第2話
見つからない、魂
私は闇の中、線路の上に立っていた。誰かがホームを歩いてくる音がする。その靴音のリズム、その歩き方…。あの人だ。私の愛しい人。仕事を終えて帰ってきたんだ。また、あの腕に触れられる、肩を抱いてもらえる。あの温もりにまた会える。こっちだよ、私はここ。こっちを見て。何故か、私の声は出ない。彼は、気付かずに通り過ぎようとする。どうしたら、気付いてもらえる?
その時だった。彼の向こう側から、白い袖から伸びた白い細い手がぬらりと出てきた。何の迷いもない動きだった。そして、その手が、彼を押した。彼が、目の前に、倒れてくる。大変!助けなきゃ。線路の向こうから、腐臭のする、冷ややかな風が吹いてきて、私の首筋をなぜた。
電車が来る!お願い、立って。私の手は、彼の肉体をすり抜けた。彼は、頭を打ってしまったのか、意識がなく、ピクリとも動かない。嘘、嘘だ。あの白い手は……。見上げるとスッと引っ込み、闇へ消えた。お願い、誰か、助けて……。眩しい光が、近づいてくる。彼の体に覆い被さり、私は轟音に耳を塞いだ。
私の目がゆっくりと開く。もう開かないでいい、そう思っても、勝手に開くのを止めることは出来なかった。
そこにあったのは、いつもの天井、いつもの家具、いつもの部屋。ただそこに、一つだけ、彼だけがいなかった。
私は生きている、私がそれを嫌がろうと、何であろうと。
「でやんすから、でやんすからしてぇ、でやんすですからす」
私の住んでる2Kのアパートに、口だけはあるのっぺらぼうが太古の昔からいたような様子で寛ぎ、テレビを見ながら妙な合いの手を入れている。
「なんなのよ、その、でやんす三段階は」
のっぺらぼうは、振り向くと口だけでニヤッと笑い、またテレビに向き直ると手を叩いてバラエティー番組に見入った。
「妖怪は気楽でいいわね」
今度は私の言葉などろくに聞こえなかったらしく、テレビを見たまま大爆笑し、涙を流す代わりに口から涎を垂らしていた。
あの夢を見たのは、昨日白いスーツの女の話を聞いたからか……。都会ですら白いパンツスーツの女に会うことなんか滅多にないのに、田舎に出現した、となると……。
私の彼は、一ヶ月前に殺された。警察に見せてもらった駅のホームの防犯カメラには、帰宅途中の彼を線路に向かって押す、白いスーツを着た女の細い手が映っていた。明らかにその手は、彼を線路に突き落としていた。それなのに、警察は混雑した雑踏の中での事故と片付けた。警察が捕まえないのなら、私が捕まえてやる、例えこの命と引き換えになったとしても。
彼との出会いは、私がとある橋のたもとで霊と話している時に、たまたま通りかかった彼に見咎められたのがきっかけだった。後から聞いたところ、彼いわく、橋の隅っこでブツブツ一人言を呟き、今にも自殺しそうな女がいたので、思わず話かけていた、のだそうだ。それを聞き、私は思わず吹き出した。それを見た彼も、一瞬驚いた顔をした後、違ったのか、というふうに笑い出した。
彼とは同い年で、彼は食品会社の開発部に勤めていた。「食べることが好きだからね」そう言いながら、彼は毎日楽しそうに仕事へ向かっていた。いつも食欲がたいして湧かず、人前で晒したくないぐらい体の骨が浮き出ている私は、彼の食欲が羨ましかった。私も、そんなふうに美味しそうにご飯を食べたいな、そう思って眺めているうちに、いつの間にか彼の食欲がうつり、体重もいつの間にか人並みになった。
彼とこの2kで同棲を始めた時、私の食欲の無さが彼に移らないか心配だったが、彼は今まで以上にもりもりと美味しそうにご飯を食べた。
彼の遺体は荼毘にふされたが、葬式の間も彼の魂はどこにも無かった。
葬式の時、彼の両親も、彼の親族も、彼の会社の人たちも、皆沈痛な面持ちで、彼のために泣いていた。
彼は、そういう人だったのだ。誰かに駅のホームで突き落とされなければならない、そんな人では決して無かった。
もしかしたら、自分が死んだことに気づいておらず、あるいは無念の思いを抱えて駅に留まり続けているのかも……。そう思って駅のホームに探しに行ったが、彼の気配はどこにも無かった。その代わり、ホーム下の緊急退避の穴に、うずくまってボンヤリと電車を眺めている妖怪がいた。「何してるの?」と訪ねると、「電車が好きで見ているでやんす」、と。「この辺で最近男の魂を見なかったか」
と訪ねると、見ていない、と。諦めて去ろうとしたが、妖怪は付いてきた。いわく、「電車を眺めているのも飽きたし、お姉さんと一緒にいると楽しそうだから」それが理由だった。
妖怪は歌番組を見て、楽しそうに踊っている。ま、害も無さそうだし、いいか……。
ええと、今日の依頼は、と…
パソコンを開き、メールを確認する。彼が亡くなる前は、そこそこ依頼がコンスタントに来ていたのに……。
家にばかりいると気が滅入る。
外に出て、霊がいたら白いスーツの女を知らないか聞き込みするか。
「妖怪、一緒に出かける?」
声をかけると、妖怪は嬉しそうに振り向いた。
防犯カメラに映った白い女の姿は、雑踏の中に消えた。それが、警察の説明だった。だが、私の目には、女の白い姿は微粒子のように溶け、空気の中に霧散して消えたように見えた。あの女は生きている存在ではない。直感で、私はそう確信した。今でもあのホームにいるのではないか。そう思って駅に行ったが、女の痕跡はなかった。他にあの女の犠牲者がいるのではないか、せめて目撃しただけでも……。そう思って来る依頼は受け、浮かばれない霊を見つけては、この一週間話を聞い回っていた。一週間たって、やっと得た微かな手がかり…。まだ、まだだ、あの女を捕まえるためには、まだ集めなくては……。
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