第0話-2
「え?」
「設楽と名乗っていた別の人物が、この男性と入れ替わった可能性は現時点では排除できていない。違いますか?」
「あ……えっと、そう、ですね。そうなります」
若干たじろぎつつ、肯定した若井刑事。
「入れ替わる理由も想像、妄想できます。偽の名刺を用意していたことから、設楽宗來なる人物は何らかの形で人をだます、詐欺的な行為を計画していたか、あるいは既に実行していた可能性がある」
「……確かに、そういう見方もできますね、うん」
「この仮説を踏み台にし、話を進めます。僕は推理小説好きが高じて、実際の事件や犯罪の記録、といっても読み物風に書かれた物がメインですが、そう言った類のテキストをそれなりに読んでいます。芸術家を名乗った男の実際の犯罪と言えば、真っ先に思い浮かぶのは、K・Oの事件ではないでしょうか」
「ああ、画家と称した男が女性をモデルに誘い、次から次へと強姦、果ては命を奪って遺棄した……」
「あの事件を模倣するには、彫刻刀は犯罪者にとって非常に有効なアイテムになるんじゃないか。芸術家を装うための小道具かつ相手を脅す凶器にもなる」
「一石二鳥、ですか」
「そう言えます。ここで、あちらの亡くなった人物が、犯罪者・設楽宗來ではないと仮定しますと、やや不可解な状況を呈することになる」
そんな仮定をしなくとも、全身を彫刻刀で傷つけられた死体というだけで、充分に不可解なのでは。若井刑事はそんな考えを抱いたが、黙っていた。
「その場合、設楽が殺したと見なすのが、捜査の常道ですよね?」
「え? あ、はい。凶器が彫刻刀で、設楽の刻印が入っているんだから」
「設楽が犯人なら、そのような証拠として明々白々な凶器を現場に放置して逃げるとは、考えにくい。普段人が寄りつかぬであろう古びた小屋で、遺体の全身に傷を刻みつける行為をしていた点から、慌てて逃げたから凶器を忘れたとする説は成り立たないですし」
「はあ、納得です」
「そうなると、さっきの仮定が誤りで、その逆、死んでいるのは設楽宗來だと考えるのが妥当ではないかと思えてきます。
無論、他の可能性、たとえば死しんだのは全くの別人で、犯人は設楽に罪を擦り付けるために設楽の彫刻刀を使った、などという線も検討の必要はあるかもしれません。けれども、単に濡れ衣を着せるには遺体への損傷が執拗であること、わざわざ山に来て殺す必要性が感じられないこと、設楽が“商売道具”である彫刻刀を簡単に手放すとは思えないことなどを理由に、濡れ衣説の可能性は低いと見なしていいでしょう。
以上により、死亡したのは設楽であり、彼は彼自身が犯罪の対象とした相手もしくはその知人から逆襲をくらい、殺された――と、ここまで想像を広げてみます」
「復讐殺人だから、このような残忍な仕打ちを遺体に施したという訳ですか」
「それも考えにはあります。が、もしかしたら別の事情があるのかもしれません」
「別と言いますと……?」
「証拠隠滅」
「うん? 証拠って、遺体の身体表面に、犯人特定につながる何らかの痕跡があったという意味ですか?」
「おお、素晴らしい。察しがよくて助かります、若井刑事」
拍手のポーズだけして、喜色を覗かせる茜沢。若井刑事は顔に火照りを感じた。
「い、いえ。思ったことを反射的に言っただけで。肝心の証拠が何なのかは、まるで想像が付かない有様です」
「もちろん私だって、分かってはいません。想像を働かせているだけです。いくら人の寄りつかない小屋の中とは言え、天気が急に悪くなれば飛び込んでくる人だっているかもしれない。にもかかわらず、こうして執拗に、ある意味丁寧に皮膚を削いでいったのは、そこに犯人にとって残していては不味いものがあったからではないしょうか」
「……もしかして、体液、汗や唾液でしょうか?」
新たな思い付きを口にした若井。
「K・Oと同様の犯罪――強姦を設楽が行っていたとすれば、強姦被害者の体液が設楽の身体に移る。それらを消すために皮膚を削いだ……。いや、でもおかしいかな。体液の類なら、水で洗い流せばほとんど検出できなくなるはず」
若井刑事は小屋の外を見やった。今は上がっているが、少し前まで雨が降っていた。結構な大雨だったから、あれを利用すれば体液類の痕跡を消すくらい、容易いように思える。
と、若井の視線の動きで、茜沢も察したらしい。
「僕が想定したのは、体液以外のものですよ。若井さん、ちょっとお願いがあるのですが、遺体のズボンをずらして、中を見てもらえませんか」
「ええ? ズボンを?」
「はい。いくらアドバイザーでも、遺体に触れるのは御法度でしょうから。それに、気になりません? 下半身には彫刻刀の傷はないんだろうかって」」
「うーん、それはまあ、気になりますね。積極的に見たいとは思いませんけど、捜査に必要とあらば」
「ではお願いします。特に、この死者のいわゆる逸物に彫刻刀の傷はあるか、あるとしたらどのような形で付いているかを、観察してくれますか」
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