【KAC20226】ゲームの世界に迷い込んだかと思った。
かなめ
次の日は筋肉痛でした。
ふわりと鼻をくすぐる甘くしょっぱい匂い。
匂いに触発されて、くぅと切なそうに腹が鳴いた。
ああ、立ち上っている湯気すら美味そうな熱を帯びてじわじわと泡立つようなタレをたっぷりとまとった魅惑の肉肉しいボディが、店頭の炭火の上で並んでおれを待ってる気がする。
ひとくち噛んだら絶対にじゅわっと肉汁が出てくるやつだ。
想像しただけで、更にくぅぅと腹が鳴った。
無意識の期待で、口の中に唾液が溜まっていくのを止められない。
疲労も極まり空腹だったこともあり、ふらふらと匂いにつられて安易に足を進めてしまったのはしょうがないと思いたい。
「えへ〜。えへへ〜」
「店……じゃ、ない?」
目を閉じて、開く。驚いた。白昼夢ってこんな感じなのか。
だとしてもなんで焼き鳥が一本だけ宙に浮いてるんだ。せめて網の上とか炭火台とかバーベーキューグリルとかで焼かれていてくれよ。
視覚も味だったんだなって、改めて気が付かせてくれたのは助かったけどさ。
「あら〜お客さんじゃないですか〜。いらっしゃ〜い」
「は?」
老舗のママ? みたいなおっとりした口調で話しかけられた。
そう。話しかけられた。
「どうぞ〜。美味しいうちに〜召し上がれ〜」
「え、無理」
「ど〜〜して〜〜〜」
正直に答えた。中に浮かんでる怪しげな焼き鳥にいらっしゃいさあ召し上がれとか言われても、それを口にするとか無理だろ。
怪しすぎるものを即決で断ったとしても、おれは悪くないと思う。
腹が減りすぎて、とうとう聴覚も嗅覚も視覚も仕事を放棄したのだろうか。
とっさにそう思う程度には、目の前の白昼夢を受け入れたく無かった。
だってさ、何で焼き鳥と会話というか、意思疎通が出来てるんだよ。
「え〜そんな〜ご無体な〜〜! この旨みたっ〜ぷりむっちりボディを是非〜味わってくださいよ〜」
「焼き鳥だもんな」
「そうです〜〜ワタシ、これでも名店の焼き鳥なんですよ〜〜! あっ! 痛覚とかないんで、遠慮とかしなくていいんですよ〜?」
「痛覚……」
「そ〜です〜。ないんです〜。だからその大きなお口で、ガブッといっちゃってくださいな〜」
「……むり」
「そ〜んな〜〜。備長炭のお高〜い炭でじ〜っくり焼かれてるから、中までよく火が通ってるんですよ〜。それに〜たっぷり身に纏ってるつけダレも、ここらへんとか〜? 我ながらいい感じにおこげっぽくなってて〜カリッとしてる今がちょうど食べごろなんですよ〜?」
どういう状態なのかまったくもって理解したく無いんだが、美味いから自分を食べないかと【自称:焼き鳥(タレ)串】にスカウト的な売り込みをされているっぽい。
「でもまあ、冷めても美味しい自信はありますし〜。ご自宅までお伺いして〜お好みの方法でもう一度温め直して頂いちゃったりして〜。お飲み物とかにあわせて、柚子胡椒や七味をちょっと振って頂いてもオツですよね〜。あとマヨネーズの油分もいいです〜」
ああ……確かにこの疲れた身体にじっくりと染みる味だろうなってうっかり想像した。
ただ、マヨネーズはともかく、柚子胡椒とか七味とか、どのご家庭にも必ずご用意されていると思うなこの焼き鳥が!
自炊生活もままならない生活を余儀なくされてる社畜の家に、そもそもまともな調味料が存在するわけがないだろうが!
弁当すら作る元気がないんだからな!
「だけど、やっぱり熱々のうちが一番美味いと思うので〜。一口くらいガブッとしません〜?」
「……むりです」
どう言い表せばこの困惑具合が伝わるだろうか。
まな板の上の鯉的な感じで……空腹の腹に直撃する甘じょっぱくて香ばしい香りを振り撒きながらも、おっとりと上品そうに話しかけてきてるんですよ、この焼き鳥らしき存在は。
そんな話し方はおっとり上品な焼き鳥なのに、びっちびちに飛び跳ねてる。それはもう、びっちびちに。
しかもさ、キレがある飛び跳ねる動きに合わせてきらきらしたタレがゲームエフェクトの様に舞ってるわけ。
なお、そんな激しい状態で舞ってるタレはタレで、湯気が消えたり本来であればあたりがベッタベタになっていそうなのに途中でフェードアウトしてるの。なんか焼き鳥から数センチ辺りまでで桜が舞ってる感じの儚さみたいな感じ。
それこそ綺麗なお花じゃなくて、照りっ照りの焼き鳥なのに。
いやいやいや。このままパニックしていてはいけない。
落ち着こう。むしろ落ち着きたい。このままだと、確実にこの焼き鳥にそそのかされるまま口にしてしまいそうでなんか怖い。
ひとまず落ち着くために深呼吸だ。
腹減りでも餓えて苦しみながら死ぬけど、呼吸もしないと違う苦しみで人間は死ぬもんな。
……って、そういや深呼吸ってどうやるんだっけ?
えーと、あ、思い出した。
ひっひっふー。
ひっひっふー。
ひっひっふー。
ひっひっふー。
ひっひっふー。よし。
「そうそう、上手上手よ~。そうやって、ちゃ~んとふ~ふ~して食、べ、て~」
「……」
「熱々だもの〜。お口の中、火傷しないように気をつけて~?」
うわぁ~~〜誰かにこんなふうに優しくされたのって久しぶりすぎるううう…………いっそおれを抱いて〜〜……って違うわ!
どう好意的にみなくてもヤバいって。怪しい焼き鳥だって!
抱かれたらえーと、アレだろ? 焼き鳥のタレでスーツがべとべとになる予感しかしないって!
その前に抱きつけるのかしらねーけど!
抱きつかないからね?
洗濯大変そうだし。まあ、洗うのは常備してる洗剤と洗濯機様だけど。
「ほらほら~はやく~~」
「お」
「お~?」
「お断りさせていただきまああああああああああああっす!」
拒否の言葉を叫びながら、おれは、かつてないほど全力疾走した。
終わり
【KAC20226】ゲームの世界に迷い込んだかと思った。 かなめ @eleanor
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