剣闘試合
─ローマ・コロッセオ─
昼過ぎ頃。朝から始まっている闘技会も既に後半を迎えていた。
そんな頃、コロッセオにタルキウスが姿を現す。
このコロッセオは長径約一八八メートル、短径約一五六メートルの楕円形で、高さは約四八メートル、収容人数は五万を超す世界最大の闘技場である。
中央のアリーナと呼ばれる空間を取り囲む観客席の中に、設けられている一際豪華な装飾が施されている個室、国王専用席と呼ばれる場所だ。アリーナで行われる剣闘士の試合を、最もよく観戦できる場所に作られたこの国王専用席にタルキウスの姿はあった。
普段、タルキウスが民衆の前に姿を見せる事はないが、その数少ない例外がこのコロッセオだった。
と言っても、タルキウスがアリーナを望める面以外は全て壁で覆われているので、実際にタルキウスの姿を拝めるのは五万人の観客の中でもほんの一握りだけ。しかも遠目からなので、見るのはかなり大変である。
今、行われている試合は、辺境地域から連れてきた屈強な奴隷剣闘士同士による殺し合いだった。
観客席にいる五万人の大観衆は、剣闘士が剣を振り、相手の身体を傷付けて、血が噴き出す度に歓喜の声を上げた。
ここに集まっている観客は、残虐な戦いを見て興奮する大人、勇敢に戦う剣闘士に無邪気に憧れる子供、剣闘士の鍛え上げられた肉体に熱を上げる女性など理由は様々だが、剣闘士試合を心より楽しんでいる。
タルキウスは、国王専用席に座って目の前で繰り広げられる剣闘士の試合を観戦していた。
タルキウスの右側には同じく椅子に座っているリウィアがおり、その反対側には若い藍色の髪をした元老院議員の姿がある。
「国王陛下、この度は御足労をお掛けして申し訳ございませんでした」
そう言うのは、ルキウス・クイニス・マエケナス。
タルキウスの身分に囚われない能力主義的な人材登用を代表する人物だ。それだけにタルキウスからの信頼も厚い。
「構わん。今回の闘技会の主催者はあのクラッススだからな。どんな試合を見せてくれるのかと余も期待していた」
クラッススとは、エルトリアで最も裕福な資産家と言われる人物の名である。
タルキウスが国王の座についた時にはすぐに支持を表明し、タルキウスの治世を資金面からバックアップした事でその先見性を披露していた。
そんな資産家とこのマエケナスは個人的な深い繋がりを持っており、クラッススからの経済的援助を受けていた。
いくら要職に就こうとも、身分が低いマエケナスにとってクラッススからの援助は政治生命を保つための重要な生命線になっていた。
そんなクラッススが今回、このコロッセオにて闘技会を主催する事になり、マエケナスはクラッススからこの闘技会にタルキウスを招いてほしいと頼まれたのだ。
「で、クラッススはどこにいる?」
「剣闘士達の様子を見に行ったんでしょう。黄金王にご覧頂けるという事でクラッスス様も張り切っておられましたから」
「闘技会ももう終盤だろ? 今更何を見に行く必要があるのやら」
タルキウスは若干呆れた風に吐き捨てつつ、右手で頬杖をついた。
隣の椅子に座っているリウィアがその様子を見て、苦笑を浮かべている。
タルキウスが左手を振って、マエケナスに「下がれ」という意味を籠めた合図を送る。
マエケナスは一礼して国王専用席から退出した。
やがて闘技会は最終試合に差し掛かる。
試合の準備が整うと、司会者の男性は神話の神の顔を模った銀製の仮面を被って声を上げる。
『お集まりの皆様、いよいよ最終試合です!この最後の試合を飾るのは、我等がクラッスス様が用意した最強の剣闘士です!』
司会者の甲高い声が、広いコロッセオの中に万遍なく響き渡る。
コロッセオの至る所には、司会者が被っている仮面とまったく同じ形状の仮面が数多く設置され、司会者が言葉を発する度に、その全ての仮面から同じ声が発せられる。これはエルトリアが開発した【共振の仮面】という魔法道具。被った者の声を別の仮面へと伝えて離れた場所に声を届けられる。
元々は軍団で通信機器として開発されたのだが、効果範囲は精々このコロッセオの大きさと同規模程度と軍事利用するには、範囲が狭かったために軍での利用は見送られ、今は闘技場で司会者の声を観客に伝える道具として活用されていた。
「最強の剣闘士とは、また大きく出たな。金持ちのクラッススの事だ。どうせ金にものを言わせて揃えたのだろうが」
タルキウスがそう言うと、彼から見て左の扉の開く。
その扉からアリーナに姿を入場したのは、ギリシャのクレタ島に生息していたとされる希少種ミノタウロスだ。首から上が牛、下が人間の形をした亜人種の一種で、人間を数段上回る強靭な肉体と戦闘能力を誇る種族である。
人間と同等の知能を持つが、人間に比べて好戦的な傾向があり、野蛮な猛獣のように世間では認識されている。
両手両足そして首には分厚い鎖が繋がれており、服装も薄い腰布を巻いているだけだった。
「ほお、ミノタウロスか。余も本物を見たのは初めてだ」
タルキウスが目の色を掛けて、身体を前に乗り出した。
「タルキウス様、嬉しそうですね」
「ふふ。まあね! ミノタウロスなんてそうそう見られるものじゃないし! ……それにミノタウロスの対戦相手もちょっと気になるな~」
タルキウスは顔を、ミノタウロスが出てきた方とは反対側のアリーナへの出入り口へと向ける。
そこから姿を現したのは、筋肉質の屈強な体格をした銀髪の綺麗な青年だった。
『これより行われます最終試合は、ガリアより連れてこられた奴隷戦士クリクススと伝説の怪物ミノタウロス!! このクリクススはまだ二十歳という若さながらも我等がエルトリア軍の軍団兵百名をたった一人で倒した屈強な戦士! 正にミノタウロスと戦うに相応しい戦士と言えるでしょう!』
コロッセオの中に司会者の声が、【共振の仮面】を通してコロッセオ全体に鳴り響く。
司会者の説明を聞いて、タルキウスは俄然クリクススという剣闘士に興味が湧いた。
「我が軍の兵百人を一人だけで、か。これは見物だな」
コロッセオ内で複数のラッパが一斉に鳴り響く。これを合図に試合が開始され、五万以上の観客が一斉に沸き立つ。
ミノタウロスが右手に握る剣を振り回しながら雄叫びを上げ、アリーナの上に敷き詰められた白い砂の上を走る。
「うおおおおおおッ!!」
まるで野獣のように本能の赴くままに襲いかかろうとするミノタウロスに対して、クリクススは積極的に戦おうとはしなかった。
クリクススも右手に剣を握っているが、ミノタウロスの剣を避けるばかり自分から攻めようとはしない。
それを見た観客達はつい先ほどまでの歓声から一転して非難と罵声の声が上げる。
「やる気あるのか!」
「ちゃんと戦え! 血を流せ!!」
怒りの声がコロッセオを包み込む中、タルキウスは楽しそうに試合を見ている。
「あの男、確かに中々やるみたいだな。一見、ミノタウロスに押され気味にも見えるけど、実際は動きを完全に見切っている。これはもう勝敗は決まったね」
得意げに語っているタルキウスだが、リウィアからは何の返事も無い。不思議に思ったタルキウスは顔を横に向けてリウィアの方を見た。
すると、リウィアはまるで心ここにあらずと言うような雰囲気で、試合に見入っていた。
「リウィア?」
「え? あ、は、はい! そ、そうですよね。少し見ただけでそこまで観察できるなんて、流石はタルキウス様です!」
タルキウスに名前を呼ばれて、リウィアはハッと我に帰ると慌てた様子でそう答えた。
そして次の瞬間にはリウィアの視線は、アリーナで戦う剣闘士クリクススに釘付けになっている。
リウィアのその様子に、タルキウスは目を細め、頬を膨らませて不機嫌そうになった。
タルキウスの中で何とも言えない苛立ちが駆け巡り、それがやがて敵意となってクリクススに向けられる。
あいつより俺の方が絶対強いのに。
そんなタルキウスのモヤモヤとしていた気持ちは、次第にクリクススへの対抗心へと繋がった。
その時だった。ミノタウロスの執拗な攻撃から無理に避けようとしたために、クリクススの足がアリーナの砂に絡め取られ、彼は身体のバランスを崩してしまう。
その一瞬の隙を逃すまいと、ミノタウロスは剣を大きく振り上げて、力いっぱいクリクススの脳天目掛けて叩き込もうとする。
しかし次の瞬間、ミノタウロスの巨体はまるで突風に晒された布地のように軽々と宙へと飛び上がり、後ろへと吹き飛ばされた。
その光景はあまりにも異様であり、五万人の観客は一様に何が起きたのか理解できず、歓声も罵声も静まり返ってまだ試合中だというのに、コロッセオは異様な静けさに包まれる。
だがそんな中で、国王専用席に座るタルキウスは関心の眼差しを向けていた。
その様子に気付いたリウィアは一体何が起きたのかを問うてみる。
「あのクリクススって剣闘士は目には見えない障壁みたいなものを展開したんだ。それも一瞬だけね。たぶん防御魔法の一種だと思うけど。あんな魔法は見た事が無いな」
タルキウスの中に芽生えつつあったクリクススへの対抗心や敵意。そこに彼への興味まで加わった。
静寂がコロッセオの中を包み込む間に、クリクススは反撃を始めた。
目にも止まらぬ速さの剣技によってミノタウロスは剣を弾き落され、続く第二撃目で左腕を切り落とされた。その痛みに悶え苦しむ中、クリクススの三撃目が繰り出されてミノタウロスの首を切り落とす。
この数秒の間に繰り広げられた逆転劇には観客達も驚かされて、先ほどまで非難と罵声を叫んでいた彼等の声は熱狂的な歓声へと一転した。
タルキウスも思わず「ほお」と感嘆の声を漏らすも、その横でリウィアが熱心に拍手を送っている様を見て、タルキウスの中で何かが弾け、椅子からバッと勢いよく立ち上がった。
「た、タルキウス様? どうされたんですか?」
「あいつと勝負したい!」
「は、はい? どういう事ですか?」
「だ・か・ら! あのクリクススと勝負したいのッ!」
タルキウスはまるで駄々を捏ねる子供のように騒ぎ立てる。
一体どうしたのだろう?とリウィアが不思議がっていると、タルキウスは我慢できずに身を乗り出して、アリーナへと飛び降りた。
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