第14話 侯爵家での夕餉
アミルは、軽く三時間ほど着せ替え人形になった。
マダム・キルシェの「これも素晴らしいですわ!」「あらこちらもお似合い!」「これも素敵ですわぁ!」という言葉を何度聞いただろうか。最初こそ笑顔で対応していたけれど、もう最後は死んだ目になっている自分が分かった。
何せ、昼過ぎにこの屋敷に到着したというのに、現在は既に日が傾いているのだ。時刻を見ると、既に十七時半である。
結局、何にするか決めあぐねて、カロリーネに選んでもらった。
「それでは、次回は是非とも奥様のドレスを仕立てさせてくださいな」
「ええ……」
もう二度と着せ替え人形になるのは御免だ――そう思いながらも、愛想笑いでマダム・キルシェを玄関まで見送る。
今回、既製品を用意してくれたマダムだったが、その服には値札が全く掛かっていなかった。そして、着せるときに値段も全く教えてくれなかった。結局カロリーネが選んだわけだが、その総額が幾らになったか聞きたくもないし知りたくもない。
ただ高級品なんだろうな、とは思う。
そして、マダムが帰宅すると共にげんなりしたアミルの前に、入れ替わりのようにレオンハルトが帰ってきた。
「おや……アミルもここにいたのですか?」
「レオンハルト様……お仕事は、終わったのですか?」
「ええ、今日は新商品の製作にあたっての指導だけだったので、もう終わりました。食事にしましょうか」
「え、ええ……」
レオンハルトが、笑顔でそう言ってくれるのに対して、アミルは引きつったように笑みを浮かべた。
先程まで着せ替え人形に成り続けて、コルセットを鬱血するほど巻かれ、精神的疲労が積み重なっている。さらに明日には王家とお茶をするというストレスも相まって、食欲は全くない。
だけれど、一応今日は食事を一緒にすると約束したのだ。
とりあえず、食べ過ぎて引かれるようなことはあるまい――そう思いながら、アミルはレオンハルトの後について食堂へと向かった。
食堂。
既に料理人たちは本日の食事を用意しており、レオンハルトが帰宅を告げると共に既にテーブルの上へと全てが運ばれていた。
一品ずつ提供する形ではなく、全部の食事が既に並んでいるらしい。ほとんどの貴族は、一品ずつ提供されるのを好むものだが――。
「あまり他の家の方には好まれないのですが、これは僕の我儘でして」
「我儘……ですか?」
「ええ。一品ずつ食べるより、全部を一緒に出してもらって、色々食べるのが好きなんです」
「はぁ……」
珍しい、とは思う。
本来は、一品ずつ食事するのが当然である。そうでなければ口の中で味が混ざってしまうし、言ってみれば食べかけの皿をテーブルに置いたままで、別の食事に手を伸ばすということだ。これは公式の場では、決して行われないことである。
まぁ、アミルの実家で出る食事なんて、パンとスープくらいのものだったから、あまり抵抗はないけれど。むしろ、一品ずつ提供される方が緊張してしまう。
「とりあえず、食べてみてもらえますか?」
「はい」
促され、とりあえずスプーンでスープを一口。
次の瞬間――何とも言えない刺激的な香りが口の中を襲った。
「――っ!!」
野菜のほとんど入っていない、黒い粒が沈んでいるスープだ。
だから、大した味はしないのだろうと、そう考えていたのだが――。
「これ、はっ……!」
「胡椒です。南方から仕入れたもので、うちの商会から派遣した者が、現地で作っているものなんです。南方では珍しくないらしいですが、これが貴族には飛ぶように売れまして」
「こ、これがっ、胡椒なのですかっ!?」
アミルも噂に聞いたことがある、貴族御用達の香辛料。
なんでも、同じ重さの金と取引されるほど、その価値は高いと聞く。そして、刺激的な辛みと共に食材の旨味を引き出す、最強の調味料だという話も。
そんな、超高級な香辛料をふんだんに使ったスープ――。
「他にも、香辛料に関しては我が商会がほとんど独占販売をしています。試してはみたんですけど、この辺りでは気候の関係で作れないんですよ」
「こ、香辛料を、独占……?」
「ええ。ただ、どうしても仕分けをするときに、少し商品にならないものが混じっていることがあるんですよ。そういった規格外の品については、我が家の厨房に運ぶようにしているんです。本来、こんなに胡椒を使ったら金貨がどれだけ飛ぶことか」
「……」
ごくり、と喉が鳴る。
当然ながら、アミルの実家で香辛料など使ったことはない。高位貴族の間ではよく使われる、という噂を聞くだけだ。だからこうして、口に入れたのも初めてである。
そして、この胡椒のスープがまた、食欲を引き出す魔力を持っているかのように――。
「おい、しいっ……!」
柔らかな牛肉の旨味を、ぎゅっと閉じ込めたかのようなステーキ。新鮮ゆえにしゃきしゃきとした食感の野菜サラダ、そして何よりふわふわの白パン。
小食のアミルだというのに、まるで吸い寄せられるかのように全てを平らげてしまった。
こんなにも美味しいものが、世の中にあったのか――そう感じてしまうほどの料理の数々。今後、この料理に慣れてしまったら、どこにも行けないのではないかと思ってしまう。
「満足いただけたようで、何よりです」
「……うっ。その、はしたない姿を」
「いえいえ。それより、僕の食べ方の方が汚いとよく言われるんですよ。外ではちゃんとマナー通りにやるんですけど、家の食事くらいは自由にと」
「ええ……」
確かに、と思ってしまう。
アミルは自分の食欲に負けながらも、レオンハルトを観察していたのだ。
そんなレオンハルトの食べ方は、パンを片手に持っている状態でステーキを一口放り込み、そのままパンを囓ってからスープを口に入れる――いわゆる、三角食べである。
汚いとは言わないけれど、貴族がするには珍しい食事方法だ。こういう食べ方は庶民が、かちかちのパンを口に含んだままでスープを入れ、ふやかすような食べ方と同じである。
だけれど、同時にアミルは好感を抱いた。
口ではマナーのことを気にしないと言いながら、実際のところは細かいところが気になる貴族も多いのだ。
その点レオンハルトは、自由な食べ方こそが一番だと思っている様子である。
「ひとまず明日、朝の九時に王城へ来るように言われておりますので、七時に朝食にしましょう。それで大丈夫ですか?」
「うっ……は、はい。大丈夫です」
「昼には終わると思いますので、昼からはご自由にしていただいて結構です。昼食から、工房の方に運ばせますね。基本的には、今日の食事のようなものをパンに挟んで提供する形になりますが、良いですか?」
「最高です」
今日の食事――柔らかな肉、新鮮な野菜、ふわふわのパン。
これがサンドイッチになって、工房へと自動的に運ばれてくるシステム。
それはアミルにとって、天国と同じだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます