第〇服 安赦帰堺(伍)

あんゆるされてさかいに帰る


 栂尾以外の茶は「非茶」とされたが、禅寺の裏山の「やま茶」、洛外の茶園の「京茶」、他には「宇治茶」、「八女茶」など産地茶は非茶の中でも上物とされた。


 栄西・明恵らが、求道の精神の助けに茶を用いたのに対し、真言律宗のえんぼうえいそんりょうかんぼうにんしょうらは慈善救済の方便として用い、茶を庶民に振る舞ったことで、結果として喫茶が広まることになる。


 その頃、宋で「闘水」から発展した「闘茶」が輸入され、武家を中心に流行した。これは、歌合せや絵合せなどの社交的遊戯が素地となり定着する。闘茶の後は宴会となり、武家から庶民にも爆発的に広がった。鎌倉末期から南北朝・室町初期に闘茶は最盛期を迎え、幕府は度々闘茶禁制令を出すことになる。


 闘茶も流行によって複雑化したが、最も広まったのは「四種十服茶」であった。これは、四種類の茶を十服点てて飲み比べ、本茶を言い当てた数を競う。加えて、大名の間で、支那渡来の道具や鎌倉以来の伝来品――唐物を蒐集することが流行し、盛大な闘茶会や宴会が催された。佐々木道誉などの「婆沙羅大名」らによって莫大な賞金賞品を賭けた「百服茶」なども行われている。これが整理され、現在の千家で行われる七事式の一つ「茶カフキ」となった。


 闘茶全盛の最中、応永元年西暦1394年に足利義満が子・義持に将軍職を譲ると、洛外の北山に別邸を建築し幽棲した。これによって北山文化が興り、寝殿造りの邸宅から書院造りのある邸宅が増えていく。そして、徐々に闘茶会ではない、茶会が開かれるようになった。


 また、この時期、宇治茶の品質が向上し、栂尾茶と並んで本茶に数えられるようになり、献上された宇治茶を義満が褒め、「無上」という銘を贈っている。


 義持の嗣子・五代よしかずが亡くなると、義持は後嗣を立てず、そのまま歿してしまい、くじ引きで青蓮院門跡の門主であった義満の子・えんが指名された。しかし、幼少であったため、元服後に将軍となることとなる。この間、将軍職は空位となり、管領・畠山左衛門督満家が権力を掌握した。


 六代将軍となったよしのりは、軍制改革や将軍親政を行い、幕府の威信回復に努める。悪御所と綽名されるほど、苛烈で厳しい処断を行ったと言われるが、茶湯に興味を示し、同朋衆に茶の湯を仕切らせた。これは、茶の湯を幕府の権威付に利用した最初の例である。身分や信頼に応じて席次を決め、拝見などの可否を席次によるなど、現在の茶の湯における規則の基を定めた。これが茶湯御政道の始まりである。


 また、管領や守護大名の力を削ぐために家督継承に積極介入し、大名家の内訌を誘発してしまった。このことがのちの応仁の乱の遠因となる。


 嘉吉の変で義教が殺害されると九歳の嫡子・義勝が七代将軍となったが、僅か八ヶ月で病死してしまった。そこで義勝同母弟の義政を管領・畠山左衛門督持国らが後見することになり、義政は八歳で八代将軍となる。


 足利義政といえば、暗君の代名詞のように言われるが、元々暗愚だった訳ではなかった。義政の周囲は政治をほしいままにする者たちの対立があり、思うような政治を行えず、関心を失っていったのだ。その闇に閉ざされた義政の心を救ったのが茶の湯である。義満に仕えた同朋衆・毎阿弥の子である能阿弥と義政によって茶の湯は確立した。


 義政は義満の北山鹿苑院に対して東山慈照院を建てる。そして、此処を拠点に東山文化を啓いていった。東山文化は北山文化の絢爛豪華な様式に対し、義政が万葉集を愛したことからも分かる通り、枯淡閑寂をその根柢に擁する。まだ漢作唐物中心の世界ではあったが、侘数寄の蕾が付いたと言えた。


曾祖父田中道悦さまがまだお元気だったの頃のことだが……」


 紹安は一頻り茶の歴史を語り終えると、曾祖父のことを話し始めた。道通は反故に走書きで紹安の話を書き起こしていく。


 この物語は、田中紹安が渡辺道通に語った千家三代の物語である。

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