授業の内容など、全く頭に入って来なかった。若くて美人な先生だから、クラスの連中の質問大会が始まることもあったけど、僕はその輪の中に入ることは無かった。僕はあいつらのような、ゲスな連中とは違う。僕が先生に質問する時は、本気で返事が欲しい時だけだ。


 そんな夢見心地な日々を過ごしていたある日の学校の帰り道、路地裏の垣根の下で子猫を見つけた。灰色のシマシマの小さな子猫で、僕が近づくとミーミーと鳴き寄ってくる。人懐っこい子だ。僕はコンビニでキャットフードを買ってくると、子猫にあげた。小さな口を開け、豪快にムシャムシャとがっつくその姿に思わず頬が弛む。

「可愛いな、お前」

 頭の柔らかい毛を撫でてやり、僕の指が子猫の首にかかる。その柔毛の下の首の細さに、僕の手が止まる。先生の首筋も、こんなに細くて柔らかいのかな…?

 「あ、痛っ!」

 気付くと、子猫は僕の指を噛んでいた。シャーッという威嚇の声と共に、つぶらな瞳で僕を睨み付ける。

 「分かった、分かった、変な妄想押し付けて悪かったよ」

 僕はその場を退散した。



 ……。どんなに知られたくないと思っていても、人の心は露呈する時には露呈するものだ。

 僕は一ヶ月たった頃には成績が格段に落ちて、ある日先生に職員室に呼ばれた。

「君、一年生の時から比べると、随分成績が落ちてるけど…」

 先生の瞳が、少し濡れて光ったように、僕には見えた。

「何か……、悩みでもあるの?」

 僕は、少し感動した。先生は、僕のことを本気で心配してくれている……。他の先生なら、頭ごなしに叱っているところだ。

 ……先生のことが、頭から離れなくて…。

 その言葉が口から出そうになって、僕の唇が少し震えた。

 ……、もう、言ってしまおうか。言ってしまったら、きっと楽になる。

「ねぇ、藁鷺くん、悩みがあるなら、言ってくれてもいいのよ……?」

 先生の声に、表情に、少し失望の色が混ざる。先生に失望など、僕は一ミリもされたくなかった。僕の頭の中が、一瞬真っ白になる…。

「……、先生、僕は、先生が、好きなんです……」

 言ってしまっていた。そして、後悔した。一体僕は、何を言っているのだろう……。慌てて辺りをそっと見渡す。幸いなことに、僕の小さな声を聞き咎めた人物は、辺りにはいないようで、ほっとした。後は、先生に頼むだけだ、今のは聞かなかったことにしてくれと。こんなガキの言うことなど、きっと笑って無かったことにしてくれるだろう。

 僕は先生の顔を見た。そして、驚いた。先生は、少し頬を染め、うつむいていた。……、もしかして……?

「放課後、先生の車のとこに来てちょうだい」

 それだけ言うと、先生は椅子ごと回りクルリと背を向けた。


 その日の夜のことは、今思い返そうとしても、よく思い出せない。霧のかかったような、靄に包まれているかのような、途切れ途切れの残像……。あの夜のことは、本当に自分の身に起きたことなのだろうか。

 

 先生がやって来て運転席に乗り込むと、僕は人目を避けるように後部座席に乗り込んだ。車は埃だらけの街を走り抜け、辺りはだんだん薄暗くなり、しばらくすると人気のない田舎道を走っていた。暗闇にポツンと星のように佇む自販機で僕は先生と僕の分、二つの缶コーヒーを買うと、今度は助手席に乗り込み、再び車は走り出す。

 車はいつの間にか舗装された道路をはずれ、砂と草だらけの道をガタゴトと進む。やがて松林に阻まれた行き止まりで、先生は車を停めた。ここは、恋愛経験の無い僕でも、噂に聞いたことのある場所だった。お金の無い若い恋人たち、あるいは、道ならぬ恋をしている人たちが夜な夜なやってくる、小さな砂浜の逢い引きスポット……。

 先生は車を停めると、ふいにダッシュボードを開けた。そこには、リンゴと果物ナイフが入っていた。車に乗っていながら、ナイフとリンゴが出現するという不思議な取り合わせに見入っていると、先生は手慣れた様子で皮をむき、僕に差し出した。

「先生は、いつもそこにナイフとリンゴを入れているの?」

 僕が尋ねると、先生は小さな口でシャクリとリンゴを一口噛み、ふふと笑った。

「何か嫌なことがあったり、気持ちがくさくさした時に、この私だけの空間に逃げ込んで、丁寧にリンゴを剥き、そのみずみずしさを、ゆっくり味わうの。そうすると、自分で無理して自分を鼓舞しなくても、自然と気持ちが落ち着いてくる。私には、時々、そういう時間が必要なの」

 先生が目を伏せると、その長い睫毛が作る影のせいか、不思議と悲しそうな表情に見えた。

「それに、護身用にもなるしね」

 先生は、その悲しそうな表情の中に、少し笑みを浮かべる。

 身に危険の及ぶような、何か悲しい出来事が過去にあったのだろうか。

 僕は、常日頃から、自分より小さく弱い生き物に接するのが苦手だった。僕が、機嫌を損ねた時に、自分が相手に対してどう出るか分からないからだ。自分の気分一つで相手を死に追いやることがあるかもしれない、それが怖かった。だから、犬や猫を見て可愛いとは思っても、実際に飼いたいと思うことは無かった。

 先生は、僕より体は小さい。でも、そう感じたことは無かった。先生は偉大で、僕の心の大部分を占める存在だった。それはきっと、先生が心の中に常にナイフを持っているからなのかもしれない、僕は、そう思った。 

 松林の中を二人で歩く間、先生が、そっと体を寄せてくる…、ただそれだけのことに、僕の心は宙を舞った。

 砂浜の砂はサラサラでとても優しく、宵の空にまたたく一番星は静かに僕に何かを告げる。押し寄せては引いていく波の音が、否応なく僕の気持ちを昂らせていく。

 ……、先生、好きだ……!

 僕の中の気持ちが、とうとう爆発した。僕は、優しく先生を抱き寄せ、包む。

 ……先生、僕は、先生のことを、一生、守るよ……。



「アンタ、これは何よ」

 ある日、いつもの夕飯の時間に、食卓に食事はなく、代わりに母親は写真をテーブルに叩き付けた。

 その薄暗い不鮮明な写真には、僕と先生が車に乗っている様子が写っていた。

 ……。やり方が、汚い。何か疑っていたのなら、僕に直接聞けばいいじゃないか。こそこそと僕のやることを嗅ぎ回ったりして……。気持ち悪い。僕は頭に血が上り、血管の一本や二本、プチプチと千切れる音が聞こえた。

 母親が、色が無いガラス玉のような硬い目で、僕を見下げた。

「気持ち悪い……」

 僕の感情のはずなのに、母親はそれを口にした。僕の感情を抑え込み、優位に立とうとする母の常套手段だった。僕は母親の、そういうやり方が、本当の本当に嫌いだった。だけど、効果があるのは事実だった。僕は、僕の感情を先回りして言われたことで、自分の感情の行き場を失った。

「お父さんが立場のある人だから、こういうことは、例え表に出たとしても、揉み消してもらえるけど……。そうなる前で良かったわ」

 良かった、だと?誰が、何のために良かったんだ?僕は、先生と恋愛がしたいだけなのに……。それを、良かったなどと抜かして邪魔してくるコイツは一体何なのだろう。僕は先生を好きになり、先生も僕を好きでいてくれる。これ以上の奇跡は、きっともう、二度と僕の人生では起こらない。

「先生にも直談判に行ったから。別れてくれるように、ってね」

 僕は、腹の中でせせら笑った。僕とあんなに素晴らしく愛し合った先生が、こんなババアごときに何か言われたぐらいで、僕と別れるはずがない。僕は無言で部屋に戻った。

 一人静かに落ち着いてみると、やはり心の奥底では焦っていた。どうして心の中がこんなに気持ちの悪い感情で満たされるのだろう。口元が、無理矢理笑おうとする。そうやってバランスを取らないと、辛くて心が潰れそうだった。勝手に僕の脳がそう判断したのだ。自分の体にさえ、裏切られた感じがした。なぜ人は、思うがままに居られないのたろう。

 家でジッとしていると気がおかしくなりそうで、僕は外に出てひたすら歩いた。気付けば、あの子猫のいる茂みに来ていた。誰かが与えたのだろう、カリカリの横で、子猫は気持ちよさそうに寝ている。

 「お前、ご飯もらえて、良かったな」

 声をかけ首を触ると、子猫はうっすら目を開けて僕をみたあと、またリラックスして寝始めた。

 「お前、なんで…」

 なんとなく、僕は涙が出そうになった。僕は今、この細い首など、今すぐに握りつぶせる、そんな考えが頭の中を支配して離れなかった。それなのに、この子猫は、信頼できる人間であるかのように、僕に身を任せている……。

 背筋に、薄ら寒さを感じた。自分自身という人間が、信じられなくなりそうだった。

 「さようなら」

 僕はその場を離れた。


「ごめんね。藁鷺くんとは、もう別れなきゃいけないの……」

 いつもの松林の手前で停められた車の中で、先生の言葉を、僕は信じられない思いで聞いていた。あんな……、たかが一人のババアに、なんだかんだ言われたぐらいで?先生の気持ちは、そんなもんだったのか?松林の間をぬって聞こえてくる波の音が、今は本当に薄気味悪く、気持ちの悪いものに思えた。僕は、先生の顔をそっと見た。その顔には、作ったような申し訳なさそうな表情が浮かんでいた。僕は驚愕した。あり得なかった。僕の、人生初めての恋が、そんな安っぽい表情で終わってしまうなど……。僕は、その時理解した。僕のことなど、先生は遊びだったのだと。ほんのちょっぴり、先生の人生に舞い降りてきたスパイス程度のものだったのだ。

「先生……、先生は、…僕のこと、好き、だったんだよね……?」

 僕は、震える声を抑えようと努めながら、質問をした。

 先生は何も答えず、窓の外の暗闇を眺め、口角を、ギュッと結んだ。


 その後のことは、よく覚えていない。気がついたら家の近くの路上で、先生の車から降りていた。こちらに一瞥をくれることも無く、先生の車は去っていく。はは。笑いたくもないのに、何故か僕は笑った。笑いでもしないと、やっていられなかった。無理だ、と思った。僕はもう今まで通りになんか、生きていけない。僕は、いつから孤独だった?夜の闇の中、僕に優しい言葉をかけてくれる人など一人もいず、僕の心は押し潰されそうだった。

 ……そうだ、あの子猫を飼おう。そうすれば、僕のこの孤独も癒されるはずだ。


「母さん、猫飼いたいんだけど」

 リビングででテレビを見ていた母親にそう声をかけると、たったその一言を聞いた母親は目を吊り上げて振り向いた。

「猫?そんなもん飼ってなんになるっていうのよ!家中が毛だらけになるだけじゃない。一体、誰が面倒みるっていうのよ。どうせ私でしょ?!ふざけないで」

 誰かのたった一言で、そこまで怒れるものなのか。僕はただ感心して、母親を見ていた。

「面倒は、僕が全部みるから」

「いいえ、口だけだね。アンタは、絶対面倒なんかみない。結局そのうち、全部私が面倒をみるはめになるんだ」

 一体何故、そんなふうに断言できるのだろう。不確定な未来をそうやって決めつける母親に、薄ら寒さを感じた。

「そんなに飼いたいなら、今すぐ一人暮らしを始めて飼えばいい。アンタなんか、気付いてもいないんだろうけど、もう働ける年齢なんだよ?中学出て立派に働いてる子だっていっぱい世の中にはいる。勘違いしているようだけど、ここはアンタの家じゃない。父さんと私が働いて、二人で建てた二人の家だ。猫飼いたいなら、出ていきな。ここに居たいなら、猫は飼えない。分かったね」

 それだけ言うと、再び前を向き、テレビに集中し始めた。

 母さんが、働いていた、だって?気まぐれにスーパーや花屋でパートを始めては、なんだかんだと愚痴を言い出してすぐに辞めてたくせに。でも、あまりそのことは、母には言えなかった。母は生理が重いようで、月のうち一週間は寝室で寝込んでいる。そんな人に、あまり無理は言えなかった。


 翌朝、頭が鉛のように重く、視界が暗く、起き上がるのが苦痛だった。こんなことは、人生で初めてだった。まさか失恋ごときで自分がこんなことになるなんて。自分で自分

馬鹿にして、ようやく布団から体を引き剥がした。

 どうすれば、以前と同じ日常に戻れるだろう。とりあえず僕は、平気なふりして、いつも通り、いつもの時間にバスに乗って通学することにした。いつものように、朝日が道路を照らし、ビルに隠れる。その単調な繰り返しに、普段は穏やかさを感じていた。でも今は、何故かイライラする。太陽なんか無ければいいのに、と思う。照らしたり影ったり、全く鬱陶しい。ふいに、すぐそばで携帯の着信音が鳴った。隣に座っていた白いスーツの女が電話に出る。

「ああ、私だ。……、いいじゃないか、やっちまえよ」

 女は電話口で話を聞き、頷きながら、「やっちまえ、やっちまえ」と繰り返す。うるさいな、と思ったが、僕は窓側で、席を立てない。だんだんと、その言葉は僕に言われているような気持ちになってきた。


 やっちまえ、やっちまえよ………。 


 平静を装い、教室に入り、以前と同じように何気なく自分の席に座ってみる。自然だ。誰も自分のことを、不審な様子で見てはいない。この調子だ。こうやって、少しずつ、以前と同じ生活を取り戻すんだ。机の上に教科書を広げ、気を紛らわすために読もうと思ったが、文字の上を目が滑るだけで、何一つ頭に入って来なかった。先生が教室に入って来る。いつもと変わらないその様子に、何故か僕の体は震えた。僕のほうを、一切見ようともしない。僕は、孤独だ。僕は、いつから、こんなに孤独だった?

 先生の、Yシャツとカーディガンに包まれた胸の形を、スカートの下のお尻の柔らかさを僕は知っている。それが、いつか他の男のものになるなどと…。そんなこと、許せない!


「……おい、藁。藁ってば……」

 いつからか、右隣の席のやつが、僕に声をかけていた。僕を見て、あきれたような表情をしている。なんだ?こいつにそんな表情をされるようなことをした覚えはないんだが。

その時、左隣の席の女が、息を飲む気配がした。振り向くと、そいつの後ろの席の女と、顔を見合せ、こっちを見ながらコソコソと何か喋っている。それに呼応したように、だんだん周りがざわつき始めた。皆、僕を見ている。なんなんだ?僕がなんかしたっていうのか。そんなに僕を、悪者扱いしたいのか。

 ふいに、右手に冷たいドロリとした感触を覚えた。真っ赤な、血がついていた。右手で握っていたはずのペンシルが真っ二つに折れ、その尖った破片が手に刺さり血が流れ出していた。

「すいません、保健室に行ってきます」

 まだ気付いていない先生の背中にそう声をかけると、先生が振り向くのを待たずに僕は教室を出た。

 誰もいない、シンとした殺風景な冷たい廊下を歩きながら、僕は思った、僕には、以前の先生を知らなかった時の生活に戻ることなど無理なんだと。


 保健室には行かず、そのまま学校の外に出て空を見上げ、僕は息を吐いた。もうここは、僕の居場所では無くなってしまった。僕が変わったのか、世界が変わったのか。僕のしたことはいいことなのか、悪いことなのか。そもそも、人のやることを、いい、悪いなどと陳腐な考えで判断すべきなのか。

 僕は地面を見下ろし、もう一度息を吐いた。

 もう、どうでもいい、何もかもが。

 行くあてもなく歩いていると、少し気持ちが落ち着いてきた。指をみると、もう血がどす黒くなり、固まってきていた。

 どうでもいいと言うのに、僕の体は、僕を修復しようとしてくる。

 じゃあ、心は誰が修復してくれる?

 僕の足は、自然とあの子猫のいる茂みに向かっていた。

 見えてきた、道路脇の、植え込み。そのそばに、白いスーツ姿の女が立っていた。立ったまま、植え込みの方を向いて立っている。

 あの人は、前バスで乗り合わせた人と同じ人だろうか。真っ白いスーツ姿の女など、そうそういない。

 女は、少しこちらを振り向きかけた後、きびすを返すと立ち去った。

 あの人も、子猫にご飯あげてたんだったりして。少し冷たそうな印象を持った女の姿に、ちょっとほっこりしたものを感じた。

 なんだ、僕と一緒で、猫好きなんだ。

 僕は、これから子猫の成長を楽しみに生きていけばいい。

 女が、立ち去った後の茂みに、僕は近づいた。何故か、子猫がいるはずのその辺り一帯だけが、灰色のモヤでもかかったように薄暗く見えた。日差しが柔らかく当たっているのに。何故かそこだけ、時の流れが止まってしまったかのように、シンとしていた。

 そして、それを見つけた時、僕の息が止まった。

 子猫の姿を、見つけた。横たわっていて、動かない。寝ているのだろうか。なんだか、様子がおかしい。子猫の体表が、乾いているような。

 僕は少し息を吸い、もっと近づいてみた。子猫の目は、開いていた。そして、その幼いつぶらな瞳は灰色に濁って色あせ、ただ虚空をぼんやりと見つめていた。いつまでも、いつまでも。

 ……死んで、しまったのか……。

 そっと触ってみると、それは、冷たく、固く、石と変わらない存在になってしまっていた。

 触ってしまった自分の指先も、冷たく、壊死してしまったかのように感じられた。

 ……。そうか、そうだな。生きているものは、いつか死ぬ。遅いか、早いか、ただ、それだけの違いだ。僕は、そっと子猫の目を閉じた。


 先生が、頬を抑えて倒れ込んだ。僕は、気付いたら、手が出ていた。痛みなど、感じなかった。僕は、二発、三発と、手が出ていた。僕は、少しも痛みを感じない。先生がドアを開け、車の外に転がり出る。僕から逃げるなど……。僕から離れるなど、あり得ない。許さない。ダッシュボードを開けると、リンゴと共に、それは静かに凛と佇んでいた。

 

 やっちまえ、やっちまえよ……。

 

 誰かの言葉が脳内にこだました。


 それを掴み、僕は先生の後を追いかけた……。



「気付いたら、先生は動かなくなっていました。どんどん冷たくなっていく先生を、僕はもうどうすることも出来なかった……」

 砂浜に佇む二本の足が、ぼんやりと蜻蛉のように見えた。

「僕はその後、自分の手首を切りました」

 足の影が、さらに薄くなる。

「僕は、ただ、砂浜に埋もれて消えてしまいたい、そう思ったんです。誰にも僕の姿を見られたくない」

 少年の足が、ずぶずぶと砂浜に沈んでいく。

「ハアー……」

 私は思わず溜め息をついた。たまたま気分転換に来た砂浜で、出くわすとは……。私にこの地球上で休みという時間は無いのだろうか。しかも、また白いスーツの女の影と遭遇することになろうとは。

「僕がこんなになってしまった時、もう先生はいませんでした……」

 先生らしき女性の影を探したが、この砂浜のどこにも感じられなかった。

「先生は、もう生まれ変わって、新しい人生を歩んでいるわ」

「僕は、どうしたらいいですか……」

 青年がすすり泣く。

「……痛い…、痛い……。今ごろ痛くて仕方がないんです、心と体が……」

「私がどうにかしてあげるわよ」

 隣にいるのっぺらぼうを見ると、ポリポリと、ありもしない鼻を掻いていた。

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