第〇服 安赦帰堺(伍)
栂尾以外の茶は「非茶」とされたが、禅寺の裏山の「
栄西・明恵らが、求道の精神の助けに茶を用いたのに対し、真言律宗の
その頃、宋で「闘水」から発展した「闘茶」が輸入され、武家を中心に流行した。これは、歌合せや絵合せなどの社交的遊戯が素地となり定着する。闘茶の後は宴会となり、武家から庶民にも爆発的に広がった。鎌倉末期から南北朝・室町初期に闘茶は最盛期を迎え、幕府は度々闘茶禁制令を出すことになる。
闘茶も流行によって複雑化したが、最も広まったのは「四種十服茶」であった。これは、四種類の茶を十服点てて飲み比べ、本茶を言い当てた数を競う。加えて、大名の間で、支那渡来の道具や鎌倉以来の伝来品――唐物を蒐集することが流行し、盛大な闘茶会や宴会が催された。佐々木道誉などの「婆沙羅大名」らによって莫大な賞金賞品を賭けた「百服茶」なども行われている。これが整理され、現在の千家で行われる七事式の一つ「茶カフキ」となった。
闘茶全盛の最中、
また、この時期、宇治茶の品質が向上し、栂尾茶と並んで本茶に数えられるようになり、献上された宇治茶を義満が褒め、「無上」という銘を贈っている。
義持の嗣子・五代
六代将軍となった
また、管領や守護大名の力を削ぐために家督継承に積極介入し、大名家の内訌を誘発してしまった。このことがのちの応仁の乱の遠因となる。
嘉吉の変で義教が殺害されると九歳の嫡子・義勝が七代将軍となったが、僅か八ヶ月で病死してしまった。そこで義勝同母弟の義政を管領・畠山左衛門督持国らが後見することになり、義政は八歳で八代将軍となる。
足利義政といえば、暗君の代名詞のように言われるが、元々暗愚だった訳ではなかった。義政の周囲は政治を
義政は義満の北山鹿苑院に対して東山慈照院を建てる。そして、此処を拠点に東山文化を啓いていった。東山文化は北山文化の絢爛豪華な様式に対し、義政が万葉集を愛したことからも分かる通り、枯淡閑寂をその根柢に擁する。まだ漢作唐物中心の世界ではあったが、侘数寄の蕾が付いたと言えた。
「
紹安は一頻り茶の歴史を語り終えると、曾祖父のことを話し始めた。道通は反故に走書きで紹安の話を書き起こしていく。
この物語は、田中紹安が渡辺道通に語った千家三代の物語である。
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