二〇二一年・山王ティールーム(再)

 冷たいタイルの上に立って、……静かに、深呼吸をする。

 ほんの僅かに、トイレらしい臭いがする。しかし皐醒はトイレの臭いがそれほど嫌いではない。トイレがある、ということに掛け替えのなさを感じる。

 排泄したいと思った時に、いつでも受け入れてくれる便器がそこにあるというのは、小学五年生の時に一度、高校二年生の時にも一度、トイレに行きたいのに行けない状態に追い込まれた結果惨めな思いをする羽目になった皐醒には、安心感を覚えるには妥当な理由があるのだった。

 頭上を、電車が通り過ぎる。既に朝のラッシュは終わっているが、相変わらず本数は多くて、静まり返っている時間の方が少ない。

 例えば五年生の時に、……意地悪をする翔大を払い除けてでもきちんと用を足していたなら、俺の人生って全く違ったものになってたんだろうなあ……。

 その痛みを克服し切れないでいるうちに味わった高校二年生の時の屈辱は、これ以上不幸なことはないはずだと過去の失敗を定義していた皐醒の心の皮膚に一層深い傷を残すはずだった。実際には、女子たちから浴びた汚物を見るのと同じ視線にほとんど脳が機能を失い掛けていたところに翔大が降って来たもので、結果としては人間の形を失わずにはいられたのであるが。

 また、電車が走り抜けていく。階層で言えば地下一階にあるこのトイレに皐醒が来て一時間ほどが経過していた。この間皐醒がしたことと言えば、一度用を足しただけ。

 どういうわけか今に至るまで一人も入って来ない。あの日は、もっといたのに。こんなはずじゃなかった、俺のやることなすこと、どうしてこうも上手くいかないんだろう……、と。

 溜め息を吐いた瞬間だった。外から、靴音が聴こえてきた。反射的に立毛筋も括約筋も強ばるような緊張感が全身に行き渡る。

 正直この瞬間に至るまで、皐醒の中では「出来るかな」という不安の方がずっと重たかった。けれど、誰かの靴音を耳にした瞬間、自律神経系の天秤がカチンと音を立てて傾いたのを覚えた。「出来るかな」じゃなくて、「やるしかない」のだ。

 仮令、蒔田皐醒という人間の価値がどこまでも低く堕ちることになろうとも。

 ……俺の価値? そんなもん元からあるわけないじゃん!

 大月結人という天使を護るためにこそ。大月は今朝もベッドから起き上がることさえ難しいような有り様だった。トイレに行くのだって一苦労。だから倉庫の仕事は休ませたし、ましてや『CUBOID』で自転車を漕ぐなんて。最早大月が大病を患っていることに皐醒は一縷の疑いも差し挟まない。病院に行かせるのだ。そのための金がない? だったら。

 俺がこの身で稼いでやる。

 人生でこれほど男らしい気持ちになったこともなかった。老師のところに仕事に行くと言って家を出たが、老師には昨日、「明日はちょっと用事があるからお休みにして欲しい」と言われていた。こうして山王駅まで真っ直ぐやって来て待つこと一時間、最初の客、逃がすわけにはいかない。

 小柄な男だった。マスクをしているのでもちろん全貌は判らない。黒い紺色のピーコートの前を閉めているけれど、前髪を下ろしていて、どこかしら可愛げのある印象だった。身長は皐醒と同じぐらいか彼の方が少し高いか。一瞬皐醒の方を見て、彼はたじろいだ。しかし、すぐに五つ並んだ小便器の前に立って、……用を足すためにしては一歩遠い場所でコートの前を開く。大急ぎで皐醒は、彼の右隣に陣取った。

 ねえ、俺が気持ちよくしてあげようか。俺、色んなことができるよ。あなたにこの身体を自由に使わせてあげる。

 でも、ねえ、俺、お金に困ってるんだ。

 もしよかったら、俺のことをレンタルしてくれない?

 用意していたその言葉が、最初の「ねえ」を言おうとした形で固まってしまったのは、コートの前を開いた男のズボンのチャックが既に開いていたからだ。

 社会の窓は全開になっている。

 のみならず。

 ……男はそこから、痛烈な勢いで勃起したものを露出させていた。皐醒なんて居ようが居まいが全く関係なく、そこに籠った熱を解放する目的だけを見据えて……。

 あやうく、「わあ変態だ!」と声を上げそうになってしまった。すんでのところでそれを呑み込むことには成功したが、皐醒が自身の目的さえ忘れて唖然としてしまったことは伝わってしまったようだ。男が、気弱そうな、しかし劣情の籠った視線で皐醒を捉えた。

 と。

「あ……れ……?」

 皐醒は思わず声を漏らしてしまった。

 向こうも、目を見開いている。この人の名前を、皐醒は知らない。あちらも皐醒の名前は知らないはずだ。

 しかし、二人はお互いのことを知っていた。

 靴音が、もう一つ入口から迫って来ていた。悠然とした音は、男の向こう側に立つ。黒いコートを着た長身の男、……コートの前を開いた男のジーンズからは、隣の男と同じように腫れた物体が現れた。

「……ねえ、お兄さん。もしよかったらさ、俺たちのこと、見てくれる?」

 笑みを含んだ声で後から来た男が皐醒に向けて言う。

 その男にも、皐醒は見覚えがあった。声に記憶の引き出しを抉じ開けられた感覚だ。

「見っ……、あの……」

 誰かに見覚えがある、という事態に陥って、咄嗟に誰だっけ誰だったっけと振り返るにも、そもそも皐醒には誰かと顔を合わせてコミュニケーションを取るチャンスなどそうそう多くはないのだった。

 二人とも、『緑の兎』で働いていた時にやって来た客に違いない……、と気付いた瞬間、多くのことを皐醒は同時に思い出した。

 あの二人だ。『緑の兎』を思い出すとき、「よかったなあ」という言葉と共に記憶の中に立ち上る、自分とはさほど関係のない恋の物語。読書家と、彼に恋をして口説いた青年、……まだ了くんが来る前に、お店で出会った二人だ!

 ……いや、その記憶の甘さはいいとして、何をやってんだこの人たち。

 読書家の方は皐醒と自分のパートナーの顔を交互に見て、マスクの中で口をぱくぱくさせている。一方で長身のパートナーは、皐醒が誰であるか全く気付いていない……、いや、記憶してもいないのではなかろうか。読書家とは何度か言葉を交わしたけれど、パートナーの方とは一度きり、しかもオーダーを取り、ビールと乾き物を届けただけであるから。

「ねえ、構わない? ……君もさ、ここに独りでいたってことは、こういうのを期待していたんでしょ?」

 皐醒は何も言えなかった。何より皐醒から言葉を奪ったのは、

「俺たちを楽しませてくれたなら、もちろん相応のお礼はしようと思ってるよ」

 という言葉だった。

 あっ、と小さな声が読書家のマスクの中で漏れた。パートナーによって、彼の身体は便器から剥がされて皐醒に向いた。但し露出していた場所は先程の如き屹立ではなく、萎縮していた。何故かは判る。驚愕と困惑の中で興奮を維持できるほど、男という生き物は器用には出来ていない。

 一方で、パートナーは全くそれに気付いていない様子である。後ろから読書家のベルトに手を回して解き、スリムなジーンズを太腿まで下ろす。下着の窓から萎えた茎が垂れている様子を晒させて、

「見て」

 と言った。

 見るのは嫌いではない。同性愛者として生きていて、どんなものであれ原則的に男性器を見ていいと言われたら見せてもらいたいものだと思っている。日頃自分の、そして大月の、つまり概ねレベルの高くないもの(それでいながら大月のものはとてもいとおしいもの)ばかり見ているから、久し振りのことである。

 が、焦点がぼやける。皐醒は、読書家の穿いている下着の方が気になって仕方がない。彼は白いブリーフを穿いていた。今時なかなか見ないぞこんなの、と思うような下着である。どこで売ってるのかな。

「可愛いでしょう」

 読書家が羞恥心にぷるぷる震えていることにも無頓着にパートナーの男は言った。

「珍しいって思ったよね、きっと。でも、この人にはすごくよく似合うって思わない? ……いっぱい見てあげてよ」

 救いを求める目が皐醒に絡んで来た。

 けれど、「お礼」という言葉は既に皐醒の心を掴んで離さない。具体的にどれぐらい? その辺りは、この後で交渉すればいいのだろうか? そもそもこうした発展場でのルールにも疎いものだから判らない。しかしながら、全く見知らぬ相手、……それこそものすごくマニアックだったり乱暴だったり、事によっては何か厄介な病気を持っているかもしれない男の相手をすることも覚悟していたところに、朧なものでありながら知った顔が現れて、ただ見ているだけでいいというのは……、渡りに船とはこのことか。

「……わかりました」

 この二人があの店で出会った後、どういう経緯でこんな遊び方をするに至ったかは定かではないが、親密な二人の関係の中においてコミュニケーションの方法がエスカレートする例は、自分と大月を例にするまでもなくままあることだ。

 彼らがそれを望み、

「見ます。見せてください」

 対価を受け取る皐醒も同じく望めば、利害は一致する。

「よかったね、ゆうくん。いっぱい見てもらおう……」

 読書家の名前は「ゆうくん」なのだ。雄太とか悠一とか祐介とか色々候補が浮かんだ。

 カウンターに座る彼の知的で静かな横顔を皐醒はまた思い出した。文庫本の頁を捲り、ほとんど顔色も変えずにスコッチのロックを味わう。なんだかこの人の周りだけ、他と隔絶されてひんやり静かな空気が漂っていた。こういうのもかっこいいな、なんて皐醒は思ったのだけど。

 そんな人が、どうしてこうなった。皐醒が視線を向けた先、ブリーフの窓から露出した性の茎は困惑に竦んだ瞬間こそあれ、いま再び凛然とした力を宿している。

 清潔感があってイケメンな陽物だと思った。それだけに、公共の場で人目に晒されて興奮を催している表情というのは、相当に危険な魅力を宿して見える。皐醒は、ほんの少しの可能性として握っていた考え、……このパートナーに命じられて無理やりこうしているのではないかという可能性を手放した。

「……お兄さん、は……、こういうの、本当に好きなんですか?」

 読書家の「ゆうくん」が目を見開き、抗うように皐醒を睨んだ。既に互いが誰であるか分かり合った上である、彼らが期待していたであろう、行きずりの男ではない。

 しかし結局「ゆうくん」は頷いた。ならば、皐醒も覚悟を決める。深呼吸をして、

「ブリーフ、いいですねぇ。俺はまだ穿いたことなくって、……お兄さんにとっても似合ってます。ひょっとしてお兄さん、電車からずーっとそうやってガチガチのままで、コートの中で露出してきたの……?」

 悪質なねちっこさを声に纏わせる。

 大月と肌を重ねるようになって以来、彼が感じてくれるのが嬉しくて、これまでしたことのなかった方法を選ぶことも増えている皐醒だった。きっと上手くできないだろうなと思いながら彼の耳を食み、「大月くん、めちゃめちゃ硬くしてる。俺まだパンツ脱いでないのに、もう我慢できなくなっちゃったのー?」と後ろから手を回して緩く扱いて焦らす。あるいは、口でされるのがどうやらとても好きであるらしい大月(曰く「皐醒くん自分で判ってるかしらんけどめちゃめちゃ上手いからね……!」とのこと)のそれに顔を寄せて、咥えてあげるふりを見せながら舌を出して唾液を伝わせ、手だけで蹂躙する。

 大月くんの気持ちよくなるとこ見せて、とお願いして見せてもらったこともある。もちろん、「あはっ、めっちゃシコシコしてる、……きもちぃ? ねー気持ちいーい? そう、ちゃんとイクときはイクって言ってね? 俺の目ぇ見ながらイッてね……?」なんて、辿々しいものではあれど、言葉責めを加えながら。一昨日の夜に初めての逆転に至る以前からして、ボーイズラブ創作物風に言えば「攻め受け」のかっちりとした形式にハマらない皐醒と大月なのだった。

 攻めに回るのが得意である、という自覚もなかったが、気持ちよさそうな姿を見せてもらえるというのはいいものだ。大月ではない相手に自分の力を発揮することには少し気が咎めたけれど、

「きれーな顔してるのに、変態なんですねぇ……」

 得られるもののためには全力を尽くさなければなるまい。皐醒自身はまだジーンズの中を晒すことさえしていないが、完全に受け身な「ゆうくん」は自身の恥部を見られているというそれだけで強い喜びを味わうことが出来るらしい。皐醒の言葉が尿道に刺さるように感じられるのか、繰り返しの強張りを見せ付ける熱塊の先端、亀裂に浮かんだ悦露は、冷たい色の蛍光灯を浴びてキラキラと煌めいている。

「俺たちね、もうすぐ引っ越すんだ。東京を離れて、すごく遠いところへ」

 パートナーはそう言いながら「ゆうくん」の着たクリーム色のセーターを捲り上げる。あまり丈夫そうではないお腹で、筋肉はほとんど付いていないのではないか。おへその下の毛は、皐醒と同じように綺麗に処理していた。

「だからその前に、東京でしか出来ないことをしようって。こういう場所は、俺たちが引っ越す先にはないからさ。田舎だから」

 まあ、ここでもどこでも、あんまりこういうことはするべきではないのだけれど。……老師の名簿にこの人たちの名前が載っていないといいけどな、とは思う。

「田舎だったら……、お外ですっぽんぽんになってもバレないんじゃないですか?」

 皐醒の言葉を想像したのか、「ゆうくん」の砲身が引き金を引かれることを待ちわびて駄々を捏ねるようにまた弾む。

「うん、それはそれで楽しみ。……こっちの、いま住んでるマンションの近くの雑木林とか、そういうところとか、あと、……マイナーだから知らないかな、湯汲山っていう山があって、そういうところでもしてきたんだけど。でもやっぱり人が全然いないとこの方が安全だしね」

 ……湯汲山ってその筋の人たちには有名な場所なのか。大月と一緒にそこで男の娘コスプレの写真を撮って、そのままその先のことまで視野に入れてもよさそうだ。

 もちろん、そのためには大月に健康を取り戻してもらわなければいけない。

「お兄さん、嬉しそう」

 皐醒は恋人に後ろから抱き締められた「ゆうくん」に身体を寄せた。触れることはしない。それでも、擽ることはできる。

「じゃー、おにーさんはぁ……、お外でパンツ一丁で、でもこうやって恥ずかしいところ出して、いっぱい気持ちよくなっちゃうの楽しみにしてるんですねぇ……、すっげー変態なんだぁ……」

 まったく、難しい小説の字を追う横顔はあんなに綺麗だったのに。長い睫毛を涙で湿っぽくしながらも、耳も目元も欲の色に染めて、射精という救済を求めて皐醒を見る。もちろん皐醒はそれに応じる気はない。

「おりこうさんの顔して、……すっごくカッコよかったのに、こーんな変態だったんですねぇ。きれーなときも、カッコいいときも、ずーっと誰かにブリーフから出してるとこ見て欲しいって思ってたの……?」

 キスだってしていない。ただ耳元に、彼にだけ届くように囁いているだけ。それでも「ゆうくん」はマスクの中でか細い喘ぎ声を漏らした。

 これは、どちちかの名誉を守りもう片方を毀損することになりかねないが、……大月はもっと可愛くて、弱い。どっちが上ということではないが。

 今度は、パートナーにも聴こえるように、

「もっと見せて、……おにーさん、俺に見られながら気持ちよくなりたいんでしょ? おしっこするところから出るものなんだから、ちゃんとおトイレに出さなきゃダメだよ。お行儀よくしないとね……?」

 パートナーに促されて、「ゆうくん」は便器に身体を向ける。皐醒は一度だけ、まだほんの僅かな躊躇いを残す彼を促すために右手を取る。既に樹液を幹に伝わせるほどに張り積めたそれを握らせた瞬間、もう「ゆうくん」は理性を失ってしまった。

「あっ、すごいすごい、ぐちゅぐちゅいってる、気持ちぃんだ、そんなにおつゆ出ちゃうぐらい興奮してたんだもんねぇ、気持ちぃ? 見られながら自分の手で気持ちよくなっちゃうんだ? 変態だね、おにーさん、ほんっとに変態なんだね、……見られながらイキたい? もう手ぇ止まんないもんねぇ、ほら、いっちゃえ、自分が変態のマゾヒストなんだって俺に見せてごらん、おりこうさんの振りしててごめんなさいって、『恥ずかしいとこ見られるの幸せな変態です』って言いながらイクとこ見せて」

 不慣れなものだと自覚してはいるが、皐醒の言葉は確かに爪だった、あるいは牙だった。射精間近い男の心なんて、射精の快楽と引き換えに捨てられるものは全部差し出してしまえるものであるから。

「へんっ……たい、です、僕はぁ……僕はっ、僕は、見られるのっ……おっ……見て、見てっ、いく……っ、見てぇ……っ」

 最後は、自身の心の歪みを言葉にしてのフィニッシュ。

 すげえ……、という呟きが、「ゆうくん」のパートナーの口から漏れた。ひょっとしたら彼も恋人がここまで開けっ広げになるところを見るのは初めてだったのかもしれない。皐醒自身、「ゆうくん」の晒してくれた姿は大月のそれに匹敵するぐらいに魅力的なものであったと思うし、便器に放たれた多量の濁蜜から微かに届くにおいに、自分も同じものを解き放ってしまいたい気持ちを煽られる。大月同様、あまり我慢強い方ではないので。

 それでも、仕事である、と割り切れば自分の欲をペンディングすることは可能だったし、何よりも……、

「どう……、して……、どうして、どうして君が、ここに……!」

 もうちょっと余韻を楽しんでいたっていいのに、「ゆうくん」の脳内で急激な勢いで理性が再興してしまった。罪深い快楽を味わった後って、だいたいそういうものだ。

「クツワ、この人は……っ」

 なるほど、パートナーは「クツワ」というのか、これは名字だろう。

「この人は、僕らが会った、……あのバーで働いてた……!」

「んぇ?」

 ちょっとばかり間抜けな声が、「クツワ」の口から漏れた。それから彼は、自分のパートナーを数々の言葉で虐げるように愛した皐醒の顔をまじまじと見詰める。紺色のマスクの中でぽかんと口が丸く開いたのが判った。

「えっと……、『お待たせしました、ヴァイセス・ブルメンビァをお持ちしました』」

 ずいぶん久しぶりに、接客向けのきちんとした声の出し方を試みた。お前はちゃんと働け、ちゃんとしてればちゃんと見えるんだから、とマスターにしばしば言われていたものだ。

 どうやら皐醒のよそいきの声は「クツワ」の記憶の引き出しを開くことに成功したらしい。彼の驚きはマスクの中に収まりきらなかった。

「まっ……、マジか、……えー……あー……ほんとだぁ……」

 さっきまではずいぶんと格好を付けたイケメンの、こういう遊びに慣れた態度でいたけれど、どうやらこれがこの人の本性であったようだ。されるがままだった「ゆうくん」は「クツワ」の腕を振り払って、

「バカ! だから僕嫌だって言ったんだ、知ってる人と会うかも知れないからってぇ……!」

 と恨みがましい目で睨む。

「で、でもさぁ、ここのトイレがいいって言い出したのゆうくんじゃん……」

 実際の二人の関係はこんな感じなのだろう。どのみちこんな場所でかような遊びをしようと言い出した「クツワ」も、快楽を得た上で文句を言う「ゆうくん」も、同じぐらいに責められるべきところであろう。要するにこれは痴話喧嘩である。

 そういえば皐醒と大月は、まだ喧嘩をしたことがない。これからすることがあるのか、……大月が健康でいてくれるなら、どんなことだってしたいものだ。

「ま、まあ、あの、……二人ともとりあえずしまいましょ……?」

 社会の窓とブリーフの窓から、それを出したままで言い合いをする姿というのは、どうしようもなく滑稽である。同じぐらいに変態でマニアックで、それだけに仲良しな二人なのだと判る光景だった。

 想像するに、「ゆうくん」は元々こんなに変態ではなかったのではあるまいか。それが、「クツワ」と出逢って恋に落ちて、……まあ、ある種の化学変化を起こしてしまったと見るのが妥当だ。皐醒にしたって大月との化学変化で今に至る。

 ふと皐醒は、誰かと接していると、どうしてもこういう変化を催させてしまうのではないだろうかと思い至った。大月はいまのところ歪まないでいてくれる、翔大は……、あの通り。

 そして幸太郎は、老師の見せてくれた名簿によれば、皐醒の存在とは無関係に最初から問題行動を起こしていたと見るべきだろう、……であるならば。

「ええと……、俺は、靴和勇一郎といいます。履く靴に、平和の和で靴和、勇ましい一郎で勇一郎。そんで、この人が」

「……生江夕一郎です」

「なまえ……」

「名字が生江で、下の名前が夕一郎です。夕方の一郎で夕一郎」

 同じ響きの名前を持ったカップルだった。同性同士だとまれにあること、ひょっとしたら男女のカップルでもあるかもしれない。誠と真琴とか、どっちもレンとか、……あるいは、リョウ、とか。

「あ、ええと、蒔田皐醒です。いまはあの店を辞めて、まあ、何ていうか……」

 何と説明したらいいか、……ヒモ? その方が事実に近かったとしても、それは嫌だなあ……、と思いながら、ひとまずフリーターという言葉を口にしようとしたタイミングであった。

 新しい靴の音が二つ、トイレの中へ入ってきたのは。

 この二人と、同じではないにせよ似たような目的を持った客に違いないと顔を向けて、……皐醒は危うくトイレの床に尻餅を付きそうになった。

 二人連れの男たちのどちらも、皐醒はよく知っていたので。

 片方は目を見開いて、声も出せない。そしてもう片方は、少しも表情を動かさなかった。もとより、あまり表情の種類の多くなさそうな男である。

 現れたのはスーツ姿で長い髪を後ろで括った老師・蕭凱龍。

 そして、紺色のもこもこダウンで着膨れた、……美少年、という形容でよかろう。こんな場所はとても不似合いな、しかし少年時代から通い詰めていたと言う、元友達。

 中寉了。

 長身の老師の隣では、中寉は(間違いなくもう二十二歳のはずであるが)中学生ぐらいに見える。

 彼は皐醒を見て、

「お久し振りです、皐醒くん」

 以前と同じ、お行儀のいい挨拶をする。

 老師は何度も何度もまばたきをして皐醒の顔を見ていた。老師はとても大人であって、またクールであって、彼がここまではっきりと驚愕を露にするところを見たのはこれが初めてのことだ。

「……どうして君がここにいるのだ」

 老師は困惑のまま皐醒に歩み寄って、両肩を掴んで震えた声で訊いた。

「中寉、君が呼んだのか!」

 中寉に向けて問うた声には少しの険が含まれていた。

 中寉には老師の言葉は判らないはずだ、そして中寉の返事も老師には通じまい。それでもニュアンスというものは伝わる、ノンバーバルなコミュニケーション。中寉はダウンのポケットからスマートフォンを取りだして、すいすいすいと文字を打つ。機械音声が、

「私が呼んだのではない」

 と角張った中国語を返した。

「ならば、どうして……、皐皐、こういう危険な場所には近寄るべきではないと、私は言っただろう……、何故……」

 老師は本気で皐醒を心配していた。

 大月というパートナーが出来た。二人で幸せに暮らしている。そういう話を、ほんの二十四時間前にしたばかりだ。嘘のひとひらもなく、大月との日々を護って生きていくのだと決意していたことを、老師は誰よりも知っている。

「ここに君がいることを、君の愛しい人は知っているのか、皐皐……」

 皐醒は鼻の奥が痛くなった。いけない、中寉が見ている、他にも二人いる、判っているのに、みるみるうちに老師の顔が滲み、鼻が塞がった。

「君という花は、君の愛しい人に愛でられるためにこそ美しく在らなければいけない。こんなところで穢れるようなことは、決して、決して許されない……」

 老師の胸の温度を借りて、悴んだ心が人間らしい柔らかな体温を取り戻していく。大月の異状に動転し、喪ったつもりもなかった理性と正常な判断力が目を醒ますまで、老師はずっと皐醒を抱き締めていてくれた。耳には微かに、「十二時と申し上げたではありませんか。どうしてこんなに早くにいらしてしまったのですか」と中寉が靴和勇一郎と生江夕一郎を咎める声が届いていた。

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