第12話 加速度

「物理…。」


かなたくんから教えてと頼まれた問題は物理だった。


もちろん前の学校で勉強していたため、分からないことはない。

しかし私は人に教えられるレベルの理解度を保てていない。


「どこなん?」


かなたくんが指さすのは、初歩レベル。


v=ma


これならなんとかなりそう、ととりあえずその悩んでいる参考書を借りた。


読みながらなんとか記憶のどこかにいるはずの方程式や解説を引っ張り出し、理論を立てる。


理系に説明するときは、順序が大切。


「ここまでは分かるん?」


「分かる。」


「そしたらここは?」


かなたくんの方へ視線を向けると、自分が想像している倍は近くに顔があり、私は何が起きたのか分からなかった。


「ん?なんや?説明してくれへんのん?」


何も気にしていない様子のかなたくんは、眼鏡をかけてこちらを見つめている。


「ち、近い。」


「は?何言うてんねん。」


「顔近いって言ってんじゃん!」


「彼氏ともっと近くに居るやんか、慣れてるんとちゃうんか。」


「はあ!?私のこと馬鹿にしてんの?」


彼氏とうまく行っていない私は、それでも彼氏だけを好きでいるのがルールであり信念であると思っていた。


だからこそ変なことはしたくなかった。


この顔の近さはキスをするよりも近い距離のような気がして、私は絶対にしてはいけないことをしているようだった。


「馬鹿にしてへん、煽ってんねん。」


「なめんなよ。」


「なめてへん、さっさと別れろって言ってんねん。」


距離を変えずにずばずばと現状から叩き出される最適解を述べるかなたくんは、目の奥が笑っていなかった。


「何言ってんの?彼氏君と別れる?私が?」


「そうや、前やって言っとったやろ。いつまで別れやつらさから逃げてんねん。」


「かなたくんには分かんないよ、もしかしたらこんなに愛してくれる人は今後現れないかもしれないんだよ?」


かなたくんの目を見つめると、私はどうやら涙目になっているようだった。


「でも、なぎさがつらい思いしてまでずっと一緒に居るんか?生涯を共にするんか?今はまだカップルやけど、籍入れたら女は逃げれんのやで?子どもができたら役満や。それでええんか?なぎさ、ほんまにそれで後悔しないんか?」


誰もいないとはいえ、誰も通らないとはいえここは学校だ。

TPOをわきまえているとは思えない。


かなたくんもそれは分かっていたようで、私の手を取って、そのまま駅に向かった。


「手、離して。」


「離したら逃げるやろ。」


「逃げない。」


「嘘やな、それは。」


なんでそんなこと言うのか、と腹が立ち、わざと足を止めた。


「離してくれないなら動かない。」


「何わがまま言うてんねん、良い年の大人やろ。」


「わがまま言ってんのはそっちじゃん。手を離してくれるだけでいいのに。」


手を握る力が強くなり、私は否応なしにかなたくんが男子ではなく男性であることを理解させられた。


「浮気はしたくないんだよ、彼氏を悲しませることはしたくない。」


「手を握ることがそんなにあかんのか?」


「違うよ、第三者から見て怪しかったらそれは駄目なんだよ。」


「なんやそれ、知らん人にまで気を遣わないかんってことか。」


「人の目はどこにあるか分からないんだよ?」


「じゃあ、どうしたら逃げへんの?」


「いつものところに連れてって。」


無言でうなずいて、歩みを進めたかなたくんの手はもうすでに離れていた。


慣れたように私の分の紅茶とかなたくんのコーヒーを買い、休憩スペースへ行った。


「今、ここで別れろとは言わん。せやけどせめて、自分で腹括りや。」


「この先、私を愛してくれる人いる?いないよ。こんなゴミ女。」


「あんなあ、自分のこと低く見積もりすぎやで。りきやもたくもあんな風に適当に関わってるように見えるけど、内心は褒めてんねんで?」


「あの生意気ボーイたちが?」


「ボイチャでいつも言うとるわ、心配や、とか今頃無理やり抱かれてんじゃねえのとか。」


私は自分で自分が思っているより人に愛してもらえているようだった。


彼氏はキスマークは当たり前、同棲して、ずっと一緒にいた。5w1hを必ず聞いて、男性の隙間をなくしていた。


喧嘩をすれば力技で物理的に恐怖で動けなくさせられる、その後仲直りと称して行為もする。


きっと愛情ではなく惰性が残り、離れることが怖かったのだろう。


「どうしたら勇気が出るのかしらね。」


「そんなん、自分でどうにかするしかないやろ。」


「怖いなあ、別れるの。」


「別れるって決断したら教えてや、考えがあんねん。」


「何それ?暴力沙汰はごめんなんだけど。」


「まあ考えとき。」


そろそろ紅茶が無くなる頃だと思っていると、かなたくんはおかわりするか聞いてきた。


「ううん、高いから良い。」


「俺のおごりやで?」


「違う時に奢ってよ。」


「分かったよ。」


かなたくんは空になったカップをごみ箱に捨てた。


「行くか。」


「うん。」


私は急いで残りを飲み干して、ごみ箱に捨てた。


「今日も彼氏おるんやろ?」


「うん。」


「気を付けてな。」


「ありがとう。」


「連絡はしいや、大丈夫なら。」


「するよ。」


加速する自分の中の気持ちがどうにもできそうになく、私は彼氏のことを拒否してしまった。


ちょうど女の子の日だったこともあり、何も疑われなかったが、私が怖がっていることがバレたらかなり怖いことになるのは予想ができる。


私は決断する日を決められず、ただただ怖くなった。


布団の中ですやすやと眠る彼氏を見ながら、私は腕を切った。


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