第13話 三人寄れば文殊の知恵

 美依は慎重に、お手製の梯子を掴み、ペットボトルの足場に体重をかけていく。多少たわみ、軋みはしたが問題ない。

 幸い取れかけのヒールの踵は靴底から地続きとなっており、踵方向に体重をかけたところで取れる心配はない。更に買ったばかりということもあり、全体重をかけても靴はほぼ曲がらず思っていたよりスムーズに登ることができた。

 ——ゆっくり、しかし確実に、美依は天井へ近づいていく。

「まさかダイエットが、こんなところで役に立つとは、ね……」

 上まで登りきったところで、天井をよくよく見ると、細い板を適当に打ち付けただけの簡素なもののようで、腕ぐらいなら入りそうな隙間が幾つもあった。

 その中の一つに目をつけ、美依は指につけていた螺旋状の指輪を外して、その隙間から見える釘に横から差し込んだ。そして履いていたヒールも同様に外へ出す。その尖った踵を、釘の隙間にしっかりと入り込み釘抜きのようになった指輪に引っ掛ければ準備完了だ。

 力点となる爪先をしっかりと握り、てこの原理で少しづつ、慎重に引き抜いていく。ある程度引き抜くことが出来れば後は手でもなんとかなるものだ。

「やった、取れた!」

 板の片側に打ち付けられた全ての釘を抜き、その板を無理矢理下から押し上げ一気に身を乗り出す。

「ぐ……痛っ」

 元々釘があったところに足をかける時にうっかり棘を踏んだらしく、僅かに血が垂れた。それでもなんとか体を外に出すことには成功した。脱出、出来たのだ。

「あーあ、全身お気に入りコーデが全部パーじゃん……最悪」

 その言葉とは裏腹に、美依は外に出られた喜びを全身全霊で噛み締めていた。


「け……には……てな……」

 不意に何処からか人の声がした。美依は慌てて飛び起き、その音の出どころを探す。

「そん……き……る! 社長……た……り持ってるでしょ?」

 どうやら声は隣の建物から聞こえるようだ。美依は足を引きずりながら慎重に屋根を渡り、近くの窓からその中をそっと覗き込んだ。

「一億、アタッシュケースに詰めて指定した場所に来てもらう。あ、勿論現金で、ね」

 大声で話しているスーツの女の足元には、手足を拘束された小柄な女性が横たわっている。顔は見えないが……社長に現金一億、どう考えても穏やかではない。恐らくこれは誘拐、それも身代金目的だ。

 社長という言葉と自分の状況から推察すれば拘束された女性は莉奈で間違いない。そう思いたい。

 ——でも何か、何かが引っかかる。それなら一緒にいた自分をわざわざ別室に閉じ込める意味はない。普通は一緒に監禁しようとするはずだ。

 考えを巡らせている間にも、女は強い口調で脅しを続けている。

「チッ、本当に鬱陶しい女。……まぁいいか。ほら、もし変なこと喋ろうものなら……わかってるわね?」

 今まで喋っていた女が急に屈み、横たわる女性の口元に携帯を近づける。その瞬間、美依の目には信じられないものが映った。

「あ、あれ……私のスタンガン……」

 女は左手には携帯を、そして右手にはキュートにデコレーションされた美依専用スタンガンを握りしめていた。

 ドンッ!

 呆気に取られていると、なんと女が女性の腹を思い切り蹴ったようだった。女性が転がり、微かにうめく。その苦悶する表情が窓越しに見えた時、美依は思わず目を背けた。

「信じたくない、信じたくないけど……とにかく今は、止めなきゃ」


 美依は愛用していたハートのバッグが、地面に雑に置かれているのを見つけ、すぐに屋根から飛び降りた。

 なんとか必死で受け身を取るが、その足は既に限界を迎えていた。もう動けそうにない。美依は急いでバッグを探り、自分の携帯があることを確認した。

「二人とも、忙しくないといいんだけど……」

 メッセージを二人に送信し、美依はそのまま眠るように気絶した。




「所長、何か他に聞きたいことはありますか?」

「いや、少なくとも長田君の話から、ある程度は分かりそうだ」

「と、言いますと?」

 僕の疑問に所長は咳払いを一つして答えた。

「まず、電話の相手は女性で間違いないと思う。話し方……特に気を抜いている時の話し方もそうだが、金を女に持ってこさせようとするあたり非力なのは間違いない」

「あ、それは僕も思いました。それと誘拐された凛さんのメッセージ、『軽井沢』なんですが……」

「依頼人に何か心当たりは?」

「いえ……家族で行ったこともないそうです。軽井沢を探してくれとは言われましたけど」

「普通、人質が自分の居場所を言ってしまえばまず間違いなく犯人は激怒する。そうでなくとも場所は変えるだろう。そのことを娘さんもわかっていたはずだ。つまり、その“軽井沢”にはきっと他の意図がある」

 確かにその通りだ。もしかしたら、彼女の部屋を調べれば何かわかるかもしれない。

「——それともう一つ、犯人は恐らく依頼人の知り合いだよ」


 突然告げられた所長からの言葉に、僕は思わず息を呑んだ。

「どうして……そう思うんですか?」

「知り合いじゃないならボイスチェンジャーをかける必要もない。勿論、念には念を入れただけかもしれないが……それ以上に『鬱陶しい女』だと言ったり、特に有名人というわけでもないのに最初から声を聞いただけで『奥さん』だとわかっていたり、明らかに依頼人を知っていて、かつ嫌っているように感じる。そういう罠の可能性も捨てきれないがね」

「なるほど、わかりました。そっちの方も聞けそうだったら詳しく聞いてみます。ではまた情報が分かり次第連絡しますね」

「ああ、こっちでも社長に連絡が取れないか試してみる。引き続き、頼んだよ」

「……はい」


 そう言って僕は電話を切った。広い廊下に電子音がこだまする。

「あの、部屋なんかは自由にみてくださって結構ですので……」

 依頼人は目を真っ赤に腫らし酷く落ち込んでいた。それがあまりに痛々しくて、励ましの言葉をかけることすらはばかられる。とても彼女自身を嫌っている人物の心当たりを聞けるような雰囲気ではない。


「……いい写真ですね、これ」

 本当は何か気の利いたことが言いたかったのだが、結局苦し紛れの言葉しか出てこなかった。だが彼女は、ほんの少し表情を緩めて笑ってくれた。

「ええ、箱根の別荘で撮ったんです。娘が撮ってくれまして……」

「ちょ、ちょっと待ってください。別荘があるんですか? それに娘って、写真の娘さん以外にってことですか……?」


 ガチャリ。

 その時、玄関のドアが静かに開く。そこに仁王立ちする女性と目が合った瞬間、僕はなぜか既視感を覚えた。驚いた顔をする彼女を、多分僕は知っている。

「あ、莉奈! 大変なのよ、凛が……」

 ——そうだ、莉奈。確か美依が携帯の写真を見せながらそう言っていた。今日一緒に遊びに行くとも……

 確認しようと思い携帯を構えた瞬間、2通のメッセージが届く。一つは文章で、もう一つは恐らくボイスメッセージ——美依からの、SOS。


「もしもし所長、箱根です! 箱根の別荘、少なくともその近くにいるはずです。あと、美依さんが……」

「わかってるよ、私にもメッセージは来ている。犯人の目星も大体ついた」

 そう答える所長の声には、僅かな焦りとどす黒い怒りが混在し、今にも溢れ出しそうなのを必死に堪えているのが電話越しでもはっきりとわかった。

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