竜の子か、人の子か
「イサナは竜の子か、人の子か?」
イサナが鳥にかぶりついた後の道すがら、八神は問うた。竜の子としても人の子としても行き場のない者の、無力な手を引きながら。
「竜」
イサナは短く答えた。問いを間違えた気がして、八神は改めて聞いた。
「竜と人、どっちに近い」
「近いとか遠いとか、なにそれ」
「あー……。イサナはこうして、人の姿をしているだろう。だけどああやって、鳥を捕まえた時は竜みたいだった。でも俺は人のイサナと一緒にいる時の方が、長いから。よく分からなくなる」
日の当たらない水はけの悪い道に差し掛かって、湿った空気が二人を包む。一度ぬかるみに足を取られたイサナは、妙に真剣な顔つきで歩いていた。人間の子どもの足は、踏ん張りがきかないと言いながら。
「人間の姿には、なれるだけ。人のふりをするけど、人じゃない、なれない」
「……そうか」
つまるようだった胸が、わずかに空いた気がした。
湿った土の匂いはむせるようだったけれど、少し先に明るい場所が見えたからかもしれない。
「狸が化けるのと一緒か」
狸に化かされたことなどないが。妖怪話の化け狸だって、姿を変えているだけで人とは違う獣だろう。
「狸も人になるの?」
「お話のなかでは、時々。人に化けて、人を騙す」
「私や父さんは、騙したかったわけじゃないけど」
足元を見つめながら、イサナは言った。
「人間に、私たちの話を聞いてほしかったの。人の姿にならなきゃ、近づくこともできなかったから。父さんは怒ってばっかりだったけど、私は仲良くなれば、もっと話を聞いてもらえると思ってた」
「そう、だったな」
石を投げられても罵られても。イサナは人間の輪に入ろうとしてきた。
「人の姿でいるのは、大変じゃないのか」
「人になるのは、私、結構上手だよ。足を折られた時も、頑張った。殺されると思ったから、逃げた後、人の姿になったんだ。人になってれば、捕まらないもの」
イサナの腫れあがった足と、荒い息遣いを思い出すと胸が痛む。熱にうなされる声を聞いては、罪悪感が胸を潰した。
「でも、このところね。人でいるのが、時々、うまくできなくなる時がある」
「そうなのか?」
八神と連れ立ってから、イサナが竜の姿に戻ったことはない。鳥を狩った時も、獣の血が騒いだように見えたが姿までは変わらなかった。
「色々、わけわからなくなると。気持ち悪くなって、お腹の中ぐるぐるして、頭とか体とか、かーっと熱くなって。竜に戻っちゃいそうになる」
「もしかして、寝込んでた時もそんな風に?」
まるで病の症状のようだと思い、もしや高熱は怪我のせいではなかったのだろうかと考える。
「お熱が高かった時は、ほとんど眠ってたから。何も考えない時は、平気。起きてた時は、おじさんがずっと傍にいた」
見上げてくる丸い瞳。
イサナの枕元から、つかず離れずだったわけではない。ただ他人に世話を押し付けるわけにもいかないし。何かのきっかけでイサナの正体が露見でもしたら、と思うと、長い時間は傍を離れる気にはなれなかった。
「おじさんと一緒にいるから、人のふりをするの」
そう言ってイサナは、小さな手で八神の手を握り返した。
***
「ヤツさん、来て!」
血相を変えて飛び込んできた雷太を、八神は受け止めた。ただならぬ様相の子どもに、八神は眉を顰める。
「どうした」
「あの子、動けなくなっちゃった。なんか血の気ひいちゃって、汗がすごくて。しゃがみこんだまま、固まっちゃったんだ。声かけても体ゆすっても、聞きゃしないし」
雷太はうなだれた。
「俺、意地悪言い過ぎたかな」
初めて逢った、お互いを何も知らない子ども同士の諍い。
知らぬゆえに、わからぬゆえに生じたわだかまりは、時間をかけて向き合い、わかりあっていくものなのだろう。
「だけどあの子だって、何考えてるかわからない」
竜の子と、人の子。
本当に、わかりあえる時がくるのかはわからない。
なだめる様に雷太の背を叩き、やんわりと鶴乃に託して八神は外へ向かった。
気落ちしたわが子をしかと受け止め、話を聞いてやる鶴乃に。母の肩に頭を預けて話す雷太に。ああ親子だなと、当たり前のことを思う。
「イサナ」
鳥小屋のそばで縮こまるイサナを見つけた。丸まった小さな背中の隣に、八神はしゃがみこむ。
「どうした、具合でも悪いか」
抱えた膝に落とした額に浮かぶ汗を見て、八神は問うた。
「きもちわるい」
消え入りそうな声で、イサナが言う。
「吐きたい、全部」
気持ちが悪いのは暑さのせいか、疲れか、何かよからぬ病を貰ったか。
それとも変なものでも食べさせたか。
思い至った瞬間、臓腑が冷えた。
「仲間の体、食べちゃった。もう全部、私の中」
イサナが竜の子だと知らなかったから。
イサナもまた自分の口にするものが、何かなんて知らなかったから。
熱を出したイサナに、
「……すまない」
何があっても最早取り返しはつかないというのに、八神は詫びるしかできない。
イサナがゆっくり顔を上げる。その目が八神を責めるように鋭く射抜いてきたとしても、受け止めるしかない。
互いの瞳がかち合った瞬間、八神の背筋を悪寒が這い上った。
振り乱れた髪の合間から除く双眸、常には丸い瞳が縦に長く細まっていた。食いしばった歯の形は鋭く尖っている。力いっぱい己が腕を掴む両手の、指先に並ぶ爪もまた。
竜に戻りかけている。
「イサナ、イサナ。大丈夫か、俺の声が聞こえてるか」
細い肩を掴む。着物越しに感じる熱と、血の
「イサナ!」
正気を手放さないように、肩にかけた手に力を込めた。イサナが頭を振る。
「わからないの、考えたくない。いっぱいいっぱい考えたら、血が、肉が、暴れ出す」
イサナの中で暴れているものが、飲んで血肉になった仲間の骨身なのか。今まで何とか抑えこんできた、竜としての野性だとか本能だとかいうものなのか。
「……ない」
己の口から出た声は、うめくようだった。
苦し気に歪むイサナの顔が、熱にうなされた時と重なる。
薬を飲ませる、静かに寝かせる、苦しんでいる子どもにしてやれること。
そのやり方が正しいのか、人の知識で間に合うのか。
実際に取り返しのつかない過ちだって、犯してしまった。
「わからない」
まるで幼い子どものように。
「俺もたくさん、わからない」
イサナを迫害から、孤立から助け出す手段。
竜を信仰する生き方と、竜を狩って食べていく生き方。
竜という生き物のこと、人という生き物のこと。
考えるほどに、理解とは程遠くなっていく。
導くはずの大人の吐露に、目の前の幼子の顔が途方に暮れて。
「わかって、たまるもんか!」
牙のある口で、イサナが吠えた。拳で何度も八神の胸を叩いて、拒むように。
「人間なんかにわかるはずない。誰にもわからない。私のことなんて、誰にもわかるもんか!」
しゃくりあげながら、吐き出すように叩きつけられる。
「わかってたまるかばかああああ!」
あらゆることを知っていれば、救えるものがあるかもしれない。八神だって、知ったからこそ選んだ道があった。
けれど知ってしまったからこそ、二度と戻れない道がある。
「……わからないけど、考えるから」
戻れないなら、行くしかない。
知ってしまったのなら、わからないままではいられない。
肩を掴んだ手を、八神は小さな背にそっと回す。
八神は赤子をあやすように、熱くなった背をとんとんと叩いた。
抱きしめるにはあまりにぎこちなく、込める力はきっと足りない。
竜の血が流れる腕が、強く八神の背を掴んだ。尖った爪が背を搔いたが、そんなものは傷ついたうちにも入らない。
「ばか、ばか」
どんなに憎かろうと、イサナはいつも八神の手を握り返してきた。
最早それしか、縋るものがないからかもしれないし。人の姿を留めておこうと、人間の形を確かめようとしているのかもしれない。生きていくために。
背を掴むイサナの指先はいつしか丸くなり、細腕が柔らかく触れてくるのだった。
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