第8話

七飛海岸



 俺のいつもの散歩コースに突如として現れた彼女は、西日を受けまるで女神のように輝いていた。

 俺は自分の経営してる喫茶店が休みの水曜日、近所の海岸を散歩するのが日課だった。日が傾いてゆき、過ごしやすくなる夕方…。明るいの昼の顔から、何もかもを覆い隠す夜へと、地球はゆっくりと回転しながら変貌を遂げてゆく。その瞬間を目撃できる時だけ、俺は生きていることを実感していた。

 そんな至福の時間に、突如として海から女神が現れた……、ように俺には見えた。実際には、彼女はスーツを着て、サーフィンをしていただけだ。数人の子供たちに教えながら。

 彼女は、サーフィンのインストラクターをしているのだと、俺は推測した。

 俺は彼女を眺める。だが、彼女は一切俺のほうを気にしていない。だから、心ゆくまで彼女を眺めることができた。スーツを着ていても分かる、その素晴らしい身体。

ふいに、彼女が波間からこちらを見たような気がして、俺は視線をそらした。


「ねぇ、牛乳買って来てって、言っといたよね?」

 家に帰るなり、こちらを睨みつける妻の眼光に、さっき見た白昼夢が一気に冷めた。いや、四つの目だ。三歳になる息子も、母親そっくりの険しい目で、まるで俺が不審者であるかのようにジッと見てくる。くるりと回れ右して、再び玄関から出てあの海岸に舞い戻りたくなったが、そんなことをしたら再び罵声が飛んでくるのは目に見えているので、やめにした。

 ため息をつきながら玄関を上がり、ふいに俺の頭の中にウエハースが浮かんだ。何でそんなものが頭の中に思い浮かぶのだろう?

「たっちゃんを風呂にいれてよ!」

 そんな金切り声を背後で聞きながら、俺はどこかの工場のベルトコンベアが物も言わずにただ黙々と商品を運ぶように、息子を抱えると黙って風呂場へ向かう。

 ……そうだ、思い出した。

 子供の時、パフェを頼んだ時に、上に乗っかっていた、アイツだ。あのパサパサの。俺は、パフェに勝手についてくる、あのパサパサのアイツが嫌いだった。

 ……あれと一緒だな。俺の今の心は。溶けたアイスクリームで、どろどろに自分の心の中を満たしたい。そんな欲求が、ここ数年ずっと俺の心の中で膨らみ続けていた。


 翌日のことだった。俺の喫茶店に彼女が現れたのは。白いスーツを着て、まばゆく光り、輝いてるように俺には見えた。

「カフェラテください」

 いつもは緊張などしないのに、その時ばかりは彼女の美しい白いスーツを汚さないように、そればかり考えて運んだ。

 彼女がストローに口をつけて飲む、その様子を見るだけで、久しく妻には感じていないドキドキを覚えた。

 彼女が会計をすませ、また来てくれることを願いながらテーブルに片付けに行くと、白い紙のコースターに数字が書かれて置いてあった。それを見て、再び俺の胸はときめいた。

 店を閉めてから、携帯を取り出し、その番号を押した。

「俺は、結婚してるけど、いいかい?」

 電話口で、彼女はウフフと笑った。

「じゃあ、友達から、お願いするわ」


 そこから、男女の関係になるまでに、時間はかからなかった。

「ねぇ、私とあなた、どっちが先に死ぬか選べるとしたら、あなたはどっちを選ぶ?」

「え?」

 彼女から突然繰り出された質問に、僕はまぬけな返事で返した。

というのも、僕らはその時、ホテルのベッドの中で体をくっ付け合って、まどろみの至福の中にいたのだから。

 一体何だって?

 僕は顔をこすりながら、さっきの質問を頭の中で反芻した。

「だから、私が先に死ぬのと、あなたが先に死ぬのと、あなたはどっちがいい?」

 さっきよりも、随分直接的な言い回しになった。

 そんな質問に意味があるのだろうかと、僕は思った。

 なぜなら、人は自分が死ぬ時など選べないのだから。

 ……たいていの場合は。

「今が幸せなんだから、それでいいじゃないか」

 僕は彼女を抱きしめた。今は、そんな不安になるようなことなど考えたくない。

 一体何だって彼女は、そんな質問をしてきたのだろう。腕の中の彼女を見るが、特にいつもと変わった様子はない。彼女にとっては何気ない質問だったようだ。

 僕は少し後悔した。はぐらかさずに、適当に何でもいいから、すぐに返事をしておけば良かった。はぐらかしてしまったことで、その質問は僕の中で静かに増殖を始めた。


 僕と彼女、どっちが先に死ぬ?そんなのどっちも嫌に決まっている。自分が先に死んで彼女が一人残ってしまうのも心配だし、彼女が先に死んで自分が一人ぼっち取り残されてしまうのも嫌だ。僕が先に死んだら、他にいいやつ見つけろよ、なんて、年をとりすぎていた場合、難しいだろう。それは僕も同然だ。年とった男やもめなど、誰も相手にしないだろう。その前に、僕の場合、他の誰かを見つけようなんて気力、きっと湧かない……。


 彼女が寝返りをうち、僕の心を見透かすような、ガラス玉のような瞳で僕を見つめた。

「死ぬ時は、二人一緒がいいね!」

そう言うと、子供のように無邪気に笑う。

僕もつられて笑ったが、何故か涙が溢れそうになり、そっと彼女に背を向けた。

背中の向こうで、彼女は寝入ってしまったようだった。


 僕の頭の中に、ふいに線路が浮かんだ。その先には、駅も何も無い。地平線は闇に包まれている。こんな想像が頭の中に浮かぶのは、就職活動をしていた頃以来のことだ。先の見えない不安。一緒だ。今が幸せであっても。一生それは付きまとう。逆に今が幸せであればあるほど、不安はそれを糧に増殖し、大きく膨らんでいく。心臓をわしづかみにしていくその感覚に少しでも対抗しようと、僕は小さくため息をついた。


 間もなく、俺と妻は離婚した。それなのに、なかなか彼女は俺との結婚にイエスと言わなかった。やっぱり、あれか、養育費が、ネックになっているのか。それでも、彼女と週一ぐらいでホテルで会うのは、俺の楽しみだった。

 彼女がシャワーを浴びる様子を、曇りガラス越しに眺める。

 彼女はいつも、シャワーだけは一人で浴びたがった。

 ……なんか、いつもの彼女とは違う気がする。なんだか、腰がまがり、背中が丸く、その姿だけ見ていると五十代、いや、六十代のような……。もっと言えぱ、七十代、八十代の老婆のようにも見えた。彼女は、二十歳のはつらつとした女性のはずだ。おかしい。曇りガラスの、模様のせいだろうか。シャワーのしぶきや湿気のせいで、歪んで見えているだけなのかもしれない。

 「ねえ」

 ガラス戸越しに声をかける。

 「は……い……」

 返ってきたその声は、しわがれていて老婆そのものの声だった。

 俺は、そっとホテルの部屋を出た。すぐに、着信拒否にした。


 彼女と会わなくなってからも、あのしわがれた声が脳内にこびりつき、消えることは無かった。




「……、あれから四十年、俺は、元の奥さんに復縁を願い続けたが、叶うことは無かった。息子にも、一度も会わせてもらえなかった。ただの、養育費製造マシーンになるなんて……。あの時、僕の心に湧いた思いは、消えることなく、ずっと燻り続けていたのだと思います」

 狭いアパートの一室で、白髪頭になった旦那さんは、同じく白髪だらけの頭になった元奥さんの首に手をかけながら、泣いていた。

「男女の愛って、難しいものですね……」

 私は声をかけたが、男は振り向くこともなく、ただうつ向きながら、静かに泣き続けていた。

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