二〇二一年・赤い名前
「幸せな毎日を送っているのだな」
老師はそう言って皐醒の髪を撫でた。季節の針が一つ進んで、宿木橋と大通りを隔てたところにある雑居ビルの屋上に老師の「老師」となって通うようになってから今日初めて、皐醒はマフラーを巻いた。大月が買ってくれた赤と黒のマフラーである。コートは大月の前の彼女が「もう着ないから」と置いて行ってくれたもので、レディースながら皐醒が着ることには問題は全くなかった。
「うん」
嬉しくて、ごく素直に皐醒は頷く。
「正直ね、時々怖くなる。こんな幸せでいいのかなって……。悪い夢は、今でも見るけど、目を開けたところには大月くんがいて、……俺が起きると彼も気付くみたいで、『大丈夫だよ』って言ってくれるんだ」
そのあと、わざわざトイレについて来てくれるのは、なんだか小さなこどもになったみたいで気恥ずかしいのだけれど。
「私も君の恋人の顔は見ているはずなのだが、思い出せないな。あのライブの日は中寉が緊張している様子だったから、何かミスをするのではないかと気が気でなくて、無事終わった後はすっかり草臥れていたのだ」
老師は冷たい相貌とは裏腹に優しく温かな心を持っている人だ。皐醒自身、俺なんかと仲良くしてくれるんだからと、自信を持ってそう言える。
加えて彼は皐醒の過去を知った上で、
「私もどちらかと言えば人を歪める性質だからそこは安心していい。寧ろ君の力の方が強いのならば、マイナスとマイナスを掛け合わせてプラスにしてくれればいいと思う」
なんて言ってくれた。
「昨日撮った写真あるよ、見る?」
とスマートフォンを取り出し掛けて「あ」と思い出す。皐醒が撮った大月、つまり、昨日の大月は、老師の記憶を蘇らせる姿はしていないのである。
でも、まあいいかと、写真を覗き込んだ老師は、しばらく写真と皐醒とを見比べるために時間を使った。
「……私はこの人と会ったことがある?」
やっぱり、そういう反応だった。この写真を見て同様の言葉を発するのは老師だけではないだろう。会うことはないだろうけれど、中寉も上之原も同じであろうし、ひょっとしたら長らく大月と会えていない「ドアストッパーズ」のメンバーだってそれは同じかも知れない。
映っている片方が皐醒であることは、老師もすぐに解っただろう。その上で、
「この少女はとても可愛らしい。私が女体に感応する身体だったなら、触れてみたいと思うかも知れない」
なんてことを生真面目な顔で言う。写真の中の皐醒も、いつもの皐醒ではない。老師の「少女」という言葉は褒めすぎであるが、いつもよりちょびっとぐらいは可愛く見えていたらいいなと思う。
「それにしても、こちらの少女は」
たぶん老師は、皐醒をより嬉しがらせようと思ってくれたのではないだろうか。皐醒を幸せにするためには皐醒自身を褒めるよりも皐醒がいとおしく思う男を褒めた方が効果的であることを把握しているに違いない、老師は崑崙の出ではないが、紛うかたなき賢人である。
「何ということだろう、とても危険だ」
「危険?」
「含羞を纏いながらも、匂い立つ色香を隠せない。表情には処女のかたくなさを醸しているのに、既に数多の男を狂わせて来たに違いないと思わせる。私が彼女を見て一番に浮かんだのはナボコフの語るところの『ニンフェット』という単語だ」
「老師ちょっと待って。メモするから」
「それをこの人に見せると言うのだろう、皐皐。それはあまりに非道な真似だ」
自分もまあ、そこそこ可愛く撮れているとは思うが、ここはやっぱり大月がすごい。だから老師の言葉は実のところちっとも大袈裟ではないのだ。
ただだらしなく伸ばしっぱなしだった髪は、美容師の知人に頼んだらたちまち美しく整って天使の輪を宿した。前髪も丁寧に仕上げれば、もともと眉の細く流麗な相貌は、長い睫毛と相俟って、もう何の小細工も要るものか。化粧、というほどのことをしたわけでもない、……今日日BBクリームを常用している男なんて珍しくもなく、唇にほんのりと艶を乗せただけ。鏡の中でどんどん出来上がっていく可愛い女の子を見て興奮を抑えるのは、皐醒には至難の技だった。
そして二人してセーラー服を着て、皐醒は右手に剣を、大月は左手に槍を握った。
この写真が撮影されたのは、新規感染者数がどうしてか激減した中で昨日久し振りに催されたコスプレイベントでのことであった。といって、宿木橋のどこかで「コスプレナイト」があったのではなく、純粋に愛好家の知人から請われて、皐醒は人生二度目の、大月はもちろん初めての変身に興じたのである。
皐醒は初回と同じ、とあるゲームの男の娘の服を着たのだが、日々アップデートされるそのゲーム内において、「男の娘」にパートナーたるもう一人の男の娘が登場したそうで、白羽の矢が立ったのが大月だったのだ。
もちろん大月は「えーやだーやだーぜってーやだぁ!」と嫌がった。
皐醒もすんなり事が運ぶとは思っていなかったから準備は周到であった。皐醒が女装コスプレをしたときの写真を見せて、「可愛い?」と問うたら、それは素直に「可愛い」と認めてくれた。次の段階として、皐醒は女物の下着を穿いて見せた。「可愛い?」と訊けば、やっぱり「可愛い」と頷く。
俺はね、大月くんのこと心から可愛いと思ってる。今の大月くんもめちゃめちゃ可愛いけど、君はもっと可愛くなれちゃうんだよ。
そしたらね、……そんな大月くんを見たらね、俺はもう、ただじゃいられなくなると思うんだぁ……。
底の浅い悪知恵ではある。だれけど、上手く行った。大月はかくして、「いつでも美少女になれる二十七歳」になったのである。「その言い方マジでやめてね!」と言われたので、心の中で思うだけだけど、イベント会場に集まったたくさんの愛好家たちが大月のファンになった。もちろん「ドアストッパーズ」というバンドをやっていることは決して晒したくないと言ったので、「ユイちゃん」というその場限定の名で呼んだ
そしてその夜は、大月にたくさんのご褒美をあげた。……まあ、それはいいとして。
「老師もこういうカッコ似合うと思うよ」
皐醒は左隣に座った男性に向けて言った。老師は自分の更に左隣を見遣った。
「該当する人物はいないようだが」
ちょっと背は高い、けれど間違いなく美しい顔をしているし、何より見事なのはやっぱりその髪。するん、すとん、ばつん、……滑らかさ柔らかさを感じさせるものでありながら、一切の癖はなく、かつ、重さを感じさせない。皐醒はもし老師と身体のパーツを一つ交換できるとしたら、秒で髪を選ぶ。皐醒の髪は生まれつきの赤錆色で、耳周りとてっぺんに変な癖がある。仕方なくフワフワに仕立てた結果として、まあこれはこれで悪いもんではないかと納得はしているのだけど、やっぱり憧れるものだ。
「老師モテると思うんだけどなあ……」
「あまりおじさんを揶揄うものではない。さあ、我が老師、今日も仕事をよろしく頼むよ」
美しく、「おじさん」なんて呼んではバチが当たりそうな老師のパソコン家庭教師は今も続いていた。当初は皐醒が想像していた以上の悲惨な状況であった、……なにせ一文字打つのに十秒近く掛かるので、何の仕事にもなりはしないというレベルだった。よくこれまで老師はPC作業を臆面なくやってきたと思うし、この人のパートナーも任せてきたものだと感心してしまったものだ。
血の滲むような努力の結果、このところはようやく表計算ソフトを使いこなせるようになってきた老師である。
だいたい週に四日、……老師がなすすべなく溜め込んでいた分の仕事を代わりに片付ける時間も含めて、拘束時間はだいたい六時間ほど。時給は千円と控えめではあるが、昼食が出るし、いつまでも老師に甘えてもいられない。夜営業が復活した宿木橋で以前のような店で働くか、それとも何か別のやり方を選ぶかはまだ決めかねているが、老師が「卒業」したらきちんと仕事をしなければならない……。
だって大月は、週のうち六日働いているのだ。倉庫の仕分けは契約上どうしても五日しかシフトに入れてもらえないそうで、本来休みのはずの二日のうち一日はまるまる『CUBOID』の配達で駆け回っている。そして休みの日には皐醒と遊び、……この間の休みにはコスプレイベントに参加した。純粋な休みと呼べる日はほぼないに等しい。
稼がなきゃいけないからねえ。今は落ち着いてるけど、まだ何が起きるかわかんないし……。
彼がたくさん働かなかればいけないのは、皐醒がいるからだ。朝早く出て行って夜遅く帰ってくる。その上、ほとんど毎日、セックスをしている。彼に言わせればそれを含めて、「皐醒くんと俺の人間らしい暮らしに必要不可欠なもの」であるそうだが……。
しばらくは真面目に老師の仕事の手伝いと、質問に対しての回答とコーチングを行って三時間ぐらい経過しただろうか。老師の目がとろんとしてきた。休憩しようか、と言ったらちょっとバツの悪そうな顔になる。
「すまない。コーヒーを淹れよう」
格好良くて美しくって、ついでに可愛いというのはちょっとずるいのではあるまいか。
皐醒の住んでいる世界はそうした光に満ちている。みんな可愛くて綺麗でカッコいい。その中でもいちばんの人と付き合っているという幸福感に、未だ慣れない。大月の家に帰るとき、……いまだに「大月くんの家」という言葉を選んでしまうぐらいには。さすがに「お邪魔します」とはもう言わないけれど。
そして、幸太郎のことを思う。
時々、知らない番号から電話が掛かってくることがあった。ずっと着信拒否にしているのだけれど、この間は一緒にいるときに掛かってきた。彼は表情を曇らせて、「まだ掛かってくるのか」と呟いた。勢い任せに電話に出てしまうような大月ではない。彼はしばらく皐醒を抱き締めてから、「大丈夫だよ」と優しく皐醒の背中を撫ぜてくれた。彼がそう言わずにはいられなくなるぐらい、電話が震えているあいだ、皐醒は自分の頬を柔らかく保っていることが難しかった。
あの人は、何をしているんだろう。歪み切ったままで生きているのだろうか。だとしたら、とても辛い日々を送っているはずだ。
皐醒と一緒に、もう十分な時間を過ごしたはずなのに、大月はいまだ歪んでいない。ゲイにしてしまったが、「性癖が歪んでるのは元からだよ」とからりと笑う。時々、とても恥ずかしいことを皐醒に求めてくるけれど、それは別に嫌なことではない。
自分の存在は人を歪めるのだと信じて疑わなかった皐醒は、仮説の根っこが揺らいでいるような事態であるから困惑する、……言うまでもなくプラス向きな困惑ではあるのだが、受け止め方は難しいし油断も出来ない。大月にはどうかこのまま歪まないでいて欲しいものだ。
しかし、幸太郎はどうなるのだろう。
あの人はあのまま居続けるのだろうか? 俺がいようといまいと、ひとりでに元通りに治るものなのだろうか? そうであったらいいのだけど、自分が産み出してしまったモンスターが、その性情のせいで幸せになれないのみならず、無関係な誰かをどこかで害するようなことがあっては困ると皐醒は思わずにはいられない。
だから、電話が震えるたび、怖くなる。
上等な豆の珈琲はとても美味しかった。どこの豆か、訊くまでもないことで、これは『緑の兎』のマスターであり中寉了の恋人である上之原から言うなれば上納されたものだろう。
上之原の珈琲は絶品である。豆にこだわり、淹れ方にも拘る。オーダーが入ってから小さなミルでごりごりと挽いて、鼻の長いケトルで時間をかけてゆっくりと抽出した一杯を、時々皐醒も飲ませてもらった。コーヒーなんて苦いしおしっこ近くなるしあんまり好きじゃない、と思っていたのに、砂糖もミルクも入れていないそれは甘くて優しくて、ぶっきらぼうな人が作ったとは思えない味だったことをよく覚えている。
残念ながら、すでに挽いて時間の経ったものをコーヒーメーカーに任せて作ったものだから、味は数段落ちる。それでもこれだけ美味しいのであるが、……本物を飲みたければ『緑の兎』に行きなさい、と言われているみたいな気持ちになるのは穿ち過ぎだろうか。
「……ねえ老師。今日のは何の書類?」
皐醒は気を取り直して明るい声で言った。老師の仕事を手伝うようになって、色々な書類に触れている。売り上げのまとめだな、とか、あれ、あの人辞めちゃうのか、といったことはどうしても判ってしまう。上之原の『緑の兎』やミツルママのオカマバーといった店は、大雑把に言ってしまえばオーナーという「本社」の支店であるので、老師はこうした事務仕事を任されているのだろう。もちろんこうして手にした情報を口外しようなどと思うことはない。
今日のは、名簿のようだ。
ちょっと特徴的なのは、列に名前がびっしり並んでいるのではなく、ところどころ空欄になっているという点だろうか。そして、……一つ隣の列には場所が書かれている。店の名前や、宿木橋界隈の発展サウナの場所も見える。その隣には「2021.08.11」のように年月日。更にその隣には、また名前。こちらには空欄はない。全て名前で埋まっている。
目を引くのは「K.Uenohara」とか「R.Nakatsuru」といった名前が目立つことだ。
老師はちょっと慎重な顔になってから、
「君になら話してもいいだろう。これはちょっとした問題人物たちのリストだ」
と明かした。
「問題人物といっても、明確に犯罪者というわけではない。ただ、……サウナであるとか、店であるとかで、たまにいるだろう、マナーの悪い客が」
「みたいだね。俺はあんま行かなかったからわかんないけど、了くんが言ってたの聴いたことはある。無理矢理やっちゃう人とか……」
「風紀を乱す、とまで私の立場で言っていいのか判らないがね」
なるほど……、と皐醒は画面の名前を見渡して溜め息を吐いた。
ここではそういうことをしてはいけませんよ、と書いてあるのに、欲と勢いに任せて「そういうこと」をしてしまう人間というのがたまにいる。酷いのになると、酔って暴れて店のものを壊したりする者も。これは別にゲイだからというのではなく、もっと単純に、その人間の問題である。
「つまり、これは左の人が問題を起こした場所、その日付、右の名前は、それを見付けた人ってこと?」
老師は首肯して、
「ロッツェは、こういった人物が宿木橋に近付くことのないよう一人ひとり丹念に名前を記録している」
ロッツェ、というのがオーナー、そして老師のパートナーである人のファーストネームだ。
この丁寧な仕事によって、宿木橋の秩序は守られているのだ。
しかし、場所は宿木橋界隈のみではないようだ。「Tenjohdai Sta. T」とか「Kamikozaka Park. T」とか、ちょっと離れた駅名や地名も見ることが出来る。皐醒はさっき、特定の条件の文字列を弾くやり方を老師に訊かれて教えたばかりだ。
少し考えて、「T」は「ティールーム」の意味かなと思って、ひやりとした。「Sannoh Sta. T」というものがいくつもある。頭文字を取って「ティールーム」と俗に呼ばれる発展場トイレ、……つまり、あの「山王ティールーム」のことだ。
あそこで皐醒が美人局を実行するに至っていて、それを誰かに見咎められていたなら……。
Kousei Makita / Sannoh Sta. T / 2021.10.04 / Somebody
こんな文字列がこの名簿に加わっていたのかもしれない……。
「いずれの場所も、本来なら平和な場所だ。私がロッツェと出会ったのも、とある駅のトイレだった……。とはいえ、皐皐にはそもそも近付く理由もないだろうが」
そうであって欲しい。いや、大月と一緒にいる限り、そんな可能性は少しもない。自分はいま、とても幸せなのだと思いながらスクロールしていったところで、視線が吸い込まれるように目が止まった。
元々、目立っているということはあった。一つの名前に対して、場所は七行もある。山王ティールーム、神子坂公園ティールーム、それから宿木橋界隈の発展場の名前も二つ、他にも。
発見者に、中寉了の名前がある。
そして時期は、直近がつい二週間前。一番古くて五年前。これは、他の「問題人物」の日付と比べても圧倒的に古い。発見者はやはり「R.Nakatsuru」だった。
「皐皐?」
腕だけではない。肩から背中に掛けて、鳥肌が立つのを覚えた。隣の賢い人は画面上のポインタをぐるぐると動かしながら、
「文字列だけを赤くするやり方は以前教わった。……他にも何人か、同様にチェックして、並び換えをしたときに優先的に抽出するにはどうしたらいいんだろう」
と訊いた。
冷めて苦さが尖り始めたコーヒーで動悸そのものを飲み込んで、平静を装いつつ方法を伝える。
その結果、赤い名前が出来上がった。
「Koutarou Mishima」
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