女のカン
零
第1話
私がこの店を始めたのはもうどれくらい前だったろうか。
カウンター席だけの小さな小料理屋。
それでも、私の小さなお城だ。
そんな店に、開店当初からずっと来ている常連のお客様がいる。
小柄で上品な年配の男性だ。
彼はいつも決まった時間にやってきて、決まったものを注文する。
「日本酒、」
銘柄は特に決まっていない。
珍しいものが入れば、それを、という。
「冷ややっこ」
夏には冷ややっこで、冬には湯豆腐で。
いつでもネギと鰹節とショウガを乗せて、しょうゆをたらす。
彼が湯豆腐、と言い始めたら冬が始まり、冷ややっこと言い始めたら夏が来る。
ここ数年は私にとってはそんな感覚だった。
「やきとり」
これは決まっている。
ねぎま、砂肝、軟骨の三本セット。
特にそれを最初から出していたわけではないのだが、彼のリクエストで作ったのがきっかけで、
今ではうちの定番メニューになっている。
「枝豆」
これが彼にとっての締めのメニュー。
彼がこれをオーダーすれば、食べ終えたら帰る、の意味がある。
けれど、そのスピードはまちまちだった。
店が混んでくれば、早めになくなるし、他に客がいなければ、ゆっくりになる。
少し前に気づいたことだが、むしろ、他の客が来るまで、枝豆で時間稼ぎをしているようにも思えた。
「美味しかったです。ありがとう」
いつでもそういって、こちらが見習いたくなるような、美しいお辞儀をして去る。
そんな背中を、私は何度も見送ってきた。
そんな彼がぷつりと来なくなって、もうひと月になる。
気にはなるが、彼の連絡先など知る由もない。
私に出来ることは、ただ、変わらず彼のお気に入りのメニューをいつでも作れるようにして、店を開け続けることだけだった。
「こんにちは、もうやってますか?」
その日の開店直後に、一人の若い男性がやってきた。
その声に少しどきりとする。
かの人の声を、若くしたらこんな感じだろうと思うような、そんな声音をしていた。
「はい。何になさいますか?」
「日本酒を」
「お好きな銘柄はございますか?」
「あるもので」
そのやりとりに、私は懐かしさを感じた。
彼が最初に店に来た時に、同じ会話をした。
「お食事はいかがします?」
「湯豆腐を」
ああ、と、思った。
一か月止まったままだった私の時計が、ゆっくり動き出したような気がした。
その後、その若い男性は彼の人と同じものを同じ順番で注文した。
最後に出した枝豆の食べ方も、店内の混み具合を見て調整している。
その若い男性と、彼の人の関係性は分からない。
けれど、私はただただ懐かしい思いに浸っていた。
「おかみさん、お勘定」
そういって、その若い男性は何かに気づいたように、あ、と言って付け足した。
「おかみさん、申し訳ないのですが、焼き鳥を持ち帰ることは可能ですか?」
「あ、はい。簡単な入れ物でよろしければ」
「お願いします」
そういって若者は再び椅子に腰を下ろした。
私はすぐに焼き鳥を一組作り、持ち帰り用のパックに入れて薄紙で包み、ビニール袋に入れた。
「どうもありがとう。父にね、持っていきたいと思って」
「お父様?」
「先月から入院していてね。庭で転んで骨折してしまって、年寄りだから回復に時間がかかっているですよ。うまい焼き鳥が食べたいというものですから、土産です」
「何故、焼き鳥屋でなく、うちに?」
そう聞くと、彼は照れたような笑顔を見せた。
「父がね、行きつけの小料理屋で食べる焼き鳥がうまい、と、言っていたものですから。店の名前は教えてくれなかったですけれど、小料理屋で食べた焼き鳥でここのが一番おいしかったので」
「そうですか。ありがとうございます。退院なされたら、ぜひ一緒にいらしてください」
私はそう言って、彼の背中を見送った。
もしかしたら、という思いもあった。
女のカン、と言えば、聞こえはいいけれど、何の保証もないことには違いはない。
(それでも、)
私は小さく笑った。
きっとそのうち、あのカウンターのいつもの席とその隣の席で、よく似た顔立ちの二人が、同じものを食べる姿を見られるだろう。
これからは、二人分用意しておこうと、私は心に決めた。
女のカン 零 @reimitsuki
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