第6話

四素町の病院




 僕は足取り重く、病院へ向かっていた。田舎の、小さな古い洋風の病院。

 足を止め、何度引き返そうかと思った。その度に溜め息をつき、空を見上げる。

 …去年の今頃は、こんなこと無かったのに…。病院へ着く間ももどかしく、駈けていったものだ、病に倒れてなお、優しく迎えてくれるあの笑顔に会いに…。


 病室に着くと、顔を見る前からトゲトゲした声が飛んできた。

「どこ行ってたんだい!あたしゃね、喉が渇いているのに自分で水を飲むことも出来ず、一日中あんたのことをイライラしながら待ってたんだよ!」

 …こんなに待たれて嬉しくないことなどあるだろうか。それに、介護しに来た人間に対して、その言い草は何なんだろう。

 僕にだって仕事があって…。…、そんな、口にするのも疲れる当たり前のことを説明しなきゃいけないのか…。だが、開きかけた僕の口から、言葉が発せられることは無かった。

間髪いれず、生みの母親は僕の手にメモをかいた紙を押し付けてくる。

「あんたが忘れないように、具合が悪いのに書いてやったんだ。さっさと買ってきな」

 思わず溜め息が口から出てしまい、慌てて目の前の老婆の顔を見る。だが、その目はすでに窓の外を向いていて、老人の耳には僕の小さすぎる溜め息は聞こえなかったようだった。

 …むしろ、聞こえてくれたら良かったのにな…。病室を出て廊下を歩きながら僕は思う。いっそ思いっきり嫌われて、もう二度とくるな、とでも言われたい。だが、あの老婆は、最後の砦を自ら壊すようなその一言を、決して言いはしないだろう。

新しい家族にも見捨てられ、顔も覚えていなかった僕に頼ってくるしか無かったのだから。

 …好き放題恋愛して、僕を捨てたくせに…。ポケットの中でグシャグシャと紙の潰れる音がして、僕はハッとなりポケットから拳を出す。手を開き、紙を広げると、あいつの書いたミミズの這ったような文字がかろうじて見えた。

 僕は、物心ついた頃から、育ての親と一緒だった。中学の頃、育ての親が教えてくれた。当然、生みの母親に会いたいと思ったが、育ての親は渋った。その表情を見て、僕は察した、きっと、会ってもろくなことは無いのだろうと。それ以来、育ての父親と母親の前で、その話を出すことは二度と無かった。

 育ての親は、いつも僕を温かく見守ってくれていた。つらいことがあれば、優しく相談に乗ってくれた。育ての父親が一昨年亡くなり、後を追うように育ての母親も去年亡くなった。そんな事情を見すかしたかのように、今年になって生みの母親から連絡が入った、病気になったので、面倒を見てくれ、と。何を今さら、と思った。だが、時間が経つにつれ、もしかしたら今さらながら、母親らしい言葉の一つもかけてくれるのかもしれない。もしかしたら、この時間は、神様が最後に親子の時を過ごすチャンスを与えてくれたのかもしれない。そんな甘い期待は、初対面で打ち砕かれた。

久しぶりの対面なのに、面罵、面罵、面罵の嵐。

 甘い期待を持った自分を後悔したものだ。育ての親に常々言われていた、お前は優しくて、おとなしいから心配だよ、と。その度に僕は笑ったものだ、僕が優しいのは、二人に似たからですよ、と。

…だが、育ての親の心配は、現実になった。


 急に心の中が、誰にも打ち明けられない、どこにもぶつけようの無い感情でムシャクシャしてきて、僕は廊下の途中で立ち止まり、拳を振り上げた。こんなメモ書き、捨ててやったらどんなにセイセイするだろう。

だがふいに、廊下の曲がり角の向こうでパタパタと看護士の足音が聞こえ、僕は静かに拳を降ろした。


 この世の中は、優しい人間が損をするように出来ている。育ての親は、そのことを僕に教えてくれようとしていたのに、どうして僕は…。


 売店の前まで来て、クシャクシャになった紙を取り出した。どうせ、いつものように水、オヤツなどと書いてあるのだろう。決して、親切に細かくは書かない。水は、老人でも持てるように、と500mlを買っていけば、足りない、気をきかせて、1リットルを買ってこい、といい、1リットル買っていけば、こんな重いもの老人に持たせる気か、という。500mlを二つ買っていけば、足りるわけない、と罵る。もういい加減ウンザリして、適当に選び、何を言われても右から左に聞き流すことにしていた。

 あいつは、本当に何かが欲しくて頼んでいるんじゃない。買ってきたものに難癖をつけるのが楽しくて、頼んでいるだけだ。

 僕は、メモを廊下にあったゴミ箱に投げ入れた。が、それはゴミ箱の側面に当たり、床に転がった。

 もういい。拾うのも面倒くさい。ゴミ箱の近くに落ちた紙片なんか、誰かが拾って捨ててくれるだろう。

 歩き出そうとした、その時。

「もし」

 後ろから声をかけられた。振り返ると、白いスーツの女性が立っていた。

「何です?」

「落としましたよ」

 女性に聞こえないように、小さく溜め息をつく。他人を使ってでも、僕に帰ってきたいのか、このメモは。

「ああ、どうも」

 女性が去ったのを確認し、ため息をつきながら、メモを開ける。

 いつもと、様子が違う気がした。

 本能が叫んだ、読んじゃいけない、と。

だが、僕は、そのミミズの這ったような文字から、目を離すことが出来なかった。

 脳は拒否をするのに、目が一つずつ字を追っていく。


サ  ミ  シ  イ  カ  ラ  

イ  ッ  シ  ョ  ニ 

シ  ン  デ  ク  レ


 僕は、再びグシャッと紙を握りしめた。

……やっぱり、読むんじゃなかった。そもそも、もうあのババアに関わらないほうがいい。僕の精神が、蝕まれるだけだ。母親でもなんでもない。

 育ての母は、僕のことを、お人好しだと、優しい子、だと言った。だけど僕は、自分で自分のことを、そう感じたことは無かった。他人にも、言われたことがない。育ての母だけだ、そう言ってくれたのは。きっと、僕は馬鹿なのだろう。分かっていながら、自分で自分を守ることが出来ない。それを、育ての母は、お人好し、優しいなどと表現したのだ。

優しいのは、お人好しなのは、あなたではないか、育ての母よ。僕は決して、そんなことを言ってもらえるような、人間ではない。きっと、優しい人になって欲しくて、育ての母は、そう口にしていたのだろう。これもまた、将来を見越して。

 きっと、このまま生みの母の毒気に付き合ってたら、いつか僕は悪魔になる。その証拠に、この病院に生みの母のために通うようになってから、時々黒い影を見るようになっていた。育ての母のために通っていた時は、そんなものを見なかったのに。

 目の端に時々とらえる白いモヤ。ハッキリ見ようと視線を向けると、サッと消える。だんだんと、その白いモヤが大きくなっている気がする。きっと、僕の心はあの白いモヤにいつか捕らわれてしまうんだ。

 何も買わないと、どうせ何か言われてしまうだろう、と、重たい買い物袋を抱え、病院に戻り廊下を歩いていると、尋常では無い人の緊迫した声と、あわただしく廊下を駆け回る人の足音が聞こえた。

何があったんだ…?

 角を曲がると、生みの母親の病室から看護師が出て来た。その後に続くストレッチャー。寝ているのは、僕の生みの母親だ。目を閉じ、苦しげに顔をしかめている。その顔は、仕事で徹夜開けに鏡で見る自分の顔にそっくりだった。

こ れ で 、 目 の 上 の た ん こ ぶ と 、 や っ と お さ ら ば で き る 

 僕は頭の中で文章を作り、文字を浮かべて、暗唱してその言葉を自分の脳ミソにインプットさせようとした。

 だが、不快な感覚に、僕は腿をつねった。それでも、不快な感覚は収まらない。仕方なく僕は、自分の心がそれを感知するよりも早く、自分の手で頬を拭った。その手を、急いでズボンで拭った。あんな母親のために、自分が泣いた事実など、この世から消し去るために…。

 その時、母親のストレッチャーにつきまとう、白い影を見た。その白いモヤは今まで見た中で一番大きく、人型だった。その中心に、顔が見えた。僕は気がついた、その顔が、育ての母にそっくりだと。育ての母は、うつむいていた。そっと白く細い手が伸びて、生みの母の髪の毛を一本引き抜いた。


ピーーーーー


 大きな音に、僕の思考がかき消される。生みのは母の心臓が止まった。あわただしく、蘇生の処置が始まる。

 育ての母と、白いモヤは消えていた。

 ……やっぱり、お人好しは、あなただ。そんなことをするために、地獄に落ちたのか?僕は、あなたの思っているような人間じゃない。そんな価値など無いのに、どうして……。

 生みの母の心臓の音が、再び聞こえることは無かった。

 僕を煩わせる存在も、僕を思ってくれる存在もいなくなったこの薄ら寒い世界で、僕はどのように生きていけばいいのだろう、そんなことを、ぼんやりと思った。



「…それで、ご依頼というのは?」

 殺風景な廊下は消毒液の匂いが酷く、吐き気にみまわれながら私は尋ねた。

廊下の壁にもたれ、疲れきった顔でうつ向いた三十代半ばぐらいの男性が、重そうにやっと口を開く。

「生みの母親は、亡くなってからも迷惑かけてるみたいで…」

 その語尾に被さるように、廊下の向こうで何かが落ちるようなガシャンガシャンという音が響くと、煌々と灯りのついたナースステーションで悲鳴が上がった。

「ポルターガイストを起こすようになったんです。廊下を歩く人の前に突然立って驚かせたり…。こんな噂、小さな町ではすぐに広がるし、患者の減った病院から訴えられる、という話も出ていて…」

 男性は疲れきった様子で首を振る。

「母親を成仏させてやるのが、息子として最後の役目なのかな、って…」

 男性は下唇を噛んだ。

 何もしてくれなかった生みの母親のために、何故自分がここまでしなきゃいけないのか、という思いが胸を去来しているのだろう。

「…分かりました。おい、妖怪、行ってこい」

「へい!がってんでやんす!」

妖怪は右手をおでこの前で斜めに掲げ敬礼すると、煌々と輝くナースステーションの中へ駆け込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る