二〇二一年・光

 精索静脈瘤、というのが大月がもらった病名であった。

「せいさく……」

「静脈瘤。……知らんかったよね、静脈瘤ってさ、なんかこう、成人病っていうか……、不摂生してる人がなる病気だと思ってた」

 それは何か別の病気と勘違いしているのではないかと思ったが、皐醒も指摘出来るほど病気に詳しいわけではない。

 皐醒たちがクリニックを出たとき、もう中寉と老師は姿を消していた。大月がいま感じている痛みを押してどれほどの勢いで感謝するかを考えたら、恐らくそれが正解だったろう。駅近くの処方箋薬局で薬を貰い、よたよたと歩く大月を支えながら帰宅しつつ、彼の病気について知っていく。

「せいさくってなに?」

 皐醒の問いに、

「俺もよう判んないけど……、キンタマを吊るしてる紐みたいな……。血管とか、あと精子が通る管とか神経とかがひとまとまりになってるところみたい」

 大月は少々おぼつかない返答を返した。「精索」という漢字が判ったのは、家に帰ってしばらくして検索してみてからのことだ。

 蔓状静脈叢と呼ばれる部分が何らかのトラブルによってぷっくり膨れて瘤のようになってしまったのが、「精索静脈瘤」である。

「先生に、こう……、キンタマ、っていうか袋の中覗かれた。健康診断のときのエコーみたいなやつで」

 ああ、やっぱり見られちゃったんだ。

「女医さんじゃなかったよね?」

「まー……、女医さんだったら泣いてたかも……。いやでも、どうなんだろね、患者さんが女の人だったら、女医さんのほうがいいのか……。そんでね、その様子、モニターで見て、『ああ、ここがぷっくりしてますねえ』って」

 原因は色々あるそうだが、大月の場合は中寉が思い当たっていた通り。立ち仕事と自転車の使用であったようだ。よくよく考えてみるに、自転車のサドルにずっと跨がっていれば、……いかなこの国の道路のほとんどが舗装されているとはいえ、常時振動を男性の一番大事なところに受け続けることになる。

 大月は痛みこそあったが、進行度としては軽度なものだったらしい。ひどくなると、精子の生産にさえ関わってくる病気だそうだ。具体的には血の巡りが悪くなることによって温まった血液がそこに滞留してしまい、精子の生育に悪影響が出てしまう。

 大月は、現状のパートナーが皐醒であるので、……あくまで現状に限っては問題はないと言えようが、不妊の主要な原因の一つともなるそうである。

 大月の場合、珍しかったのは「右側」のボールの方でトラブルが発生したこと。全体で見ると、左側に出来ることが圧倒的に多いのだそうである。ただ、「学会に発表しよう」なんてレベルのものでもなく。まず薬を服用して、少ししたらまた来てくださいと言われた。薬が効きさえすれば手術なども必要はないそうだ。

「薬、効いて欲しいなあ……、やだよなぁ、キンタマの手術するのなんてさぁ……、そりゃキンタマは最初から縫い目付いてるけどもさぁ……」

 憂鬱そうな声ではあるが、趣味の悪い冗談を言えるぐらいに元気が戻ってきたのは何よりである。皐醒はてっきり抗生物質であるとか炎症止めであるとかがあれこれ出てくるものなのだろうと思い込んでいたのだが漢方薬であった。服用してたちまち痛みが治まるというものでもなく(そもそもそういう働きは持っていないものなのではないか)大月は薬を飲んで少量の食事をしたら、またすぐに横になった。

「心配かけてごめんね」

 枕元に座った皐醒に、大月は心の底から申し訳なさそうに詫びた。

「ううん。……俺も、ごめんね」

 皐醒は正直に、今朝家を出てから、老師と中寉を連れてこの部屋に駆け込むまでにあったことを話した。嫌われてしまうだろうか、捨てられてしまうだろうか、怯えながら、時おり泣きそうになりながらではあったけれど、全て話した。

 最後まで黙って聴いてくれた大月は、「よい、しょっ」と手を伸ばして、皐醒の髪を撫ぜた。

「皐醒くんの生きてる世界は、キラキラしてるんだね」

 大月の言葉の意味を図りかねた。九十度右に傾いた彼の顔、今朝は真っ白だった頬が、少し温かな温度を取り戻している。

「皐醒くんと一緒にいるとねぇ、俺は、この世界は捨てたもんじゃないなって思えるんだ……。皐醒くんはね、俺の希望なんだよ。人間ってのはこんなに綺麗で、正直でさ、……皐醒くんは、確かに強くない、確かに間違える、でも、真っ直ぐに生きてるんだなって判る。こういう世界に、皐醒くんが生きてる世界に、俺も生きてるんだなあって」

 おいで、と招かれて、セーターとジーンズを脱いで横たわる。今日も今日とて、皐醒は、そして大月も、「DOOR STOPPERS」のTシャツである。

「俺が皐醒くんのこと好きだなあって思うのはねえ、そういうところなんだ。俺の生きてる世界はわりと、ハードで、……金がなきゃ何も出来なくて、苦しくても誰も助けてくれなくて、誰にも頼れなくて、……みんなしんどくて、つらくて……、そういうとこに、病気が流行った。みんなで知恵出し合ってさ、助け合ってさ、……力のある人は弱い人に手を差し伸べて、お礼なんて求めないで、助けた人が幸せそうになる、それだけで十分って、……そう思えるのが理想なのに、全然逆でさ。人の不幸を踏み台にしてどれだけ儲けられるかとか、自分だけ幸せになろうとか、……自分と違う誰かを差別したり、虐げたりする、そういう世界になっちゃうんだろうなって思ってた。けど、皐醒くんがいると、それだけで『違う』って思えるんだよ」

 ライブのときの格好いい歌声ではない。いまは少し弱って、静かな声だった。皐醒の頬を指でなぞる。何の力もない皐醒が生きていること、ただそれだけで寿ぐ人の声だった。

 今日は、なんか、ダメだな俺は。一度泣いてしまうと、人間の涙腺って緩くなってしまうものだったらしい。

「俺も皐醒くんにふさわしい男になれるように頑張るよ。皐醒くんの隣をね、俺がこの子のパートナーですって、胸張って歩ける男で居続けるって約束するよ。皐醒くんが誰かのことを思うときにつらい思いをしないような世界になるように、俺は俺に出来ることをしていくよ」

 中寉との予定をカレンダーに入れた。控えめにマークアップされた日付が灯台になる。俺もまた、愛しい人の灯台になることが可能なのだと、……こんな俺なんかでさえ、それが出来るのだと皐醒は大月から教わった気持ちだった。よくわからないけれど、自分でも気付いていないうちに、光を放っていたのだと知る。

 柔らかな口付けをして、皐醒は目を閉じる。神様なんていないのかもしれない、そうであっても、祈るように大月と指を絡めて眠りに落ちる。

 人は人である限り、健やかで居続けることは出来ない。やがて必ず来る日に向けて、徐々に身体に、ひょっとしたら心にも、痛いところを増やしてしまわずにはいられない。それでも人は人と共に在ることが出来る。知っている痛みであれ、知らない痛みであれ、傷んだ人に寄り添ってその手をとって、……大丈夫、と口にすることはどんなに弱くとも出来る。独りで傷んで苦しんでいるという事実はその瞬間消えて、ほんの少しでもきっと確かに軽くなる。

 大月は病院に行った。医療を受け、薬を受け取った。たったそれだけのことでさえ、大月独りでは難しかっただろう、皐醒だけの力でも叶えることは出来なかった。大月と皐醒と同じ人である中寉と老師がそれを叶えた。

 人は、とても容易くそんなことが出来てしまう生き物だったのだと、夢の中で皐醒は理解した。

 大月は翌朝には、ややぎこちないながらも自力で歩けるようになった。夕方ごろには、「なんか、もうあんま痛くないかも」と言った。翌々日に再び泌尿器科に赴くときには「はーまた見られんのかぁ……」と憂鬱そうではあったけれど痛みはもうなくなっていたようで、……結局もう一度先生に陰嚢の中をじっくり観察されることにはなったけれど、「もう大丈夫そうですね」との言葉を授かった。

「あのさあ、皐醒くん、あのねえ……」

 帰り道、大月はちょっと言いづらそうにマスクの中に言葉を籠らせた。

「毛がさ、ないじゃん、いま、俺。……あれ見られんの、死ぬほど恥ずかしかった」

 キンタマが痛いのです、と言うよりも、「じゃあ脱いで横になって」と言われてそれに応じるよりも、……どうしてこの患者さんは陰毛を全部剃ってるのだろうか、と思われているんだなあ今なぁ……、と思うのが辛かった、と大月は告白した。

「世の中には、見られるのが好きな人もいるんだよ」

 生江夕一郎がくしゃみをしているかもしれない。

「そうかもしんないけどさぁ……、うーん……」

 大月くんの毛の処理は、俺の大切な仕事だ。……と皐醒は勝手に位置付けている。

「今夜、また剃ろうね」

 大月が臥せって以降は、もちろんキス以上のコミュニケーションはしていない。快気祝いとでも位置付けられるべき夜がすぐそこに在ることを、皐醒が嬉しく思う以上に大月も思ってくれているらしくて、……駅に背を向けて歩いてしばらく経って、人通りのなくなったところで手を繋いだ。

「……まあ、別に夜でなくてもいいけどさ……」

 大月がちょっと唇を尖らせていることが判る声で呟く。

 痛みを知った後であるから、生きていることの喜びはいっそう鮮やかに光を放つ。

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