白闇

砂野秋 紗樹

第1話

一豹村にて 

 

 秋の夕暮れ。


 乾いた空気が喉をつき、私は小さくコホンと咳をした。慌てて周囲を見渡すが、田舎の小さな電車のホームには、ほとんど人がいない。コートを着た人影はまばらで、脇目もふらずに改札へ吸い込まれていく。


 ホッとため息をつく。最近は、咳をしてるだけで睨んでくる人もいるから…。五年前、まだ私が二十歳だった頃は、まだ、お大事に、という視線で見てくる人のほうが多かったような気がする。社会の構造上、皆に心の余裕が無くなっているのか。通りすがりの人を味方につけなくたって、SNS上で『私は悪くないよね?』と呟けば、賛同してくれる人はいっぱいいるから、強気になっているのか…。


 ご多分にもれず、私は後者だ。最初は抵抗していた。そんな社会の風潮に。あんたなんかと親しくしなくたって、私には他に味方がいるから。目の前にいるそんな頑なな人の心を、無理矢理こじ開けようとしたこともあった。でも、そうしようとすればする程、その人はさらに何重にも扉を立て、鍵をかけて私を排除した。早々に不毛なやり取りに疲れた私は、自分の身もSNS上に置くことにした。社会の大きな流れに、人一人では勝てない。流れに負け、身を粉砕されるその前に、私は自分の身を守る選択をした。


 閑散としたホームに一人残った私は、そっとホームの端に立った。暗く深い川の底が横たわっている。私には、そう見えた。ここに降り、流されていけば、あの人に会って懺悔ができるのだろうか…。私の目線は、気付けばその深い川のあちこちをさ迷っていた。敷き詰められた石の隙間、落ちた人が逃げ込むための暗い穴。私は溜め息をついて首を振る。やめよう、無駄なことだ。警笛と共に、長い流れの川の先に光が現れた。行こう。あんな明るい光に照らされるのは、今の私に似合わない。


 寒風で冷えた手に息を吹き掛けると、切符を差し込み改札を通った。駅前の小さなロータリーにはタクシーすらいず、遠くに見える商店街はシャッターがほとんど閉まっている。その向こうに見える小さな山並みが、暮れなずんでいく空と同化しようとしている。


 随分と寂しいところに来たものだ、と気が滅入ってくる。


 秋の日暮れは早く、みるみるうちに辺りは闇に包まれ、街灯のみが遠い銀河を照らす恒星のように点在し始めた。


 初めての場所に行く時には、秋の夕暮れはやめといたほうがいい。私がそんな教訓を得た頃、遠い銀河をさ迷う彗星のように、ロータリーに静かに一台の軽自動車が入ってきた。

 打ち合わせ通りの、赤い軽自動車だ。運転席の女性が、明らかにこちらを見ている。依頼人だ、と私は確信した。


 彼女とのSNS上でのやり取りでは、彼女はいつも言葉使いが丁寧で、押し付けがましかったり攻撃的だったりするところが一切無く。きっと、のんびりした田舎の中流家庭に育ち友達も多く、ストレスにさらされることなく生きて来たのだろうと想像していた。…ある一点を除いては。


 ハザードをつけ停止した赤い軽自動車のドアが開いて、彼女が降りてくる。想像通りの人だった。少し茶色に染めた髪は、耳の下辺りで切り揃えられている。明るい薄い黄色のカーディガンに、膝下丈の白いスカート。そう高いものでは無いはず。装飾品の類いも一切つけていない。


「タニキョウさんですかぁ?」

タニキョウは、私がSNS上で名乗っている名前だ。都会の人よりものんびりと明るく喋り、語尾を少し伸ばす。伸びやかな山脈の影を、私は連想した。

「そうです。シンネアさんですか?初めまして」

「初めましてぇ。よろしくお願いしますぅ。乗ってくださぁい」

「お邪魔します」

 彼女は運転席に戻り、私は助手席に乗り込む。さて、どこまで気を許したら、語尾を伸ばさなくなるかな?それとも元来のクセだろうか。それならば、ずっと語尾の伸びた言葉を聞き続けなければいけなくなる。まあ、そのうち私も田舎の空気に慣れ、そのリズムを心地よく思うようになっているかもしれないが…。


 自分の気質を思う時に、必ず都会の人のせかせかした足並みが頭に浮かぶ。

 私のリズムはそれだ。いつも、家に一人でいても、落ち着かない。


 田舎でのんびりしたい。いつも思っていた。だが、濁流で育った魚は、清らかな水に馴染まない。無理して移住したとして、一体、何年かかることやら…。


「それにしてもぉ、イメージ通りですね。黒いロングコートの、フードを被ったその姿。霊能力者さんのイメージにぴったり」

フッ。思わず笑みがこぼれる。

「霊能力者なんていう、立派なものじゃございません」

「でもぉ…、あなたのブログには、心霊現象を解決してもらったコメントで溢れてますよ?」

 車は街灯すらない、木が鬱蒼と茂った道をひた走る。

「まあ、解決はしますよ。依頼されればね。報酬も頂くわけだし」

なんだか、異世界へトリップしていく気分だ。気が滅入った状態に陥った反動で、逆にワクワクしてきた。


 対向車は滅多に来ない。たまに現れても、彗星のように横を過ぎ去り、乗っている人の顔も見えない。人が居るようで居ない。触れあうようで触れあわない。茫洋とした世界。


 だんだんと眠くなってきた私は、思わず欠伸が出た。

「ふふ。都会から来た人には、田舎は退屈でしょ?」

 意外に鋭い。田舎の弛い空気の中で生まれ育っだからといって、鈍い感性の持ち主というわけでは無いようだ。冴えた空気の中で、むしろ感覚が研ぎ澄まされてくる…。感覚が鈍磨していたのは、どうやら私のほうだったようだ。

「都会に行かれたことは、あるんですか?」

まあ、無いことも無いよな、と思いつつ、一応聞いてみる。

「ありますよぉ。買い物とか、遊びで何回か。なんか、やっぱり、異質です。異次元というか。何でも無い日なのに、お祭り騒ぎ?みたいな。人との距離が近くて、ぶつかったら、どうしよう、って思ってこっちはヒヤヒヤしながら歩いてるのに、周りは皆何でもない顔をしながら前だけ見て歩いてて。こんなに物理的に近くにいるのに、ここにいる人たちにとって私は空気みたいな存在なんだな、って。自分が無色透明の超人的な存在になって、何でも出来るような気になったり。でも、一日そうやって過ごしていると、やっぱり寂しくなって、誰かに私を正面から見てもらいたくなって。精神的に、すれ違った人全員にボコボコに殴られたような気になって、打ちのめされてスゴスゴと帰ってくるんですぅ」

「ふふ」

今度は私が思わず笑う番だった。

「あなたみたいな繊細な人は、都会には合いませんね」

「自分でもそう思いますぅ」

ハンドルを握り、前を向いたまま彼女は苦笑した。

「タニキョウさんはぁ、高校生?」

彼女が小首をかしげてこちらを見、また前に視線を戻す。

「分かります?」

 高校生?と言われる年齢はとっくに卒業していたが、特にそう思われていても仕事に支障はないし、黙っておこう。

「文章から受けた感じとぉ、今日見て確信しました」

 彼女がニッコリ笑う。

 車は速度を落とし、脇道へ入って行った。

 開けっぱなしの大きな鉄の門を通り過ぎ、車のライトが洋風の二階建ての大きな屋敷を照らした後、車が停まり、彼女がエンジンをきり再び辺りは闇につつまれた。

「ここが、あなたの家?随分立派ね」

 勝手に、田舎のこじんまりとした日本家屋に住んでいるのを想像していた私は、彼女の像を変更せざるを得なかった。

暗闇の中、さらに黒く佇む豪邸に近づくと、人感センサーのライトがサッとつき、分厚いマホガニーの大きな玄関ドアを照らした。


 ギギィー、と、誰かの憂鬱な溜め息のような音を立ててドアが開く。

 部屋の中は電気も付いてなく、真っ暗だ。

「もしかして、こんな広いお屋敷に一人で?」

「ええ」

 彼女は振り向くことも無く答え、壁のスイッチを押し電気をつけた。

「防犯のために電気をつけっぱなしにしておこうか、とも思うんだけど…。生来のケチでね。お父さんもそうだったの。だから、遺伝ね…」

 彼女が振り向き、悲しげに笑う。

「金持ちは、ケチだから金持ちなんだ、って、よく言うでしょ?」

「え、いやぁ、さあ…。金持ちとは縁の無い人生なもので」

 まあ、確かによく言われることだが、知らないふりをした。

「オバケは、深夜に廊下に出るの。それまでに、夕食を頂きましょう」

彼女の後についてダイニングへ入ると、テーブルの上にラップのかけられた食事が用意されてあった。

「これ、あなたが?」

「いいえ。お手伝いさんが。昼だけ来てもらってるんです」

 田舎で、こんなにお金持ち。理由を聞くのは、野暮というものか。私はここでは、心霊現象を解決してそそくさと帰る、ただの旅人。

 食事を頂くと、時刻はもう夜の11時になっていた。

「私、先に寝ますね。いいかしらぁ?」

「いいわよ。明日の朝目が覚めたら、心霊現象に悩まずに済んでいることを祈っててください」

 彼女は微笑むと、階段を上がっていった。

「さてと…」

 独り言を呟くと、私は一階の廊下の隅に置いてある椅子に座った。用途不明の椅子。だが、ただのスツールというわけでも無く、深紅の革張りで、背もたれもある。

「こういう、無駄なインテリアもきっと高いのよね…」

 親がなく、物心ついた頃から施設育ちだった私には、とんと縁のないものだった。

 フカフカなのに、腰が沈みすぎて座り心地の悪い思いをしながら窓の外を眺める。

 窓の外は、暗くてよく見えないが、玄関とは反対の裏側だ。木が茂り、鬱蒼とした暗い影ばかりが見えた。

 その木陰の間を、何かが動いたような気がした。

「おや…」

 思わず声が漏れる。話に聞いていたのは、幽霊は廊下に出る、ということだったが…。

その影は、ピョンピョンピョンと木の間を移動しているようだった。小柄だ。人間で言えば、五歳児ぐらい。

 依頼人を叩き起こして聞くわけにもいかない。

 同時に、窓をコンコンコンコンと叩く音がし始めた。誰かに気付いて欲しくて、誰かの気を引きたくて叩いているような。

 台所へ行って勝手口から外へ出る。お手伝いさんがいつも履いているのであろう、サンダルがあったので、それを借りる。

 やつは、木の影にいる。こっちの様子を伺っているようだった。

 小さいのは、臆病だが、手懐けて安心させれば言うことを聞く。

「こっちこっち。おいでおいで」

 私はしゃがみ、手をヒラヒラさせる。

 影は、しばらくジーッとこっちを伺っているようだったが、木の影から出てきた。よたよたと、体を左右に振りながら、短い足で歩いてくる。月明かりに照らされて、影も同じように動く。私は息を飲んだ。影があるということは、実体がある。いつも幽霊や、魂など、実体の無いものを相手にしているのだ。少し、心に恐怖心が湧いた。どうしよう。見なかったことにして、館に逃げ帰ろうか…。

「大丈夫だよ…」

 そいつが喋った。

 体つきに似合わず、低い声だった。

 月にかかっていた雲がはれ、辺りが明るくなる。そこにあったのは、子供の体に中年のおじさんの顔が乗っかった、奇妙な姿の生き物だった。幼稚園生が着るような服を身に付けている。

「奇妙かい?奇妙だと思うかい?まあ、そう思うだろうね…。私は、この家の主…」

「主?一人暮らしだと聞いていたが…」

 後ろでカサカサと枯れ葉を踏む音がした。

「お父さん?」

 彼女が目を剥き両手を握り合わせて立っている。

「何故生きてるの?死んだはずなのに…」

 父親の奇妙な姿を観察すると、顔が二つにだぶって見えた。おや、と私は察した。私は近づき、その幼稚園の制服から出ている小さな手を引く。

「お前はこっちに来い」

 小さな手がビクッと震えると、父親の顔だけが分離した。半透明の顔だけになり、空中に浮いている。幼稚園児の顔は、丸く真っ白で、小さな口がついているだけの、のっぺらぼうだった。

「お前は、今日は家にいると言ったではないか」

「あはは、ばれたので言いやすが、実は驚ろかそうと付いてきてたでやんす。」

「全く、勝手に依頼人のお父さんを食べようとするんじゃない!」

 妖怪が口を開けると、青白い魂が飛びだしてきて、それは形を変え五十代の男性の姿になった。

「やあ。俺は、待っていたよ。俺を見える誰かが来てくれるのを」

 男は地面の上に胡座をかくと、ひどい目にあったと言いたげに、首を振った。

「俺は、ある女に、破滅に追いやられた。いつも、白いスーツを着ていた女だ。そいつは、友人の紹介で会った。友人は、そいつの助言を受けて株で稼いでいた。その友人と俺は、小学校からの仲だった。共に成長し、切磋琢磨しあってきた仲。そういう相手だから、尚更俺は負けたく無かった。友人はみるみる身につけるものが高価になり、うちよりデカイ豪邸を建て、クルーザーを買い若い女を連れ込んでは海に繰り出すようになった。だから、俺もその女を信用した。ガキの頃は同じ教室で机を並べて学んだ。ガキの頃は平等だったはずのアイツだけ、上へ上へ行くのか嫌だった。だが、俺は全財産を失った。その事を電話で友人に話した時も、友人は洋上にいた。話の途中で、悪い電波が……と言いながら、電波を切りやがった。女はともかく、友人も俺を貶めることに加担していたのか?確かめるの辛かった。確かめる方法も無かった。俺に残ったのは金ではなく、疑心暗鬼だった。それまで楽しかったことが、何も楽しめなくなった。いつも心が重く感じられ、頭に靄が常にかかったようになり、それは何をしても消えなかった。年齢からいって、もう肉体の衰えを感じ始める年齢だ。もう、新しく人生をやり直す気力などどこをどう絞り出しても湧かなかった。俺は、ここで首を吊った。」

 男は下を向き、深いため息をついた。

「あの女が憎い。最後にあの女と電話した時、あの女は笑った。甲高い声で、腹の底からおかしそうに。わざとだ。わざとだったんだ。あの女は、俺を、最初から破滅させるつもりだったんだ。……死んだ時は衝動的だったが、何故あの女に復讐してから死ななかったのかと後悔した。無念、無念だ。一人娘に何も残してやれなかったのが。この家も抵当に入っている。すまんな……」

 振り返ると、彼女が頷いた。

「いいの。こんな広い家に一人でいるの、飽き飽きしてたから」

 白いスーツの女……。この一週間、会う霊会う霊に話を聞いてきて、初めて得た手掛かりだった。

「白いスーツの女か。実は私はその女を追っています。具体的に、どんな女でした?そいつの居場所をご存じないですか?」

 男は下を向き、深い溜め息をついた。

「女のことを思い出そうとすると、不思議なんだ、どんな髪型だったか、どんな顔つきをしていたか、ましてや年齢も、頭の中に急に霧がかかったようになって、何一つ思い出せないんだ。ただ覚えているのは、シミ一つない真っ白のパンツスーツを着ていた、それだけだ。出身はどこだとか、趣味はなんだとか、プライベートな話も一切したことがなかった。俺も興味が無くて聞かなかったしな。俺の心にあったのは、友人に勝ちたい、いや、せめて負けたくない、それだけだった。……死ぬ前に友人から電話がかかってきたよ、女の行方を知らないか、とね。俺が没落するのを見届けるとすぐ、女は消えた。友人が心配だよ。株の才能なんか無いやつだからな、女の助言なしでいつまで持つか……」

「私はそいつに必ず復讐する。だから、今は成仏して、天から見守っていてくれないか」

「お願い、お父さん、もう苦しまないで」

 男は涙を拭うと頷いた。

「分かった……」


 妖怪を引き連れて屋敷を出て行こうとすると、彼女は呟いた。

「あなたは、やっぱり、ずいぶん年上に見えるわ…」

 「ふふふ、まあ、年齢不詳ってことで、いいじゃないですか」

 私は笑った。

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