第1話 アミルの楽園生活

 メイヤー伯爵家は、決して裕福な貴族家というわけではない。

 貴族として与えられている領地はあるが、領民は全部で百十六名、そのうち七十七名が老人だといえば、その土地の辺鄙さが分かるだろうか。若者は夢を求めて都会に旅立ち、老人たちが体に鞭打って農業を行う。そんな田舎であるがゆえに、得られる税収も大したものではないのだ。

 ゆえに、メイヤー家では自分たちの畑を持ち、自分たちの食べる分は作るようにしている。そのくらいに貧乏で、雇っている使用人すらいないという始末だ。ウィリアムは一応、貴族としての正装に常に身を包んでこそいるけれど、それも二着しか持っておらず繕い痕ばかりの代物だ。アミルに至っては、夜会に出席するドレスこそ一着持ってはいるけれど、それに袖を通したことは今まで一度もない。

 典型的な、金のない貴族――それが、メイヤー伯爵家である。


「はっ」


 そんなメイヤー伯爵家の一人娘、アミルの朝は大抵研究室から始まる。

 貧乏であるとはいえ、貴族は貴族。それなりに広い屋敷は構えているメイヤー家だ。とはいえ、広い屋敷に対して使用人がゼロであるため、その屋敷を掃除しているのは基本的に母、伯爵夫人であるハンナなのだが。

 そしてアミルは、自分の部屋の隣に『研究室』と称して、常に日の光が入らない部屋を勝手に作っている。そこで毎日のようにゴーレムの研究、ゴーレムの実験、ゴーレムの生成――とにかくゴーレムに関することばかりを行っているのだ。

 自分の部屋はあるけれど、そこで過ごすことなどほとんどなく、朝から夜まで――時には夜から朝まで、アミルはほぼ研究室の中で過ごしていた。


「……まずいですね。また寝落ちていました」


 はぁ、と小さく嘆息。

 机に突っ伏して眠っていたせいで、肩がバキバキに固まっている。軽くアミルは肩を回して、それから机の上に広がる惨状を目にした。

 殴り書きで書かれた、散乱した紙。同じ頁を開け続けているせいで、折り目がついてしまった本。紙粘土で作られた模型に、床に転がっている魔術触媒の数々――恐らく、研究室の主であるアミル以外が見たら、空き巣にでも入られたのではないかと思うほどの散らかり具合である。

 そんな殴り書きの紙を手に取り、アミルはがっくし、と肩を落とした。


「……駄目ですね、読めません」


 昨夜、眠気と戦いながら書いた文字は、最早人間の解読できる代物ではない、絡みつく蛇のような何かになっている。恐らく何かを思いついたのだろうけれど、その思いついた何かを教えてくれる人物はここにいない。

 残念、とアミルは紙を捻って、そのまま屑籠へと投げた。


「あ、痛たた……」


 座ったままで、机に突っ伏して眠ってしまったせいで、体中が悲鳴を上げているのが分かる。

 今夜はちゃんとベッドで寝ないと――そう考えはするけれど、考えるだけだ。きっとまた研究が盛り上がれば、ここから動かない自分が想像できるのだから。

 とはいえ、さすがに空腹を我慢できるほどではなく、アミルは仕方なく研究室から出る。


「うっ……」


 研究室は、一応アミルの私室から扉で繋がっている小部屋だ。

 触媒の中には、日光に晒してはならないものも多く存在するため、基本的には雨戸まで閉めて一切の日光を遮っている。そのため、こうして研究室を出るときには日の光にまず眼球が灼かれるのだ。

 暫く目をしぱしぱさせて、どうにか昼間の光に適応し、私室から屋敷の廊下へ。

 母が掃除をしているとはいえ、それでも広すぎて追いつかず埃っぽい廊下を歩き、食堂へ向かう。

 とりあえず、シリアルとミルクだけでも腹に入れておかねば――そう考えながら歩いていると。


「……ん?」


 アミルの私室がある二階から、食堂がある一階まで降りて。

 早く食事を済ませて、麦畑のゴーレムに不具合がないかを確認して、それからまた研究室に戻ろう――そう思いながら、玄関あたりを通っていると。

 ふと、誰かが喋っている声が聞こえた。

 その声の主は、応接室から。残念ながら、我が家の応接室は防音機能など持ち合わせていない。

 アミルに聞き覚えのある声の主は、まず父ウィリアム、それに母ハンナ。そんな二人と会話をしているのは、恐らく男性だろうと思う。

 来客の予定なんてあっただろうか――そう思いながらも、アミルは欠伸を噛み殺しながら食堂へ向かった。


「ふー……」


 食堂の端に置いてある冷蔵庫――そこに入っているミルクの瓶を取り出す。

 この冷蔵庫は、十年ほど前に王都の方で開発された魔道具の一つであり、中にある食材を氷の魔石を用いて冷やしておくことができるという逸品だ。一家に一台、と銘打って販売されたそれは、当時高価であったにも関わらず瞬く間に完売となり、社会現象にもなったと聞く。

 現在は需要と供給が落ち着き、安価に手に入るようになったため、メイヤー家のような貧乏貴族でも持っているのだけれど。

 皿の中にシリアルを入れて、その中にミルクを入れて浸す。


「……」


 もしゃもしゃ、とシリアルを咀嚼し、嚥下し、ついでにカップに注いだミルクを飲み干す。

 アミルが学院を卒業し、実家に戻ってきた当初は、割と母ハンナが食事を作ってくれることもあった。だが残念なことに、アミルの方がそれに合わなかったのだ。

 研究が一段落したり、作業が落ち着いたり、そういったタイミングでなければ動きたくない――そう頑なに告げたアミルは、結果的に母から「それじゃ食事は用意しとくから、適当にあっためて食べなさい」という譲歩を得ることに成功した。

 ちなみに今も、時刻は昼の十一時である。この時点で朝食とはいえないが、アミルにとってはこれが朝食の時間なのだ。


「ふぅ」


 ひとまずシリアルは腹に入れたことだし、とりあえず麦畑のゴーレムを確認しよう。

 そう、アミルが皿をシンクに入れて、食堂の扉を出たその瞬間に。

 三つの影が、見えた。


「それではご検討の方、よろしくお願いします」


「い、いえっ、こ、こちらの方こそっ! どうか、よろしくお願いしますっ!!」


「本当に、本当にありがとうございますっ!!」


「いえ、本当に、こちらの望みですので……」


 頭を下げている二つの後ろ姿――それは、父ウィリアムと母ハンナ。

 そして、そんな二人を前に戸惑っているのは、小綺麗な服に身を包んだ若い男性。

 思わず、アミルはそんな男性に対して、息を呑んだ。


「――!」


 銀色の髪をした、長身痩躯の男性。

 神様が完璧な造形を目指して作ったらこうなるのではないか、と思えるほどの美男子が、そこにいた。

 身長は男性としても高く、手足が長く細い。その背格好に対して白い正装は、誂えたかのように似合っている。その所作一つ一つに、貴族としての気品がみられるような。

 そんな男性が、ちらりとこちらを見て。


「……アミル・メイヤーさん?」


「――っ!? えっ!? アミル!? 何故ここに!?」


「体調不良と聞いていましたけど……大丈夫ですか?」


「う、うっ……ちょ、アミルっ!」


 まず、意味が分からなかった。

 とりあえず、何故アミルの名前を知っているのかとか、勝手に体調不良にされているとか、物凄く父ウィリアムが戸惑っているとか。

 どうやら、借金取りの類ではないようだ、ということだけは安心していいと思うのだけれど――。


「ご、ご挨拶なさいっ!」


「……はい?」


「こ、こちらの方はなっ!」


 物凄く慌ててアミルの方までやってきたウィリアムが、アミルを促す。

 色々とおかしな点は多いけれど、アミルとて伯爵家の令嬢。さすがに相手が高位貴族だと一目で分かる格好をしているし、礼儀は必要だろう。

 そう考えて、頭を下げる。多分これから、誰なのか教えてくれると――。


「エルスタット侯爵家現当主、レオンハルト・エルスタット様だ!」


「……」


 その名前は。

 通称『アルスター王国の超新星』と名高い侯爵家――その当主。


 王国で、最も金持ちと称される貴族だった。

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