二〇二一年・友達

 皐醒が『緑の兎』に復帰したいと申し出たとき、上之原承は「ああ」とだけ言って、その次には「いつから入れる」と極めてドライに話題を転換した。プラスティックな男のパートナーである陶磁器少年とデートをしたのは職場復帰してから最初の休日であって、皐醒は人生ではじめてのギャンブルを楽しんだ。確かに三つに一つのペースで当たったし、結果としてボートレース場に着いたときから少しばかり財布が寂しくなってしまったけれど、楽しかったと言っていい。

 その帰り道のバスの中で、「いつ言おうかと悩んでいたんですけど」と中寉は遠慮がちに切り出した。

「三嶋さんが、逮捕されました」

 公共の場での大声は厳禁、という意識が働いていなかったら、でかい声が出ていたかもしれない。

「この系統の」

 右手で電話の受話器の形をつくって、頬に当てる。

「詐欺に手を染めて」

「さっ……、ど、どうしてそんな……、ええ……?」

「お金に困っていたようですね。高校生の男の子に手を出して、ゆすられていたようです」

「こう……、だ、ダメじゃんそんなの、捕まるやつじゃん」

「ええ、ですから」

 捕まったのだ。直接的にはそれが原因ではなくとも。

 バスの中で話せたのはここまで。バスが駅に着いて入ったカラオケで、「僕の把握できている範囲の話ですが」という前置きをした上で中寉は詳細を語った。

 三嶋幸太郎は皐醒と付き合い始めてすぐの時期に、山王ティールームにて当時十七歳の男子高校生に手を出した。

「高校生の子を、大人だと思って……?」

「というか、あの人だいぶショタコンですよね。皐醒くんも、先日の生江さんも、実際の年齢よりずっと若く見えますし」

 そういえば、ボートレース場の入口でも二人揃って身分証明書の提示を求められた。ついでに言えば大月は、ごく遅いペースで吸う煙草を買うのは自動販売機と決めているのだそうで、「だってコンビニだと毎回免許証出さなきゃいけなくてかったるいんだもん」とのこと。

「じゃあ、その子にガチな感じでやっちゃって、被害届を出されたとか……?」

 いえ、と中寉は首を振った。

「三嶋さんは、その少年に騙されていたらしいのです。これは山王に今も通っている僕の知人から聴いた話ですが」

 その高校生は自分の実際の年齢を隠して三嶋との関係を築いてから、自分が高校生であることを告げた。

「僕に情報をもたらしてくれた人も、他の人も含めて、その少年がひょっとしたら高校生ではないかと危うさを感じて近寄らなかったのだそうです。ですが三嶋さんはお構いなしに行為に及んでしまいました。その結果として、その少年たちからゆすられることになったと」

 三嶋と高校生、具体的にどんな行為が行われていたとしても、二人は加害者と被害者という関係にしかなり得ない。

「少年『たち』……?」

「グループですね。僕もそちら方面には詳しくありませんが、いわゆる半グレみたいなものでしょうか。三嶋さんのような人が手を出してくることを期待しての、いわゆる美人局です」

 皐醒は暫し言葉からはぐれた。

「これは、嫌なことを思い出させてしまうことになるとは思って憚られるのですが、お訊きします。皐醒くんは三嶋さんとお付き合いされていた時期に、彼からお金を求められることはありませんでしたか?」

「あった……、あった……!」

 のみならず、それだけでは足りなくて、遂には美人局までさせられそうになったのである。

 失業して収入が途絶えたからではない、自身の失態によって生じた損失を、皐醒に美人局をさせることで補填しようとしたということだ。

「皐醒くんを失った三嶋さんは進退窮まって、その詐欺グループの一員として働くようになって間もなく、受け子としてターゲットの老人の元を訪れたところをおまわりさんに逮捕されたらしいです」

 中寉は、そこまで言い終えて立ち上がって、呆然と座ったままの皐醒を抱き締めた。

「皐醒くんは何も悪くありません。むしろ、僕は皐醒くんのお陰で三嶋さんは救われたのだと確信しています。彼にはようやく、自分の犯した罪を償う機会が与えられたのですから。これ以上罪を重ねることをせずに済んだのですから。皐醒くんは、間違いなく彼を救ったのです」

 深呼吸をひとつして、うん、と頷いて大月を抱き締め返す。薄い身体の少年は皐醒の膝に乗ってくれた。皐醒が微笑んで見せると、やっと安心したように微笑みを返した。

 大切な、大切な友達。人として温かな心を持った友達だ。

「ん。唄おうか。せっかくカラオケ来たんだしね」

「はい、唄いましょう」

 中寉は、バンドのボーカルをしていながら「僕はあんまり唄が上手くないと思っています」なんて言う。そんなことはない、と思うのだけれど、こればっかりは本人の自覚の問題であるから、他人がどうこう言えるものではない。

「皐醒くんは唄が上手ですよね」

「そう……、かなぁ……、そうかなぁあ……? そんなことはないと思うよぉ……?」

「いろんなことが出来る人なのだと思っていましたが。僕ももう少し見習いたいです」

 大月が、まだ静脈瘤を発症するより少し前の休日、「練習するから付き合って」とギターを担いで皐醒に言って、二人で県境の河原に行ったことがある。大月は「DOOR STOPPERS」のボーカルであるが、ギターを弾くことも出来る。アパートで弾いては近所迷惑になってしまうから、練習をしたいときにはいつも河原に来るのだそうだ。大月がギターを弾きながら唄っている姿は、下品なことをあえて言うならお尻がきゅんとするほど格好よくて、ああ、俺はなんて素敵な人と一緒に暮らしているんだろうと皐醒は感動したものだ。

「唄は、老師が上手いんだよ。老師はあと、すごく綺麗な音色の笛が吹ける。中国の伝統的な竹笛」

「横に吹く笛ですね。奥さまにはなんだかとても似合うような気がします」

「すごいよね、俺なんてピアノちょっと弾けるぐらい」

「それを言ったら、僕なんて学校でやったリコーダーと鍵盤ハーモニカぐらいです。ちょっと待ってください、皐醒くんはピアノが弾けるのですか。初耳なのですが」

 小学生のときに習っていたというだけのことだ。バイエルを修えたところで頓挫して、あとはゲームの曲だとかJ―POPだとかに逃げてしまって、もう何年も触っていないので、「俺ピアノ弾けるんだー」なんて公言することは恥ずかしくってとても出来ない。

「なるほど」

 中寉は顎に手を当てて考え込んで、「なるほど」ともう一度呟いた。彼がどういうことを考えているのかは、皐醒には判らなかった。ただその双眸、あどけなく穢れなく見えるお目めが、なんだかキラキラしているところを皐醒は見た。そのまま、何曲か交互に唄ったあとで、

「皐醒くんがこのあいだ言っていた、『僕を連れていきたいところ』というのはどこだろうかと考えてみたのですが」

 隣の部屋から漏れ聞こえてくる、がなり立てるような唄声の中で、彼は言った。

「コスプレのイベント、ですよね」

 正解である。了くんは絶対俺より可愛くなるよなあ、ともはや嫉妬心の一欠片もなく思うのだ。了くんと大月くんと、俺と、……そしてもう一人、美人を知っている。皐醒の頭の中にある人物を、中寉も同じく思い浮かべている様子である。

 このところ、また新規感染者数が増えてきた。これまでにない急激な増え方である。撮影会のようなイベントは、ひょっとしたら中止になってしまうこともあるかも知れないが、その場合は四人でどこかのスタジオを借りて、あるいは、本当はご法度だろうけども、全然人のいないような場所、……湯汲山の森の中にでも行って。

「まだ、大月くんには伝えないで頂きたいのですが」

 慎重な口調で中寉が言った。

「仮にイベントが出来ない状況になってしまったとしても、補って余りあるぐらい楽しい『イベント』が出来るかもしれません。ちょっとしたアイディアを思い付いてしまいました」

 それは荒唐無稽と言って笑うのはもったいないと思えるほど、秀逸なアイディアだった。中寉は皐醒よりも大月よりも背の低い、コンパクトな男であるけれど、中に詰まっているものはだいぶでかい。どれほどのスケールを秘めた男であるかは、魂絡まり合う親友として過ごしていくうちに少しずつ把握していくことが出来るのではないだろうか……。

「たっだいまー」

 アパートのドアを上機嫌に開ける。大月はもう帰っていて、悪戦苦闘しながら晩ごはんを作っているところだった。

 大月は『CUBOID』の仕事を辞めた。現在は週に五日、物流倉庫でのアルバイトをしているだけだから、もう大事なところが痛むリスクはだいぶ低くなっている。その分、皐醒が『緑の兎』で働いている。

「おっかえりー」

 手洗いうがいを済ませた皐醒を抱きすくめる。誰かに見せるようなものではないけれど、天国にいるみたいに幸せいっぱいなバカップル、まだ付き合って一ヶ月ごと、何十日ごとが記念日になってしまえるぐらいの。

「なんかめちゃめちゃ嬉しそうだけどなんかあった? ひょっとして、ボートレースで大勝ちしたとか」

「普通に負けた! でもねえ、楽しかった。えーと、あと、カラオケ行ったり、幸太郎が逮捕されたりとか、でもそれはあんま関係ない」

「えっいまさらっとすごい情報が交じった気がするんだけど」

「いいの。だって俺はね、幸太郎のことも救ったんだもん」

 大月はじーっと皐醒の顔を見つめてから、「そっか」と納得した様子で改めて抱き締めて、おかえりなさいのキスをくれた。

 中寉と「また明日ね」と別れてからもニヤニヤが止まらない。まだ何も知らない格好いい恋人を説得するための言葉は近日中に用意するとして、真っ暗だった青春がこの部屋に、世界に満ちていることに、胸の奥が、指先が、むずむずくすぐったくって仕方がない。

「ねーえ、ゆいと」

 このところ、彼のことをそう呼ぶようになった。中寉と上之原は二人きりのときでも「マスター」と「中寉」だそうだ。そういう辺りは、やっぱりプラスティックと陶磁器である。

 大月は慎重な手つきの割りにとても分厚くにんじんを切って、ピーラーを使ったとは思えないほど無惨にボコボコになったじゃがいもと一緒に、この部屋で一つしかない鍋でごとごとと炒めている。肉なし肉じゃがを作っているのだとわかった。

「今日もするー、よね……?」

「……皐醒からそう誘ってくるときはさぁ」

「お鍋見てなくて平気?」

「んん……」

「俺たちは得だと思うべきだよ。どっちがどっちでも構わないんだから」

 大月は皐醒とパートナーになるにあたって、「なんとなくだけど、皐醒くん可愛いし、皐醒くんを女の子みたいに可愛がればいいのかなと思ってた」という考えを抱いていたそうである。言わずもがな、皐醒自身もそれでいいというかそっちがいいと思っていた。しかるに、大月がやたらと可愛いという嬉しい想定外も手伝って、いまや夜毎どちらがどうなるかは蓋を開けてみなければ判らない。

 いま大月が言ったように、皐醒から誘うときは大月に受け容れてもらう形になることが多く、

「あれめちゃめちゃ恥ずかしいんだよなあ……」

 大月は、不慣れではあるのだが。

 食後歯を磨いたら早速風呂の支度を整えて、大月を浴室に連れ込み、もはや冬であるから、寒い寒いと震えながら身体は大雑把に洗う。皐醒が独りで浸かるにしても膝を曲げなければいけない程度のサイズの浴槽に小柄とはいえ男が二人で入るのだから窮屈さは否めないが、愛し合う二人には却って好都合である。湯の量も、独りで入るときの半分程度で事足りるので経済的にも、たぶんいい。

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