第0話-3
若井は無言で首肯し、遺体に近寄った。犯罪者かもしれぬ男だが、殺人事件の被害者であることも間違いない。合掌及び目礼の後、「それじゃあ失礼をして」とブツブツ呟きながら、ズボンをずらしに掛かった。
「これは」
下半身には傷が少なかった。皆無ではないが、腰から上が琵琶法師のお経状態なのに比べると下半身、特に逸物とその周辺はまばらである。
「どんな具合ですか」
背後から茜沢の声が届く。若井は一度肩越しに振り返ってから、「少なめです」と答えた。
「どんな風に傷は付いていますか」
「どんなと言われても……こう、円柱の中程をぐるりと一周する感じですかね。下からは見てないので断言はしませんが、恐らくつながって一つの輪になっています」
「そうですか」
「何なら直にご覧になりますか? こうして引っ張っていますから、先生は触れなくて済む」
促してみた若井。死んだ男のズボンと下着を長々と引っ張っているのは、客観的に見れば滑稽に移るだろうなと頭の片隅で感じながら。
「いえ、遠慮します。想像と一致していたので、見る必要はないと判断します」
「逸物の一部、円を描くように傷があると想像していたのですか」
遺体のズボンを戻しながら、応じる。彼の声には、さすがに信じられないという響きが含まれていた。対して茜沢は気を悪くした様子もなく、「まあ、すべては想像です。正式な捜査を経て、正式な結論を出すのが正しい」と言った。要は、勝手気ままな推理を述べるが、そのつもりで聞いてもらいたい、という意味らしい。
「それじゃ、想像通りだったということから、どんな結論、あるいは次の推理につながるんでしょう?」
「設楽宗來は強姦目的で女性――いや昨今は女性とは限らないかもしれないので、被害者を脅し、彫刻刀を突き付けつつ、行為に及ぶ。その際にある要求をしたのでないかと思います」
台詞を区切る茜沢。時間をやるから考えてみろということなのかもしれない。若井は頭を捻った。が、程なくしてその頭を今度は左右に振る。
「要求ですか……分かりません」
「刑事さんが思い付かないとなると、僕の想像力はやはりけったいなものなのかもしれませんね。全然大したことじゃないのですが――設楽は被害者に、自分の身体を噛むように求めたんじゃないかと想像します」
「え、噛む?」
「彫刻刀を突き付け、軽く痛みを感じる程度に噛め、決して噛みつこうとするなと要求したんじゃないでしょうか」
「どうしてまたそんな変わったことを……いえ、そういう嗜好の人がいるのは、理解しています。先生が何故、そんな思い付きをされたのかが分からない」
「歯形です。軽くでも痛みを感じるくらい噛めば、被害者は設楽の身体中に、己の歯形を残すことになる。歯形が重要な物証になるのは、言うまでもないでしょう」
「そうか。それで強姦被害者は設楽を殺害後、彫刻刀で歯形を削り取っていった……」
「体液の類を雨で流したあと、削る作業に取り掛かったんだと思われます。恐らく、削ったすべてが歯形ではなく、ダミーもあることでしょう。歯形のみ削ったら、その曲線が浮かび上がりますからね。歯に関するデータは隠せても、口のサイズなどのデータを残すことになりかねない」
「な、なるほど」
「下半身が比較的少ないのは、設楽の好みなのかな。特に逸物は、何度も噛ませるようなもんじゃないだろうってことくらい、想像が付きます。死に物狂いになった被害者に噛み千切られたら一大事ですから」
「それで想像した通りだったと」
「ええ。逸物にダミーの削り痕がないのは、もうできる限り触れたくないという強姦被害者心理が働いたのかもしれない。ぜ~んぶ、一学者の想像、妄想に過ぎませんがね」
「いや、話に聞いた通りの名アドバイザーぶりで、感服しました」
「仮に当たっていたとしても、犯人特定及び確保にはつながらないのが残念です」
悔しげに述べた茜沢。
「うーん、それなら一応、この山に取り残された方達を調べれば、犯人が分かるかもしれませんよ」
「そうでしょうか。確かに、遺体の具合からざっと推測される犯行時刻から推して、土砂崩れだか崖崩れだかの前に下山できたとは思えませんが、いったい何名、何十名の登山者がいるのやら」
「先生、どうやら自分にも“けったいな”想像が降りてきたようです。犯人は削り取った肉を持ち去ったようです。現場に残せないのだから当然ですよね。だからといって、下山の途中でそこいらに捨てる訳にもいかない。警察が速やかに見付けるかもしれないのだから。まさか食べる? いえいえ、心理的に難しい。所持しているほかないんじゃありませんか?」
「……そのようですね」
茜沢は微笑し、肯定した。だが、ふっと表情を引き締めると、「少なくとも一つ懸念があります」と付け加える。
「どのような?」
「犯人が下山中、目の前で土砂崩れが起きた場合です。頭の回転の早い者なら、咄嗟にその土砂に、削り取った細かな肉片を放り込むかもしれない」
「ああ、それをやられるとお手上げかも。可能性は低そうですけど」
「まずあり得ないでしょうね。もしあったとしても、そのときは土砂崩れの現場から引き返して来た人物こそが犯人だと推定できる訳ですし、これは前言撤回かな。懸念には及ばないと」
茜沢ははようやく本当の微笑を覗かせた。
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