二〇二一年・彷徨う獣
唐突に帰ってきた皐醒が、
「大月くんこの二人におちんちん見せて!」
と言ったとき、大月がどんな気持ちになったのかは察するに余りある。
連れてきたのは「ショッキング・ピンク・ジン」のボーカル中寉了と、恋人が世話になっている「老師」である中国人のお姉さんいやお兄さんであって、ベッドサイドまでやって来るなり布団を捲り上げたのだから……。
しかし、皐醒にはもう形振りかまってはいられないのだった。
「ちょ、ちょと、ちょっと待って、あの、どういう……、うぁいってぇ!」
壁の方を向いて横たわっていた大月は寝返りを打とうとしてすぐさま悲痛な声を上げた。
「ご無沙汰しております、大月くん。前髪お切りになったのですね、とてもよくお似合いです」
中寉はそう言いながら、自身のベルトを外す。
「いまから大月くんのおちんちんを拝見します」
「は? ……は?」
「いいから、大月くん黙って言う通りにして!」
「あの、え? おち……、はい?」
こうして見ると、中寉も老師もやっぱり顔がいい、しかし、自分の恋人が誰より一番だと皐醒は思った。
「お願いだから。大月くん、痛いのは足じゃないんでしょ?」
皐醒は、ぴたりと止まった。驚きが満面に広がり、青ざめた。老師が溜め息を吐きながら、ベルトを外す。彼は皐醒にこう言った。
「想像に過ぎないが、君のパートナーは睾丸が痛いのではないか?」
睾丸……? 想像するだけで皐醒は思わず自分のそこを手で抑えたくなってしまった。その仕草で中寉も察したのだろう、彼も一瞬そこを手のひらで護るように包んで、「自転車で配達をしていると仰っていましたね」と呟く。
「了くん、何か思い当たる……?」
「うっすらと、ですが。長時間の立ち仕事や自転車の運転を繰り返していることで血行の悪化が招かれて、タマタマに不具合が生じることがあると何かの本で読んだことがあります」
了くんは睾丸のこと「タマタマ」って呼んでるのか……、そういうの無意識にサラリと出来ちゃうのはずるいなあと思いながら、
「大月くん聴いたでしょ、キンタマ痛いのに、……ずっと、ずっと我慢して……」
既に自分たちの股間を露出させた二人を背景にして言う。大月はいまだ、なぜ皐醒がそれに思い至ることが出来たのか、そしてなぜ連れてきた二人がパンツを下ろしているのか、全く判らない様子である。あと、中寉がブリーフを着用していたことも目に入って、思考の邪魔になっているはずだ。
ただ、大月はもう逆らわなかった。
皐醒が下着を脱がせる手の些細な動きにさえ苦しげに呻く。足は、……コスプレのために一緒につるつるに剃った足には、痣も傷も傷もない。余談ながら、スカートを穿くために必要な除毛は足や腕だけであるが、大月は股間の毛もなくなっている。犯人である皐醒は、なんだか申し訳ない気がして、自分もパンツを下ろしてあらゆる特徴が近いその部分を晒した。成人男性が四人いて、そのうち三人が剃毛しているというケースはまだそれほど一般的ではあるまいが、これはこれで風通しよく清潔であって、よい。老師が不潔であると言うつもりも毛頭ない(形状的には中寉の方がどうなのかというところではあるが、もちろんこれも皐醒は言わない)が、とにかくそんな男たちによって下半身を剥かれた上で、恋人ではない男二人にじっと覗き込まれて、大月は「しにたい……」と枕で顔を塞いで小さく泣き声を漏らした。
「大月くん」
皐醒の言葉に、
「ああ……」
枕で顔を塞いだまま、くぐもった声で大月は白状した。
「昨日の、……昼飯食ったあとぐらいかな……、なんか、歩いてると、下っ腹にかけて痛い気がして、……上手く言えないんだけど、憂鬱な痛みで……。だんだん、それが痛いのお腹じゃなくって、キンタマだって判るようになってきて……」
大月が覚えたのは痛みだけではなかっただろう。
不安、恐怖、……あるいは幾度か、皐醒から何らかの病気をうつされた可能性についても彼は行き当たったかもしれない。しかし、そんな自分を何より責めたく思ったのではないだろうか。
大月は、とても優しい人だから。
「わかんない、じゃん……、これまで、したことないこと、皐醒くんといっぱいしてて、……だから、こういうこともあるのかなって……」
遡れば一昨日、コスプレイベントから帰った日の夜は、それはそれは爛れた時間を過ごした。大月が受け容れてくれた、もちろん皐醒も大月を、ほとんど頭から丸呑みするぐらいの勢いで。そんな行状の後遺症かもしれないと、無理矢理自分を納得させても、痛みは容易く去ることはなかった。
「大月くん、痛いかとは思いますが、病院に行きましょう。タクシーを呼びます。皐醒くん、ここから一番近い泌尿器科を探してください」
「うん、もう見付けた、駅の向こう」
老師は大月をゆっくりと抱き起こして、皐醒と協力して彼の下着を上げた。
「大月結人、君は私の愛しい皐皐と末長く共に在らなければならない」
通じるかどうかは問題ではない。
「健やかなるときはそれでいい。しかし人は必ず病むものだ、傷むものだ。それでも、人は人と支え合うことで幸せに生きていくことが出来る」
なんか、たぶん、すごい大事なことを言われているんだな、という顔で頷いている。あとで皐醒が訳して聴かせればいいだろう。
それにしても老師は軽々と大月を抱き上げてしまった。老師の腕力が強いことは知っていたけれど、大月は唖然としている。皐醒の愛しい人が、まるでお姫さまだ。
しかし、付いて来てもらってよかった。皐醒が一人であったなら、一歩踏み出すだけでも想像を絶する痛みを味わう大月に自力で歩いてもらわなければいけなかったところである。
「タクシーを呼びました。すぐに着くそうです」
「了くんズボンちゃんと上げて」
皐醒は皐醒で老師のズボンを上げてベルトを締めることに忙しい。全員で車に乗ることは出来ないから大月と老師と皐醒の三人で乗り込み(老師は乗るときも降りるときもそれはそれは丁重に大月を運んでくれた)受付を済ませる頃には病院の建物の外で待っていた皐醒と老師に中寉も追い付いた。要は、すぐそこである。駅の反対側の、ちょっとした商店街を抜けたところ。タクシーでは却って遠回りだったかもしれない。
「……了くん、社会の窓開いてる」
「どおりで、少し寒いと思いました」
チャックを上げる中寉を見て、老師もそっと自分のその場所を気にした。
同性愛者がノンケよりも自身の性器にトラブルを抱えやすい、というのはちょっと短絡的である。相応の準備は当然して臨んでいても、仮令男女間であっても避けがたいのが性器のトラブルである。幸いにしてこの三人は誰一人として、泌尿器科に足を運んだことはまだない。
「……どういう検査を受けてるのかな」
皐醒の言葉に両サイドの二人も物憂げな顔でいる。大したことのない病気であってくれればいいが、それについて語る言葉は誰も持たない。こういうときはただ待つことしか出来ないものだ。じっとしているのが辛くて、意味もなく通りをうろうろしてしまう。
もうすっかり冬だ。商店街からはとりあえずと言った感じでクリスマスソングのインストゥルメンタルが流れてくる。クリスマスは恋人たちの季節である。特定のパートナーがきちんといる三人、そのうち二人の恋人は健康的であるはずなのに、一緒になって皐醒のパートナーの無事を願ってくれていた。
次の季節、そのまた次の季節、……そして来年のクリスマス、世界はどんな風に変わっているだろう? それともあまり変わらずこんな感じだろうか? 「War is over」と言えていればいいけれど覚束ない。それでもせめて、俺と大切な人たちは「こんな感じ」で居られますように。
俺が誰かを不幸にすることがありませんように……。
「気を紛らせるためにという訳ではないが、皐皐」
ガードレールに座って溜め息を吐いた皐醒の背中に手のひらを当てて、老師が言った。
「私は気になっていることがある。……君は昨日、あの名簿を見て、とても動揺したようだったね」
中寉がじっと老師の顔を見ていた。皐醒は一つ老師に向けて頷いて、彼の言葉を訳して聴かせた。発見者として中寉や上之原の名前も多く載っていた、言うなればブラックリスト。
「動揺……、うん、そうだよ、俺、すごくびっくりしたんだ……」
ただでさえ落ち着いた気持ちではいられない状況の時に新しい動揺を持ってくるのは、老師にしてはあまりいいことではないように思われた。しかし、片付けなければいけないことは、片付けられるときに片付けてしまうのがいい。
「それは、君の知っている名前が、……中寉や上之原以外にもあそこに載っていたからではないかと、私は想像したのだが」
きゅっ、と胃の上の方が痛んだ。老師の手は、ずっと皐醒の背中にあった。皐醒が冷えて凍えることのないように、気遣ってくれているみたいに。
「……そう。……俺の、……大月くんと付き合う前、まだ『緑の兎』で働いていた頃に付き合ってた彼氏の名前が、あそこには載ってた。たぶん、ブラックリストの中でも、一番危険な、厄介な男の名前として、載ってたんだ」
「まさか」
中寉がガードレールから降りた。
「皐醒くんが付き合っていた相手というのは」
僅かに、……これは中寉了という男にはとても珍しいことだが、言葉に躊躇いがあった。
「……三嶋幸太郎、さん、ですか?」
中寉はぎりぎりと音がしそうなほどに端正な顔を歪ませて、皐醒の隣に収まり直し、両手で顔を覆って嘆息した上で、
「何ということでしょう。もっと早くにそれを知っていれば、僕は皐醒くんを守れていたかもしれない!」
初めて聴くぐらい、大きな声を上げて嘆いた。
「……了くんは、あいつのことをどうして知ってるの?」
並んでいた中寉の名前を見たとき、皐醒はどことなく執拗さを感じた。中寉は落ち着きを取り戻して、
「僕がまだ独りでああした発展場に出入りしていた頃、僕に絡んできたのが三嶋さんでした」
と淡々と語った。あくまで冷静に言おうと努めているのだということは伝わってきた。
「腕力で敵う相手では到底ありませんでしたから、知恵を搾って、協力者を得て、何度も彼を、山王ティールームや他の場所から追い出したのです」
「それは、……あいつが暴力的だったから?」
「それもないとは言えませんが、発展場の風紀を著しく乱し、節度を持って出会いを楽しんでいる人たちの立場を危うくしていたという理由が大きいです」
山王ティールームのような場所、……公共のエリアを使って行われる発展行為は、本来ならばそれ自体に大きな問題が伴う。仮に具体的な問題が発生すれば、たちまち場所自体が封鎖されてしまうことにもなりかねない。実際そうなったケースもあるようだ。
しかし、中寉は言う。
「あそこは僕にとって大切な場所です。倫理的にはあってはいけない場所かも知れません、それでも僕が生きて、マスターや皐醒くんと出会って、自分が幸せな人間だと知ることに至るまでには、あの場所がなくてはならなかったのです」
中寉の、壮絶という一言では片付けられない、何とも非常識な人生については、本人から聴かされたことがある。あまりに荒唐無稽で、はじめは信じられなくて、後日上之原に聴いたら「それを、あいつがお前に言ったのか」と珍しくちょっと驚いた顔を見せた末に、全部本当のことだと教えてくれた。
幼少期より美貌の持ち主であった中寉は、小児性愛者の老人に買われて、その老人が死ぬまで「書生紛い」として過ごしてきたそうだ。生活に困ることはない、……いい学校に通い、いい服を着て、いいご飯を食べて、身体を貪られるという日々にあって、中寉が求めたのは何かと引き換えにではなく、自分と打算なく楽しく遊べる相手。
まだ発展場に行っていいような年齢ではない彼には、必然的に山王ティールームのような非合法な、一歩間違えれば犯罪の温床となりうる場所しかないのだった。
「僕はあの場所で色々な人に出会いました。さっきの、靴和さんとも、生江さんとも」
では、あの二人とそういうことをしたのかと言えば、そうではない。
「靴和さんには、見て頂いたのです。あの人が恋人である生江さんとああいう遊びをして楽しむのは、僕が見せたからではないかと思います。僕は少々悪い影響を与えてしまったようです」
歪めた、と言うこともできようか。確かに好ましい影響とは言いがたいが、ただちに悪影響と断じることも皐醒には出来ない気がした。あの二人は幸せそうであったし、人に迷惑を掛けることはきっとしないだろうから。
「生江さんは」
すう、はあ、深呼吸を挟んで、
「三嶋さんによって酷い目に遭いました。もうずいぶん前のことです、靴和さんと生江さんが出会う何年も前のことです。ご自身の性を自認して、初めて訪れた山王ティールームで、生江さんは三嶋さんと鉢合わせてしまったのです。三嶋さんはその場にいた他の男を巻き込んで、生江さんを凌辱したのです」
初めての発展場でそんな思いをしたなら。皐醒なら心に深い傷を負って、もう男を好きになることも出来なくなってしまうかもしれない。生江が同じ名前のパートナーと、いまああして幸せでいることは、皐醒にとっても幸せな事実だった。
「とはいえ、これはあくまで僕のわがままです。ノンケの方が本来のおトイレの目的を携えて入って来られないとも限らない場所ですから、そういうときには邪魔をしないという程度の秩序が今後も守られていてくれれば、あの場所はまだ少しは生き永らえることが出来るでしょう。僕のように、あそこが在ることで希望を持って生きていられるはずの男の子たちのためにも。すみません、話が逸れてしまいましたね」
一度そう謝った中寉の言葉を訳して老師に聴かせる間、彼は泌尿器科の横にあるコンビニに入って暖かい飲み物を買って来てくれた。コーヒーとお茶とおしるこ。
「先程カラオケで、皐醒くんは三嶋さんに暴力を振るわれていたとおっしゃっていましたね。あげくに、美人局のようなことをさせられそうになったと」
皐醒はコーヒーの缶で指先を温めながら頷いた。蘇った痛みは日毎に軽くなっているが、たぶん、永遠に消えることはないだろう。
「彼は……、ああいう場所でも誰かに暴力を振るっていた……?」
「僕の把握している限りでは、幸いにしてそれはなかったようです」
それは僅かばかりの救いだった。生江が酷い目に遭わされたという時点で、決して許されるべき人ではないが。心を緩ませかけたところに
「三嶋さんは、マスターの中学時代の同級生です」
とんでもないことを言われたものだから、
「皐皐!」
お尻がずれて、危うくガードレールから落っこちるところだった。老師の見た目に反した腕の力に感謝である。
「……マ?」
信じがたい偶然もあったものだが、……幸太郎に出身地はどこかと訊いたことがあった。北陸の、とある街だと言っていたっけ。上之原にも出身地を教えてもらった。彼は街の名前までは言わなかったが、同じ県。
そして上之原も幸太郎も、年齢はぴったり同じだ。今年で三十一歳になった男。
「僕が言ったと言わないでくださいね。修学旅行のとき、マスターは三嶋さんに唆された同級生たちに寝込みを襲われ掛けたとおっしゃっていました。もう少し具体的に言えば、パンツを脱がされたと。マスターはすぐに飛び起きて難を逃れたそうですが」
中学三年の上之原承、皐醒はまるで想像出来なかった。モデルみたいな綺麗な身体付きに、中寉が「プラスティック」と表現して思わず膝を打ちそうになってしまったぐらいの冷淡な表情、……休日に何をやってるのかもいまいち想像できず、まして中寉のような可愛い男の子を見ても感応する部分なんてないんじゃないのかと思うぐらい、性的なにおいをさせない人である。いやしかし、きっと昔は可愛かったんだろう、きっと、たぶん……。
皐醒は、呆然と溜め息を吐いた。
「……そうか。幸太郎は、そんな頃からずっと……」
寒空に浮かべた独語を、中寉と老師は掴み損ねた。そのまま北風に流されてどこかへ消えていく。
幸太郎の行動はどれ一つとっても徹底的に間違えている。どこかで必ず、……いや、本当は今すぐにでも、彼は裁かれなければいけない。そんな当たり前のことが、当たり前のように脳に浮かぶ。
幸太郎は皐醒が悪くて歪み果てたのではない。今から、ええと……、頭の中で指折り数えて、十六年、も前からあの人はああだったのだ。
「マスターは、当時はもちろん同性に興味なんてありませんでした。いえ、今も依然として僕を含めて興味なんてないのかもしれませんが。故に、当然のことながら拒絶したのです。しかし三嶋さんはそれだけに、自分の欲しいものを手に入れる際に、人間が誰しも抱くはずの倫理的な躊躇いというものを喪失してしまったのだと思います」
皐醒の翻訳に、老師が苦々しい声を出した。それはかなりにラディカルな悪口であった。
「結果として、僕であるとか生江さんであるとか、彼を求めたわけでもない人間に対しても我欲を一方的に押し付けるという選択を躊躇いなくしてしまうのです。もちろんこれはマスターのせいでもありません。人が大人になるに連れて、社会に出るに当たって、人と向き合うに必要なドレスコードを拒み続けた結果が今の彼です」
中寉の言葉は静かだった、しかし辛辣だった。友人の付き合っていた相手を悪く言うことに、彼ぐらいの理性があれば躊躇いがあるのが自然ではある。しかるにそれをカバー出来ないぐらいの思いが彼の中には在るのだろう。
友達だ、と思ってくれているからだ。
皐醒が傷付けられたという事実に、皐醒と同じほどに中寉は傷付いている。
皐醒と付き合っている間もしばしば幸太郎は山王ティールームや他の発展場で問題を起こしてきた、……皐醒という存在があり、皐醒を暴力的な性欲の捌け口として捉えるだけに飽き足らず、獲物を探して彷徨することをやめない野獣、それが三嶋幸太郎だった。
であるならば。
……皐醒は自分の皮膚に染み込んでいた呪いが剥がれて落ちていくのを感じた。
それは少しの間、服の中に籠って、「DOOR STOPPERS」のTシャツを、セーターを、コートを、透過して冬の空気に混じるときには透明だった。
まるでそんなものは最初から少しも存在しなかったかのように。
翔大のことを思い出す。俺をいじめていた翔大、だけど俺を愛していた翔大、結果として死んでしまった翔大。皐醒は彼を思い出すとき、今でも心に痛みが走る。いつしかその感情は悼む気持ちに変わっていた。あの子が死んでもうすぐ八年が経つ。いま思えば、高校二年生という時間を生きた彼と俺の、なんと幼かったことか。幼かったから死んでしまったのだ、幼かったから死なせてしまったのだ。
皐醒は大人になった。辛うじてどころか、何の問題もなく健康に大人になった。
「さすがに、そろそろ検査など終わるころではないでしょうか。皐醒くん」
缶のおしるこを飲み干してガードレールから降りた中寉が、財布から一万円札を取り出す。
「このお金を受け取ってください。完全無欠の泡銭です。何らかの使い道が欲しいのです、そして、能う限りいい使い方をしたのです」
表情を強張らせた皐醒に、真剣な瞳をして中寉は言う。老師が口にしたのは、「そのお金を受け取るべきだ」という一言。
「……あぶくぜに、って……?」
「文字通り、全く根拠のないお金です。もう少し具体的に申し上げるならば、ボートレースの払い戻し金です」
中寉了がギャンブルに手を染めているなんて想像したこともなかった。皐醒の心の中に浮かんだ言葉を察知したのではないか、少年めいた男の唇がマスクの中でちょっと尖った気がした。
「いまは、スマートフォンひとつあれば簡単に舟券を買えてしまうのです。その、十月に二回目のワクチンを受けて、皐醒くんも奥さまもお分かりかと思いますけど、二回目の副反応というのはとてもシビアなものでしょう」
皐醒は頷き、老師に訳した。老師はうんうんと頷いて、「あれはしんどかった。ワクチンであれほど恐ろしいのだ、本物のウイルスはいったいどれほど恐ろしいのかと思ったものだ」と非常に同意しやすいことを言う。皐醒も丸二日、自分の身体が使い物にならなかったのである。
「よりによって僕とマスターは同日に接種を受けてしまいました。軽率な判断だったと後悔しました。お店も休みにしなければいけませんでしたし、二人してほとんど人間の体裁を保っていられないほどの苦しみを味わいました。そのときに、退屈任せに舟券を買って」
買い間違えた舟券が当たってしまったのだと言う。中寉はそのときの舟券の払戻金が表示されている画面をキャプチャしたものを見せてくれた。
「んなっ……」
「人間、熱があるときには何をするか判ったものではありません。熱が下がって仕事に復帰して、銀行のATMで残高を見て、おしっこちびるかと思いました。マスターに言ったら、あの人は珍しく深刻な顔をして『そういう金は持たないに越したことはない』と僕に言いました。しかし使い道も判らず、無駄遣いするのも気が咎めますし、どうしたらいいものかと。ですから」
老師はまだ中寉のスマートフォンの画面を見て、日本語に訳すなら「マジかよ……」ぐらいの、なまなましい声を漏らしていた。
「僕はこれを、皐醒くんに受け取って欲しいのです。そして、皐醒くんがただでこれを受け取ることに抵抗があるとお感じになるのでしたら、僕は二つほど、条件を提示することが出来ます」
中寉は、一つ深呼吸を挟んだ。
緊張しているのだ、と判った。中寉も緊張することがあるのだ。上之原を「プラスティック」と評する彼自身も、陶磁器のように見えるのに。
「一つは、僕と、今度一緒にボートレース場に遊びに行って欲しいです。僕と遊んでください。そしてもう一つは、どうか、どうか、どうか、大月くんと一緒に末永く幸せに生きる皐醒くんでいてください」
それらはほとんど「条件」でさえない。
「……舟券、っていうの? ……俺が買って、当たるもの?」
どう考えたって、ハズレを引きそうな自分だ。地雷を地雷と見抜く力もなく、他に安全な足の置き場は幾らでもあるのに、的確に踏み抜いてしまいそうである。
「得をするかどうかは判りませんが、当たります。欲を掻かなければ三つに一つ当てるぐらいは何とかなります。そして、帰るときに大損してしまうことも、幸いにして三回に一回ぐらいです」
実際のところ、皐醒もギャンブルに興味はない。元より、ギャンブルに金を使うことが許されるような経済状態であったこともほとんどない。
「じゃあ……、俺からも条件を出していい? 俺がそのお金を受け取る、……いや、借りる条件、だからそう、まず、……必ず、このお金は返す。そのときにはきっと、このお金はもう、『泡銭』じゃなくなってるだろうから」
中寉が、凛とした顔で頷いた。
「でもって、もう一つ。俺は了くんと一緒にボートレースに行く、でもって、うん、了くんのことも、僕の行きたいところ、面白いと思うところに連れて行く」
童顔に、あどけない笑みが広がった。涙袋の目尻際、生まれつきほんのり紅く染まったそこが、ひときわ鮮やかに花咲いた。
「皐皐は中寉をどこへ連れていくつもりなのだ」
興味深そうな顔の老師に訊かれた。皐醒は、「もちろん、その日は老師も一緒に行くんだよ」と応じた。きっと楽しい日になるだろうと、皐醒は想像する。明日のことさえ描けなかったのに、少し先に光が灯った。明けることのない夜を、細く頼りない腕でオールを握って漕いでいくだけではない。微かに、でも確かに、見えた光を頼りに進んでいく。
深呼吸をして、泌尿器科のドアを開ける。たぶん、……泌尿器科ってそういう場所だから、お医者さんにおちんちんを見られたんだろう、何とも言えない表情で待合室に座っていた大月と目が合った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます