焼き鳥が食べたかっただけ

葵月詞菜

焼き鳥が食べたかっただけ

 部活が終わると急激に腹がすく。

 俺はさっさと着替えると他の部員より一足先に帰路についた。

 駅前にあるスーパーの入り口に勤め帰りの人が吸い込まれていくのを横目に、横断歩道を渡って古くからある商店街の通りに入る。この商店街に俺の実家の青果店がある。


 少し広めの通りを歩いて行くと、飲食店以外の個人商店はぼちぼち閉店の準備を始める景色が目に入った。


「おう、タカ。お帰り」

「あらタカちゃん、お帰りなさい」


 あちこちから声をかけられて、少し恥ずかしく思いつつも「ただいま」と返事をする。

 わりと昔から続いている商店の人たちは俺が生まれる前――つまり俺がまだ母親の腹の中にいた頃から俺を知っている。だからみんなにとって俺は子どもか孫のような存在なんだろう。


 青果店に辿り着く前に、腹が減った身にいくつかの誘惑が待っている。

 閉店間際の店から漂ってくる、甘い匂い、揚げ物の匂い、香ばしい匂い、スパイシーな匂い……。

 忘れたふりをしていた腹の虫が、途端にぎゅるるるると盛大に鳴き出す。もう少し我慢してくれ。今月はもう小遣いがピンチなんだ。


 鼻先を、甘辛ダレのたまらない匂いがかすめた。匂いだけで香ばしいと分かる。

 ついそちらを見てしまった。焼き鳥屋の店先で、テイクアウト用の焼き鳥を焼いている中年のおじさんがいた。串に刺さった鶏肉は、皮が弾けんばかりにジュウジュウと音を立てていた。

 うわあ、ここでこれを見てしまったか……。

 タカは目を瞑り、そのまま前方に向き直った。深呼吸して、目を開く。

 ああ、焼き鳥食いてえ。頭の中は焼き鳥でいっぱいだったが、今日の晩飯は絶対焼き鳥ではない。


 振り切るように足を前に出したところで、後ろからポンと背を叩かれた。


「!」

「何やってんの?」


 振り向くと、同じ商店街に住む精肉店の一人娘、かよが訝し気な表情をして立っていた。まだ制服姿なのを見ると、どうやら向こうも部活帰りらしい。


「焼き鳥に恋する乙女状態だったわよ?」

「変な表現するんじゃねえ」


 一体どこから見られていたのか。急に恥ずかしくなってきて、俺はさっさと歩き出した。

 かよもまたこの先に家があるので後ろをついてくる。


「鶏肉が食べたいならうちで買っていけば? 良い鶏入ってたよ」


 すかさず自分の家の商売モードに入る所がちゃっかりしている。


「俺は自分で焼かねえ。できたやつが食いたいんだ」

「ええ~焼きなさいよ」


 焼き鳥は家でするのと店で食べるのとでは全然違う。


「焼き鳥と言えば……」


 かよがポツリと呟いたところで、先に精肉店が目の前に現れた。その店先に、見慣れた少年の姿があった。


「あ、みのりだ」


 俺とかよの声がハモる。少年が振り返って笑った。


「お帰り、二人とも。今帰りだったんだ」


 学年一の美少年と言われるこの少しぼけっとした男は、この商店街の和菓子屋の三男坊である。つまり、俺たち三人は生まれた時からの幼馴染だ。


「稔、コロッケ買ったの?」

「そう。今日のおかずと、明日の弁当用に。少しおまけしてもらっちゃった」


 そう言って嬉しそうに笑う稔は小さな時から全く変わっていないように見える。きっと隣のかよも俺と同じことを思っているに違いない。


「タカ君も一つどうだい。ラス一だ。今日はおまけしとくよ」

「良いんですか」


 おばさんの言葉に俺の腹がまた空腹を訴えて来たので、素直に甘えることにする。牛肉のコロッケだ。

 我慢できずにその場でパクリと噛みつくと、衣がサクリと音を立てた。牛肉とじゃがいもの味が口内に広がって行く。冷めていてもおいしい。

 ぺろりと平らげてしまったが、少し腹は落ち着いたように感じた。


「ああ、そうだ思い出した」


 俺がコロッケを食べている間、稔と何か話していたかよが急に手をポンと打った。


「どうしたの?」


 稔が不思議そうな顔をし、俺も黙ってかよを見た。


「焼き鳥よ、焼き鳥。今度の土曜日、おじいちゃんが焼き鳥焼いてくれるの」

「え!?」


 俺だけでなく稔もその言葉に食いついた。

 実は、かよの祖父は焼き鳥を焼く名人なのだ。今は引退しているが、昔、この精肉店の店先でも焼いていたという。

 俺らが生まれた頃にはもうやめてしまっていたが、それでもたまに家族ぐるみの付き合いで焼き鳥を焼いてくれたことがあった。

 その時の焼き鳥と言ったら、最高だった。あれを食べたらしばらく他の焼き鳥は食べられなくなる。


「え、いいないいな。かよちゃん羨ましいなあ」


 素直に羨望の眼差しを向けた稔に、かよが首を傾けた。


「ん? あんたたちも来ればいいでしょ?」

「いいの!?」

「いや、呼ばなくても勝手に来そうだから」


 まあ確かにそれはあるかもしれない。この商店街では、呼んでなくても誰かがふらりとやってくることが多々ある。


「タカも行くよね」

「当たり前だろ」


 稔の言葉に大きく頷く。コロッケを食べたところだというのに、また焼き鳥に気持ちが持って行かれてしまっていた。今日の晩御飯は焼き鳥ではないのだが。


「よし、じゃあ土曜の昼はうちに集合ね。裏庭で焼いてくれると思うから。あ、そうだ。折角だから椿ちゃんも誘おう」


 かよが同級生で幼稚園からの付き合いの友人の名を出すと、途端に稔の顔がぱあっと輝いた。


「ナイス提案だね、かよちゃん!」

「でしょでしょ。連絡しとくね」


 二人にとっては大好きな友人かもしれないが、俺にとっては少し複雑だ。何せ、顔を合わせれば言い合いのいわゆる犬猿の仲というやつである。


「あの女も呼ぶのか……」


 げんなりして溜め息を吐くと、稔が頬を膨らませる。


「何でそんなショックな顔してるのさ! 超ラッキーじゃん!」

「いやそれお前とかよだけだからな」

「まあ、稔がいるって言って椿ちゃんが遠慮しなければ良いよね」


 かよが冷静な声で口を挟む。稔の頬が少しだけ引き攣った。

 そう、高塚たかつか椿つばきという女子は、この美少年が唯一相手にされない女子なのである。



 土曜日、俺は差し入れのキャベツを持って精肉店へと出掛けた。

 店は今日も開いていて、おじさんが肉の並ぶショーケースの前に立っていた。


「おう、タカ君いらっしゃい」

「今日はお邪魔します。そしてご馳走様です」

「じいさん張り切ってるからなあ。いっぱい食ってけ。お母さんたちに土産ももって帰ってやってくれ」

「ありがとうございます」


 奥の住居スペースに通されると、台所の方から顔を出したのは高塚椿だった。


「あら、タカじゃない」

「うわ、お前……マジで来たのか」


 心の声をそのまま正直に口にした俺に、椿は軽く肩を竦めた。その動作が少しムカつく。


「かよちゃんが是非って力いっぱい誘ってくるから、お言葉に甘えたのよ」

「稔も来るのに?」


 椿は眉間に皺を寄せて、何か言いたいのを堪えるように難しい顔をし、それから息を吐いた。――何なんだ、その複雑な今の間は。


「……かよちゃんのおじいさんの焼き鳥は逃したら後悔するってもう一人の私が……!」


 つまりはかよの祖父の焼き鳥が苦手な稔よりも勝ったのだろう。俺は思わず笑ってしまった。

 そんなことを言っているうちに、店の方から話題の稔がやって来た。


「あ、おはようタカ。椿ちゃんもおはよう!」

「お前今日も元気だな」

「もうお昼だけど?」


 俺たちのそれぞれテンションの違う返事にも、稔は一向に気にした様子を見せず、むしろ楽しそうだった。こいつはただ椿と同じ空間にいられるだけで嬉しいのだろう。全く幸せなやつだ。


「ちょっと二人とも、来たなら準備手伝って」


 現れたかよがエプロンを手渡して来る。俺たちは黙ってそれを受け取り、彼女の指示通りに手伝いを始めた。



 鶏肉はもちろんかよの店の肉だ。おいしいことがすでに分かっている。

 俺たちが串に刺した多少歪な焼き鳥たちが、かよの祖父の器用な手でじっくりと焼かれていく。

 皮に少し焼き目がついただけですでに香ばしい匂いが充満し、気を抜くと涎が垂れそうになる。


「はーい、キャベツもいっぱいありますよ~」


 かよがテーブルに上に置いたのは、俺が持って来て俺が切ったキャベツだ。かよの母親が作ったタレで味付けされている。


 やがて焼き鳥が皿に盛られ、俺たちの目の前にやってきた。


「良い匂い……」

「これこれ~」

「ネギも良い具合だね」

「匂いだけで美味いのが分かるな」


 四人四様の呟きの後、一斉に皿に手が伸びた。

 弾力のあるジューシーな肉に歯を立てると、油と肉汁と旨味が口いっぱいに広がった。

 熱い。でもこれだ。これが焼き鳥だ。


 俺たちはしばらく何も喋らず、ただひたすらに串を手に取った。

 かよの祖父はそんな俺たちを見つつ、職人のようにひたすらに焼き鳥を焼き続けた。

 気付いた時にはちらほらと商店街の顔ぶれが混じっていて、やはり来たなと苦笑した。


「かよちゃんのおじいさん最高だよね」


 椿が惚れ惚れするように言うと、稔がぼやいた。


「僕も焼き鳥焼けるようになりたいなあ」

「いや、あんたにこの焼き鳥は無理よ」

「即答!? 僕だって練習したら分からないよ。椿ちゃんにおいしいの焼いてあげる」

「それ私が生きてる間の話?」


 二人のいつもの会話を聞きながらかよが呆れたように笑っている。

 俺は満腹の幸せさを噛みしめていたくて二人をスルーすることにした。のだが、


「ねえ、タカ! 僕だって練習したらできるよね!?」


 稔に絡まれて巻き込まれた。俺は面倒くさくなって適当に答える。


「まあ、頑張れ」

「じゃあタカも一緒に練習しよう」

「……意味分かんねえよ」


 俺はこうしてたまに、上手に焼き鳥を焼ける人の、おいしい焼き鳥を食べられたら満足だ。キャベツくらいは持参して付け合わせの差し入れにしよう。


「ああでも、稔よりはタカの方が焼き鳥焼いてる姿が想像できるわね」

「何で!?」

「どういう意味だ」


 椿の言葉に、稔が驚愕し、俺もつい言い返してしまった。

 かよが、やれやれというように肩を竦め、稔が持って来た和菓子のデザートの準備を始めた。

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焼き鳥が食べたかっただけ 葵月詞菜 @kotosa3

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