第7話
六剛峠で出会った少女
あのね、確かね、んーと、お姉ちゃんと、お母さんと、三人で、車に乗っていたの。
…お父さん?お父さんは、確か、一人で残る、って言って。そう、夜釣りに行く、って言ってた、だから。三人で、おばあちゃんちに出かけたの。
おばあちゃんの家は、車で30分かかる田舎にあったの。それで、おばあちゃんの家に着くと、おばあちゃんが笑顔で迎えてくれて、お菓子とお茶を出してくれた。
同居してる叔父さん、つまり、お母さんの弟に当たる人なんだけど、その人が言ったの。
「さっきスーパーに行ったら、入り口の横に出店があってさ、何売ってるのかと思って見たら、ホタルを売ってたんだよ。でな、そういう店って、がたいのいいニイチャンが店番してると思うだろ?それがさ、そこに座ってたのは、白いパンツスーツを来たいかした女だったんだ」
そういうと、叔父さんは嬉しそうに笑った。叔父さんは、まだ独身だ。やっと叔父さんに恋のチャンスが来たのかと、私たちは顔を見合せ笑った。
「ホタル、見たい!」
お姉ちゃんが言うと、叔父さんが案内するように先に隣の部屋に入り、お姉ちゃん、お母さんがその後に続いた。
虫は、ちょっと苦手……。私はそのまま座ってお茶を飲んでいると、おばあちゃんが私の顔を覗きこんできた。
「最近、何か悩んでないかい?」
その優しい笑みを湛えた顔を見て、私はハッとした。
最近、一番の親友と些細なことでケンカしてしまい、学校で話すことも無くなって、寂しかったのだ。
おばあちゃんは、何でも分かってくれる……。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、私の気持ちには気付かなかったけれど。おばあちゃんは、私の味方でいてくれる。おばあちゃんだけは、私の気持ちの変化に気付いてくれる。それが心強くて、嬉しくて、私は泣きそうになったけれど、大きく息を吸い込んで我慢した。私だって、もう小学五年生なんだ。ちょっとやそっとのことでは泣かない!
「最近、友達とケンカしただけ!でも、もう大丈夫!」
おばあちゃんは、私を見て笑って、軽く頭を撫でてくれた。これも、お母さんにはやってもらった記憶のないことだった。
私はお茶を飲んだ。さっきよりも、甘くて、優しい香りがした。明日には、友達にごめんねが言えそうな気がした。
隣の部屋から、お姉ちゃんが戻ってきた。
「ホタルなのに、光ってない!」
「夜にならないと、光らないんだよ」
その後ろから叔父さんが言う。「どうだい?今日は、暗くなるまでここにいては」
その後ろを着いてきたお母さんが「うーん……」と困ったように呟いた。
お母さんは運転が苦手で、いつも明るいうちに帰っていた。
「お母さん、ホタルが光るの見たい!」
お姉ちゃんが言うと、「そうね、ホタルなんかめったに見れないし、今日は遅くまでいるか!」
夜、暗くなってから見たホタルの光は、とても静かで幻想的で、この世のものとは思えなかった。
その帰り。もう夜になって、辺りは真っ暗だった。家に向かって、お母さんが運転してたんだけど、かえりみち。ワタシとお姉さんは後部座席に座ってた。ワタシは真っ暗な窓の外を見ながら、帰ったら宿題しなきゃな、と思ってユウウツだった。小学五年生になったら、担任になった先生がとても厳しい人で、とにかく帰ったら宿題をしなきゃ、って、そればかりが気がかりだった。お姉ちゃんは、隣で寝てた。中学校は、宿題ないのかな、ノンキでいいな、って、その寝顔を見ながら思ったの。その時、突然だった。真っ直ぐな道の向こうの地平線の上に、月が現れたの、とてもおっきな。フロントガラスの、三分の二をおおうくらい、とてもおっきな、黄色い月。
それまで見たことのある月は、白くてちっちゃくて、暗い空の高いところにボンヤリ浮いてた。…でも、その月は、黄色くて、おっきくて、表面のでこぼこまで、ハッキリ見えた。そのあまりの明るさに、隣でお姉ちゃんが起きるのが分かったの。でも、そっちを見れなかった。目を合わせてしまったら、この不可解な出来事が、真実になってしまうと思ったの。誰とも会話さえしなければ、自分一人の見間違いですむと思った。お母さんは、ハンドルをギュッと握って、ひたすら前を見ていた。誰も、一言も発しなかったの。そのうち、道が峠のゆるやかなカーブにさしかかった。ゆっくりと、月が視界からはずれて、フロントガラスは元の真っ暗な夜空を取り戻したの。とってもホッとした。お母さんとお姉ちゃんも、安堵の吐息をついた気配がした。やっといつもの平穏を取り戻した、そう思った時、わずかに背後から、光が差したの。その光は、どんどん明るくなっていく。無視出来なくなったワタシは、とうとう振り向いた、そこには、リアウインドウをおおいつくさんばかりの、おっきな月があったの。いえ、それは、ハイビームにした車のヘッドライトだった。眩しすぎて、どんな車なのか、運転しているのどんな人なのかもよく見えない。お姉ちゃんとお母さんの、体が固く凍りついたのが気配で分かった。その強い光は、どんどん近づいてくる。車内が昼よりも明るくなって、私は息を飲んだ。光に手をかざして見てみると、運転しているのは白い服を着た女の人のようだった。その顔は白く丸くぼやけていた。
「ボウレイ……」
最近、お姉ちゃんの部屋の床に転がっていたホラーマンガを見て覚えた言葉だ。
再び眠りこけていたお姉ちゃんが、あまりに強い光に目を覚ます。そして、私の言葉を聞いて、サッと振り返った。
「キャーーー!!」
普段おとなしめのお姉ちゃんが、甲高い叫び声を上げた。お姉ちゃんの口から、こんな叫び声を聞いたのは初めてのことだった。
お母さんがチラチラとしかめつらでバックミラーを見ながら、車のスピードを上げる。だけど、どれだけスピードを上げても、後ろの車はピタリとついてきた。
怖い……。
あまりのスピードに、背中が強い力で座席に押し付けられる。峠のカーブを曲がるたびに、遠心力で右に左に振り回され、私は吐き気を催した。
そして、とうとうお母さんが、たまりかねたように叫んだの。
「どうして、ついてくるの?私が何をしたっていうのよ!」
お母さんのかな切声に、ワタシは不安になった。何よりも、聞いたことのない声で叫ぶお母さんが怖かった。背後の光はもっともっと強くなって、車内は真っ白になった。
「キャーーー!!」
再びお姉ちゃんが叫び出す。その悲鳴は長く、やまなかった。あまりの高温に頭が痛くなり、私は耳を塞ぐ。
「ちょっと、お姉ちゃん、落ちついて!」
お母さんが、振り向く。
「ねぇ、お姉ちゃんの口を塞いで!」
私は、お姉ちゃんの口を塞ごうとした。だけど、大きく開いたその口は、私の小さな手では塞ぎきれなかった。
「うるさい!うるさいって言ってるのよ!」
お母さんがまた金切り声を上げる。
その表情は、今まで見たこともなかった。
昔、絵本に出てきた恐い鬼のようだった。
こんなお母さん、知らない。こんなの、お母さんじゃない。
お母さんがハンドルの真ん中を押し続け、クラクションを鳴らした。
お姉ちゃんの悲鳴や、お母さんの罵声よりもうるさい音が鳴り響く。
その時、前方に、白いガードレールが迫っているのが見えた。
お母さん、アブナイ……!
口に出す間もなく、強い衝撃があり、シートベルトがお腹に食い込んで一瞬息が止まる。衝撃のせいで、やっと車内が静かになる。
次の瞬間、体が宙にふわっと浮いた。振り返ると、さっきまで走っていた崖の上の道は遠く、後ろにいた車がそこに停まっていた。
運転席にいる人の白い顔が裂け、ニヤッと笑った気がした。
やっと、あの人から逃れることが出来た。
私たちの車は鳥のように空に浮かび、ふわっと地面に着地するんだ。そんな、いつか見たアニメのシーンを、私は思い浮かべた。
その後のことは、覚えていない。気がついたら、この崖の下にいて、車はぺしゃんこ。お母さんとお姉さんは、うつ向き背中を丸めてただ辺りをうろうろするばかり…。
波音の聞こえる崖の下の砂浜で、体育座りの少女は顔を覆った。
「ワタシたち、どうしたらいいの…?」
「お空に昇るの。そしたらまた、幸せになれるよ」
私が声をかけると、少女は頬を拭い、顔を上げニッコリ微笑んだ。
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