第3話 大切なモノ。
「あの、2時に約束があって、とても大切な取引なんです。どうしても行かないといけなくて、でも行き先がわからないんです。お願いします。助けてくださいませんか」
恵奈は必死に頭を下げる。
男は形のいい顎に手を当て、ふぅむと頷いた。
「ここから出たい、ということかい?」
「ええ。行かなきゃいけないところがあるんです」
「そうか」
突然、恵奈と男の間を風が吹き抜けた。
男は両手を広げ、
「何かを望むのならば、何かを差し出さなければならない。それがここの掟だよ。君は私に何をくれるの?」
と嬉しそうに恵奈に訊いた。
幼児が菓子をねだるかのように無邪気に。
「道を聞くのに、お金が必要なのですか? そんなに持っていないけど、支払えるだけ支払います」
恵奈はカバンから財布を出し、万円札を何枚か抜き出した。
今月の生活費だ。
これは経費になるんだろうか、と恵奈はふと思う。
だがすぐに否定した。
そんなことはどうでもいいのだ。
それよりも『対価として金を渡すこと』。
その行為自体が何故かとても恥ずかしいと感じてしまう。
この男の前では、自分の卑しさが身に染みる。
(顔がいいって、ほんと困る……)
ここまで突き抜けてしまうと、人ではない何か、例えば“神“のように思えてくるのは、どうしてだろう。
男は恵奈の差し出したお札を受け取りもせず、我関せずと言うように如何にも優雅に微笑んだ。
「これは金……? あぁ通貨のことか。そんなものはいらないよ。ねぇエナ。私が欲しいのは一つだけ。あなたが大切にしている物が欲しいんだ」
「私が大切にしてるもの……?」
(なに訳がわからないこと言ってんの? というか……)
今、確かにあの艶やかな唇はエナと言った。
なぜ男は恵奈の名を呼んだのだ?
(私、自分の名前を言ったっけ……)
何かがおかしい。
否。
ここはどこかおかしい。
(怖い。そう、この男、怖い)
「大切にしているもの、そう言われても困ります。あなたにあげられるものなんて何もないです。お金くらいしかない」
けれど、男の言うことを聞かないと、取引先へ行くことはできない。
どうにもならない、そんな気がする。
とりあえず渡せる物が他にないか、恵奈は思いを巡らした。
(スマホは困る。車は社用車だし)
他に何があるのだろう。
服?
まさか、着ているものはさすがに脱げない。
「何を悩むことがあるのだろう。君はたくさん持っているよ、エナ。そうだな。……今までも勝手にここに来たのに、泣きながら帰還を望む者は幾人もいた。彼らは差し出してくれたよ。例えば……」
男は自らの腕をさする。
「この腕。素晴らしいでしょう。それから体。肌。瞳もだ。海とも空とも言えるこの青は特に気に入っている。顔も彼らがくれたものだよ。歌が上手い者は声を差し出してきた」
「は? いやいやありえないでしょう」
あの美しい体のパーツが全て他人から受け取ったものだなんて。
現実的ではない。
そもそも他人から奪ったものを、自らの身体に使うことなんて出来るはずが無いじゃないか。
(この人、頭おかしい。サイコパスか何かなの? 相手してらんない)
恵奈の理性は全否定する。
だが、身体の奥底に潜む本能は“この男は正しい“と言っている。
きっと真実だ。
(狂っている)
けれど、この男の言っていることに間違いはないのだろうと恵奈は感じていた。
だとしても。
恵奈は切羽詰まった状況であるのは変わらない。
こうしている間に取引先との約束の時間は迫ってきている。
イケメンだけど訳の分からないことを言う狂人に、足止めされる余裕は正直ないのだ。
恵奈は大きく息を吸い、そしてゆっくりとはいた。男をまっすぐに見据え、
「私はどうしてもすぐに行かないといけないの。……あなたの欲しいものを言って。手とか足とか体とかそういうのじゃなかったら渡してあげる。だから、すぐに店までの道を教えて欲しいの」
「へぇ。面白いことを言うね。初めてだよ、そんなことを言う人間は。いいよ、エナの望むようにしよう。私の欲しいもの……」
男はしばらく考え、そして恵奈の胸を指さした。
君と出逢えた妖かしの場所。 吉井あん @miyahiranok
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