二〇二一年・発症

 夕方、皐醒が重たい不安を抱えてとぼとぼと帰り着いたアパートでは、追い討ちをかけるように不幸な出来事が待っていた。現状を考えたなら皐醒にとってより不幸なのは間違いなくこちらである。

 奥の部屋の電気が点いていることに気が付いた、と同時に、狭い三和土に、今朝大月が出て行くときに履いて行ったスニーカーがあることに気付く。

「大月くん……? 帰ってるの?」

 慌てて手洗いを済ませて見に行くと、恋人は憂鬱そうな顔でベッドに横たわっていた。

「具合悪いの……?」

「ちょっとだけ」

 愛しい人のことである、どんな些細な体調不良であっても不安に駆られてしまう。

「いや、熱とかはないよ。ただちょっと、えー、ちょっと身体が痛いってだけ」

 大月は薄い苦笑を浮かべて見せてくれたが、それはあまりにも弱々しいもので、皐醒の不安は却って煽られた。

「痛いって……、どこが……?」

「足、……かな、うん、足。大丈夫、じっとしてれば平気なんだけど、今日はちょっとチャリ乗るのはしんどいかなって……」

「病院……」

 に思い立ったときに行けるぐらい余裕のある暮らしならばいいのだが。

「大丈夫。さっき痛み止め飲んだし、多分明日には良くなってるよ。とりあえず動かさないで休ませとくしかないよね」

 痛み止めというのはどうやら元彼女の置いて行ったものであるらしい。湿布なり塗り薬なりも置いて行ってくれていないかと薬箱を探してみたが、あとは絆創膏が少し出て来たぐらいだ。

「晩ごはん、買って来れんかった……。ごめんね」

 ベッドに横たわったまま、大月が本当にすまなそうに言う。

 彼は薬を飲む前に済ませたと言った。痛み止めは空腹で服用すると胃を荒らすという知識ぐらいは皐醒も持ち合わせていた。

「別にどこが悪いってわけじゃないからさ。ただ、痛いってだけ。……ほら、ずーっとチャリ漕ぎっぱなしだったわけじゃん? それまでは俺あんまそういうのなかったからさ。だから、それでちょっと、痛くなってるだけだと思うから」

 そうなのだ、と信じるに足りるほどの元気が、今の大月にはない。顔色も心なしかよくない。中寉了ほどではないが、色白な人の顔が、なんだかもう青褪めているように見える。

 自分の足が痛いわけでもないのに、皐醒はしょんぼりと戸棚に残っていたインスタントの袋麺で空腹を塞ぐ。皐醒にも大月にも料理は出来ないので、基本的には売れ残りの弁当が二人の食事としては一番バランスの取れた献立であり、あとはこうしたものに頼らざるを得なくなる。それでもちょっと、キャベツをちぎったものや、もやしを一緒に茹でることで栄養の足しにしている。どんなに貧しいものであったとしても、二人で協力して作り上げたものであればこそ、ちゃぶ台一緒に「いただきます」と言う瞬間も皿洗いの時間も含めて幸せに彩られているものとなるのた。

 独りで食べるインスタントラーメンは、インスタントラーメンの味がするだけだった。

 足が痛いと言う大月相手にセックスをするわけにもいかない。そういうことをせずに夜を過ごすのは、この部屋に皐醒が来た最初の夜以来のことだ。

 本当は、……大月が元気でいてくれたなら、幸太郎のことを相談しようかと考えていた。まだ決めていたのではなくて、……だって、どうせ面白い話にはならないだろうし。でも、心の動きを表情に出さないよう努めることがあまり上手には出来ない皐醒だから、結局「なんかあった?」という優しい声に導き出されてしまっていたのではなかろうか。大月が傷んでいる以上、そんな話をして戸惑わせるのもよくない。

 そもそも、話してどうなるのか。自分に何が出来るというわけでもない。話して自分がどんな気持ちになるのかも、皐醒には判らなかった。だからじっと、自分の中に言葉を並べて行くのが、結局のところ一番妥当なのだろう……。

 中寉は(ということは、たぶん上之原も)幸太郎のことを知っている。そして幸太郎は、この五年程度の時間、誰かに発見されたのは七件だけではあったものの、恐らくは継続的に山王ティールームや他の発展場において、問題と看做される行為をしている。あの名簿から判ったのは、そういう事実。

 あの名簿だけでは判らないのは、直近の「五年」には「皐醒と付き合っていた期間」が含まれているという事実である。皐醒が幸太郎の恋人であった期間に限っても日付が二つあった。もちろん、他の五つはそれより以前の行動履歴である。

 誰ともしたことないって言ってたのに。

 幸太郎の言っていたことの、どれぐらいが本当だったのか、今となってはもう判らない。大月に言えば、彼はきっと優しく微笑んで「忘れちゃえよ」と言ってくれるだろうと思う。皐醒のわがままを聴いて、皐醒の求めた以上に可愛くなってしまった恋人は、きっと。

 皐醒は幸太郎という人が悲しかった。しかし本当に悲しいのは、他人事として放っておけるほど皐醒は強くないということだった。

 俺のせいで歪んだんじゃなくてよかった、幸太郎は最初から最後までずっと歪んだままの人だったんだ、……だから、俺のせいじゃない、俺のせいじゃない……、なんて思えたなら、少しはマシだっただろう。DVが激化する雰囲気を感じ取った時点で逃げるという選択肢を取ることも出来たはずである。皐醒ではない誰かなら「あーくそ損した! 時間の無駄だった、もったいねえ」とでも思うところであろうか。実のところ皐醒としてもそれが妥当であるという感覚は持っているのだが。

 一時的な絶望の時間だったとは言え、元恋人の名前があの名簿に載っていたという事実が落ち着かない不安となって皐醒の心を大月を案じる色一つに染めるに至らない。不純物として、揺らせばごろごろと鳴る。

 端的に言って怖いのだ。

 大月のお陰で美人局の共犯はせずに済んだけれど、今後幸太郎が愚かな行為を繰り返した末に、警察の世話になるような事態に至ったら。……指先が冷たくなった。

 実際に美人局をやったわけではない。それでも、ひとたび悪の沼に足を踏み入れて靴底を濡らすところまで至ってしまったのは事実である。足跡を辿ればこのアパートに至る。大月は「違う」と言ってくれるに違いないけれど。

 何より皐醒が心の表面を粟立たせずにはいられないのは、中寉が幸太郎の行為を何度も目撃しているという事実だった。

 中寉は何を知っているのだろう。なぜ中寉は、幸太郎の悪事を何度も目撃しているのだろう?

 あるいは……。

 恐らくは休むに似た考えを転がしていたら、「いてて」と顔を顰めながら大月が起きてきた。壁に手をついて、一歩踏み出すのも辛そうである。慌てて立ち上がって手を貸そうとしたけれど、「あー平気平気」なんて手を振って、よた、よた、よた、一歩ずつに大きな負担を強いながらトイレに行く。

 ……皐醒はこれまでの人生、幸いにして骨折をしたことはなかったが、中学の時に右膝の靭帯と半月板を損傷している。痛みの度合いは人と比べられるものでもなかったが、怪我をしたその日は流石に歩けなかった。なお怪我の原因はいじめではなく、帰り道、よそ見をして歩いていたら階段を踏み外し、全体重を変な角度から膝に掛けてしまったのである、単なる自業自得であった。

 痛むのは、……右足だろうか? 左足に体重を掛けている時間が長い、というか、右足を出来る限り動かさずに済まそうとしているかに見える。けれども、人間である以上どうしたって両足で身体を保持する瞬間がある。その短い時間が訪れるたび、大月は明らかに緊張した。

 ちょっとハードワークをしたぐらいでそんなに痛みが出るのなら、兆しとして少し前から何らかの不調があったとしてもおかしくない。しかるに、一昨日も昨日も、……今朝でさえも、大月は全く普段と変わらなかった。

「大丈夫だよ、寝れば治る。だいたいね、俺はそんなに風邪もひかん方だけど、細かい怪我はいっぱいしてきた。それと同じだよ。逆にごめんね」

 謝られてしまうと、大月から齎される情報以上を無理に訊き出すこともしがたくなってしまう。ふらふらとベッドに収まり直した大月の枕元に座って、どう言葉を掛けたらいいのか判らないまま、手を伸ばして、頬に触れる。

「ん、……ごめんね」

 首を振って、一度立ち上がり灯を消す。大月の足のトラブルは、本当に時間が解決してくれるものなのだろうか? 本当に今がピークで、これから明日の朝に向けて緩やかに回復の軌道を辿るものなのだろうか?

 判らないというのは、怖いことだ。

 一昨年のはじめから始まった今のウィルス禍だって、何度もこれで一安心かと思われたところからまたぶり返して感染者を増やした。ここ数ヶ月ほどはどういうわけか小康状態で、きっと皐醒の実家の両親のような人は「ほら見ろ大したことなかった単なる風邪だマスクは要らん五類指定だ」と大はしゃぎしているに違いないけれど、これから先どうなっていくかは誰にも判らないことである。専門家ではない皐醒は、世界のこれからも大月の足の明朝の様子も、同じぐらいに恐ろしい。自分が傷むことを想像できないのならばせめて、自分の大切な人が傷むことぐらいは誰にでも想像出来ていいはずなのに。

 現時点でこの家の生計はほぼ大月独りの力で支えられている。皐醒も老師の手伝いとパソコンの家庭教師というアルバイトをしてはいるが、それで得られる収入はおまけ程度である。例えば大月のように『CUBOID』の配達アルバイトをやってみようかなと言ったことがあったが、

「あれ、そんな難しいもんじゃないけど、身体は結構しんどいし、皐醒くんが事故とか遭ったら怖いなあ」

 と言われては諦めざるを得なかった。他にも駅前のコンビニだとか駅向こうのドラッグストアだとかも探してみたのだけど、そもそも募集を掛けていないところがほとんどだった。先行きの不透明感が煮詰まって焦げ付いているのは個人も企業も変わりないらしい。

 ネットで検索をしてうーんうーんと唸っていた皐醒に、

「パソコンの先生はしょうがないけどさ、俺としては、……あいつの件もあるから、しばらくは皐醒くんあんま表出ない方が安心かなあとは思うんだよね」

 大月は言った。あいつ、とはもちろん幸太郎のことである。アルバイトに向かう途中、帰り道、繁華街などで幸太郎に鉢合わせてしまうというとても小さなリスクをも、大月は潰したいと願っているらしい。

 そんな次第で、結局今日まで大月に頼りっぱなし。いざ彼が傷んで動けなくなってしまったら、あれだけ楽しみだった「明日」さえ怖くなってしまうほど、覚束ない橋の上を歩んでいたことを思い知らされる。

 俺は大月くんのために何も出来ないのかな、と考えているうちに、眠りに落ちた。ベッドサイドに座って眠ったせいだろう、悪い夢を見て、何より寒さで強張った身体を遠慮がちにそっと、ベッドへ収納する。大月は眠りの中にあったが、苦痛を感じているのだろう、あまりよくない質のものであると一目で判る汗をかき、眉間に皺を刻んでいた。それを見たら、もう眠れなくなってしまった。

 眩しさで大月の眠りを妨げないように布団に潜って、スマートフォンで検索する。足の痛み、歩けない、などのワードで引っ掛かるのは、悲鳴を上げたくなるような難しい病気の名前ばかり。そうか、怪我ではなくて病気の可能性もあるのだ。よくよく考えてみるに、トイレに行って戻って来るときの大月の右足は、別にちっとも腫れているようには見えなかった。

 病気を調べれば調べるほど、皐醒はどんどん怖くなって行った。

 明日にも大月が死んでしまうのではないかと考えることは、もはや大袈裟でも何でもないことであるかに思われた。

 大月結人は、間違いなく善なる心を持つ人間だ。皐醒は色々と間違えた人生を送ってきた自覚を有していたが、ただその一点だけは言えると思った。それなのに、こんなろくでなしと一緒に人生を歩むことを、大月は当たり前のように決めてしまったのだ。

 一緒にコスプレをして帰った昨日の夜、大月は皐醒と付き合い始めて以来初めて、皐醒の身体に男としての仕事をさせた。

 皐醒にとってもちろん生まれて初めての体験だった。大月の苦しさや痛みを知る立場である、しかし自分の知る悦びの大きさを大月に伝えることが出来るのはこの世で自分しかいないと信じながら彼を抱いて、皐醒は、いま死んだって後悔なんてするものかと思いながら、大月の中で果てた。

 男同士だと、どっちがどっちとか、そういうのないかもしんないけど。

 繋がったまま皐醒を抱き締めて、優しく優しく皐醒の髪を撫ぜてくれながら、大月は言った。

 あと、まだ、そういうのは出来ないかもしんないけど、……でもさ、皐醒くん、……結婚しよう。俺は、皐醒くんのこと幸せにしたい。皐醒くんの心が、身体が、これまでまだ触ったことのない幸せを、いっぱい掴んで生きて行けるように、俺、頑張りたい。

 皐醒くんが好きなんだ。

 皐醒くんは誰より綺麗だと思う。思うっていうか、うん、俺は、知ってる。

 だからもう二度と皐醒くんが誰かに傷付けられることのないように、俺に皐醒くんのこと、一生守らせて欲しい。

 皐醒は泣いてしまって、ただ頷くことしか出来なかった。大月はその言葉を皐醒に聴かせてくれただけで、もう皐醒を一生分以上幸せにしてしまったことを、きっと少しも自覚していないに違いなかった。

 大月が死んでしまうのだとしたら。こんなに正しい人が、自分よりも先に、こんなに若く美しい時に死んでしまうのだとして、穢れた自分がのうのうと生きていなければいけないのだとしたら。……約束という呪いを帯びて生きている自覚のある皐醒にも耐え難い。

 夜が明けても、大月くんが良くなっていなかったら。

 皐醒はほとんど迷うことなく、思い決めた。自分がどうにかなることよりも、この人が病院に行けて、必要な医療を受けられることの方が何倍も大事に決まっていたから。

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