第8話 後ろの正面

「……それで? 病院に行かず事務所ここに来ちゃったってわけだ」

 正面に座る美依は渋い顔をしながらコーヒーを啜る。

「まぁ仕事熱心なのはいいことなんだけどね。もうちょい自分大事にすれば完璧」

「すみません、話聞いたらすぐ行きますから」

 はいはい、と言って美依はテーブルを片付ける。


「それじゃあまず名前から、教えてくれる?」

「はい、えっと、蛯原えびはら優里ゆり、です。長田君とはその……クラスメイトで」

 慣れない状況に緊張しているのか、か細い声で途切れ途切れに優里は自己紹介した。

「僕がいじめられてるときも声かけてくれたりして……。あ、探偵云々も今日たまたま聞いちゃったみたいで」

 僕が横から付け加えると、同じソファーに座る優里は恥ずかしそうにもじもじしていた。

「なるほどね。で、相談というのは?」

 優里は小さく一度、深呼吸をしてゆっくりと話し始めた。

「実は……ちょっと前から、1週間くらい前からなんですけど、学校の帰りに、誰かが私の後をつけているような気がして……。それをなんとかして欲しいんです」

「ストーカーってこと?」

 僕が聞くと彼女はこくりと控えめに頷いた。

「特に何かされたってわけじゃないんです。気のせいかもとも思ってたんですけど……この前、思い切って走って逃げたら、男の人が追いかけてくるのが見えて、それで怖くなっちゃって」

 なるほど、と言いながら美依は優里にさりげなくお茶を差し出した。

「要するにボディーガードってことね。OK、引き受けるわ」

 少し遠慮がちにお茶に手をつける優里に向かって、美依は真剣な表情で答えた。

「僕も、協力するよ。その男を捕まえればいいんだよね?」

「うん……。あ、でも刺激して逆に襲われちゃったりしないか心配だなぁ……」

 優里の表情が途端に暗くなる。どうやら彼女はかなり参っているようだ。

「じゃあ二手に別れましょうか。ストーカーは私がなんとかするから、財ちゃんは優里さんを守ってあげて」

「大丈夫なんですか? 男と二人きりだったら余計に刺激しちゃうんじゃ……」

 優里も僕の意見にうんうんと頷く。

「逆転の発想よ。いつまでも襲われる恐怖に怯えるより、未遂で済ませてとっとと逮捕しちゃった方が解決には近づく。勿論、依頼人には危険が及ばないよう最善を尽くす。約束するわ。まぁ、優里さんが嫌なら別の作戦も考えるけど」


 静まり返った事務所に、コトン、とカップを置く音が響く。少し間をおいて、優里は何かを決意したようだった。

「……わかりました。二人を信じて見ます」

 そう言うと、優里はこちらを向き、上目遣いで僕の手を握った。

「必ず、守って、ね」

 その自然な仕草に、僕は思わずドキドキしてしまう。落ち着け……これは仕事だ、これは仕事……。

「勿論。今まで助けて貰った分はきちんと働いて返すよ」

 彼女の手をそっと握り返すと、優里は安心したように微笑んだ。この空間だけ時間が止まっているような、そんな錯覚に陥る。


「ん゛ぅん」

 わざとらしい美依の咳払いで、僕達はようやく現実に戻った。

「とりあえず、ここに来るまでの道でもつけられてる可能性はあるから今日のところは私が優里さんを送り届ける。財ちゃんはきちんと病院で検査! それで、明日から本格的に調査開始ってことで、大丈夫そう?」

「はい、わかりました。えっと……依頼料は?」

「うちの助手が何かとお世話になってたみたいだし、後払いでいいよ」

 美依はそう言うと立ち上がり、事務所のロッカーから黒いハンドバッグを取り出した。ハートをかたどった小さめのバッグ。相変わらずこの人の趣味はわからない。

「よし、じゃあ二人とも、行こうか」

 その号令で、まだほのかにコーヒーの香りが残る事務所を、僕達三人は後にした。




「あ、もしもし? うん、私。ちょっと頼みたいことがあって」

「え? あぁご褒美ね、わかってる。今度家行くから」

「そうそう頼みたいことね。明日の放課後、あの探偵が一人でいるはずだから……うん」

「あなたたちも一杯食わされてるし、ギャフンと言わせたいでしょ?」

「大丈夫、あの約束はって条件付きだったでしょ? つまり……」

「何よ、二人がかりなら女一人どうってことないでしょ?それとも、万引きしてたこと、警察にバラしちゃおうかな、なんて」

「ふふ……わかればいいの。じゃあまた、明日、よろしくね」

 ——ピッ。

 電話を切った女は、自室で一人、不敵に微笑んだ。

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