二〇二一年・恋が甘い匂いをしていることを初めて知った

 大月が帰ってきたのは、ほとんど午後十時になろうかという時間であった。仕分けのアルバイトも、「CUBOID」の配達も、どちらも力仕事である。帰り道には重い疲労を抱えて引き摺って来て当然だろうと思うのに、

「ただいま!」

 という彼の声が聴こえる十秒ほど前から、たんたんたんたんたんとスニーカーがまだ湿り気を残したアスファルトを蹴る音が聴こえていたし、玄関から入ってきた彼は息を弾ませて汗をかいていた。湿っぽくなったマスクを脱いで、手を洗ってうがいをしてから、

「あーよかった! 皐醒くんいた!」

 心底から安堵した声でそう言った。

 まだ「ただいま」と言われても「おかえりなさい」と返していい立場ではないような気がする。だけど、「お邪魔してます」も変かなという気もして、「ん、う……、いた」と訳の判らない返事をする。

 どうでもよいことではあるのだが、大月は今日も「DOOR STOPPERS」のTシャツを着ていた。よく考えてみると、これは皐醒が「蒔田皐醒」と書いたシャツを着ているようなものであって、それってちょっとどうなのかという気もする。一方の皐醒も、……もちろん着替えなんて持たずにここに来ているので、服は上から下まで大月に貸してもらったものであるのだが、今日も今日とて彼とお揃いのシャツを着ているのである。

 洗濯をしていて気付いたのだが、大月はこの時期毎日このシャツを着ているらしい。

「ごめんねえ遅くなっちゃって。でも、弁当、今日も貰ってきたからさ。食べよ」

 今日は金曜日である。『緑の兎』の弁当は曜日替わりで違う献立になっていて、金曜日はしその香る和風ハンバーグ弁当。付け合わせは蓮根の酢漬けが二枚と粉ふきいも、小松菜の煮浸し。もちろん午前に作ったものをこの時間に食べたらお腹を壊すことになる。中寉は弁当販売を始めて以降、ランチタイム前に一定数まとめて作る他にも、街で働く人々、それこそ大月のような配達員のピークタイムを避けたランチのために、三時と六時にも少しずつ同じ弁当を作って販売しているのだ。

 中寉の弁当は当然のように今日も美味であった。ハンバーグは冷めても全然ぱさぱさしない。皐醒は中寉を羨ましく思い、その可愛さの一パーセントでも分けて欲しいなあと憧れていたが、一番見習わなければいけないのは料理の腕であろう。皐醒は何を作ってもちっとも美味しくならないのだが、中寉は店の冷蔵庫の中を数秒見渡して、ひょいひょいと見事な食事を作ってしまえる子だった。

 了くんはいいおよめさんになるよう……、なんだこれ、もう、めっちゃめちゃ美味しい。

 皐醒は今思うと、中寉の未来を予言していたのだ。皐醒は大月と、ペアルックで中寉の作った弁当を食べながら、そんなことを思い出していた。

「よし、ごちそうさんでしたっと。……じゃー皐醒くん、お風呂入ろう!」

 え、と皐醒は見上げる。

「お、俺はシャワーでいいよ……」

「ダメ。昨日みたいに一緒に入ろ」

 同性愛者ではないはずの人は、とてもうきうきした顔でそんなことを言う。

 これが例えば、中寉相手に言うのならば判る、……また中寉を引き合いに出して皐醒は思った。

 だって了くんは可愛いし綺麗だし、全身脱毛しててつるっつるなんだ。俺は、きちんと手入れしないとすぐ「雄」になっちゃうからなあ……、そんなに体毛濃い方じゃないんだけど。夕べも大月の前で服を脱ぐとき、まるっきり気の抜けた裸であることが何だかとても居たたまれなかった。

 今朝大月は「やらせてくれるのかなって思った」なんて冗談を言った。実際のところ、皐醒は、……こう言うと、ものすごく不潔な人間みたいだし、実際そんなに清潔なつもりもないけれど、いつでもウェルカムである。これまで同性と肌を重ねたのは、翔大と幸太郎を除けばほんのごく僅かしかいなくて、あの山王駅のトイレに、脱毛も必要ない真性の「つるつる」であったころから出入りしていたという中寉の足元にも及ばない(そもそも彼はそれを誇りはしないだろう)のだが、翔大とした優しいセックスの悦びはいまだ忘れられない。それだけに、幸太郎の、虐待みたいなセックスにはとても悲しい思いをしたのだ。

 昨日、仮にああして泣かなかったら、大月は自分とセックスをしようと思ったのだろうか? こんな、魅力を探す方が難しい身体、もっと呪わしいものが詰まった身体……。しかし家主の言うことだ。歯磨きを終えるなり、

「はい皐醒くんばんざーい」

 シャツを脱がされて、そのまま少し緩いジャージもすとんと下ろされる。ボクサーブリーフに至るまで大月からの借り物である。三食昼寝付き、なんて言葉があるけれど、今日の皐醒は事実としてその通りで、夕方うたたねまでしてしまった。

 その上、セックス付き? そんなのって許される?

 ボクサーブリーフさえも彼の手で脱がされて。

「うん、何かこう、わりと平気なんだなあって思う」

 彼は目の高さにある皐醒の男性器を見て言った。ノンケの男が鼻先十センチほどの距離にあるそれに向けるものとしては相応しくないほど、優しい目である。

「平気って……」

「男の、っていうか皐醒くんの裸。……覚えてる? 俺さいしょに皐醒くん見たとき、女の子だと思ったんだ。にしては胸ないなあ、声も低いなあって思って、男だって気付くまで時間掛かった。中寉くんもきれーな男の子だけどさ、皐醒くんはやばいよね。普通にしててこんだけ可愛いんだもん」

 こんなことを言う人の目が、澄んでいるはずがないのに。

「……お、大月くんだって可愛いんだよ」

 皐醒は目を反らした。

「はい?」

「……よく言われない? 大月くんはすごく美人なんだよ。それは、了くんだって言ってたし」

 格好よくて美しい、という、あの子の選んだ言葉に皐醒は全面的に同意したい気持ちである。

「へー……、いや、言われたことないねぇ……」

「前髪で隠しちゃうの、もったいないって思う」

「これはぁ……、これは、なんつーか、バンドやり始めてさ、最初の頃は、やっぱすげー緊張したから……、だから暖簾」

 Tシャツをぐいっと脱ぎながら、同時進行で足だけで靴下を脱ぐ。ベルトを外してズボンとボクサーブリーフも、大月はいっしょくたに脱ぎ捨ててしまう。動きの一つひとつには、皐醒が真似できない男らしさが漂っている。

「のれん」

「そー。よく見えなくなっていいなあってさ。……でも、皐醒くんが俺の見た目嫌いじゃないなら、それは嬉しいな」

 入ろう、と手を引かれる。皐醒には大月が依然として判らない。前を隠すということもしない。

 顔はさておき、とりたててその肉体が魅力的であるということはない。骨張っているというほどではないが、痩せている。しかし皐醒はこれまで容姿の魅力を理由に肌を重ねた相手は一人もいなかった。

 見た目で言えば、……これまでで一番「ああ、この人に抱かれてみたい」と思ったのはマスターである。無愛想だけれど整って静かな顔立ち、見ている限り特に運動をしている様子もないのに、必要最低限の筋肉を纏い、背も高い。顔色ひとつ変えずに重たい瓶ビールのケースを運び入れる姿、……捲ったワイシャツの袖から延びる腕に抱かれたなら、どんな気持ちになるんだろう?

 けれど自分とマスターは、つまるところ不釣り合いだったのだろう。中寉とマスターが一緒にいるところは、とても自然であるし、悔しいけれどよく似合っている。そして皐醒に似合うのは、幸太郎だった。

 大月に自分が似合うとも思わない。

 それでも、……仮に、と皐醒は考える。仮に自分の存在がこの人の役に立てるのならば。存在してしまう以上、迷惑を掛けてしまう事実を諦めざるを得ないのならば、そこに一つプラスの要素を置いたぐらいでは何にもなるまいけれど。

 座って、と促されるまま腰掛けに座った。背中に湯が掛けられる。とても申し訳ない気持ちを味わいながら背中を洗われて、

「……大月くんは、俺と、どんなことがしたいの?」

 何も言えなくなってしまう前に、訊いてみた。

「どんなこと……、どんなことかぁ……」

「男同士のって、そもそも大月くんは判る?」

「まー、一応知識としては……。お尻だよね?」

「そうだよ。だから、……普通は汚いって思うところ……」

「でも俺、前の彼女とそっち使ってしたこと何度もあるよ」

 思わず振り返ってしまった。大月は「肌すっげーつるつるなんだなあ……」と呟きながらタオルを動かしてくれていた。

「歳相応に欲もあるし、あと、彼女にはよく『変態だ』って言われてた。でも、ひどくね? 俺は俺が変態だって認めてるけどさぁ、彼女だっていろんなの、ノリノリでやってたよ。あれは、いつだったかなぁ、……ほら、草森山ってあるでしょ」

 新宿から電車で一時間で行ける観光地である。

「あそこのすぐ近くにある、湯汲山っていう超マイナーな山に出掛けたときにね、あいつ自分から誘ってきたんだよ」

「そっ……、外で、外でそういうこと、したの……?」

 びっくりした。……皐醒が初めて結ばれたのも、確かに「外」と言えば外であるところの学校の屋上だったけれど。

「あいつ、それですげー興奮してんのに、『結人は変態だ』って言うんだ。なんかなあ、それはちょっと不公平だよなあって思った……、あ、いや違うよ? 皐醒くんと外でこう、野外露出みたいなことがしたいって言ってるんじゃなくてね」

 これはあとで調べたことであるが、その湯汲山というのは本当にマイナーな低山であった。草森山から北へ尾根伝いに辿る道は名の知れたハイキングコースになっているのだが、湯汲山は草森山の南にあって、いつ行ってもほとんど人がいないので、静かな山歩きを楽しみたい人にはうってつけなのだそうだ。人気がない、ということはそういう行為に興じることも出来る、……大月の元彼女は、そもそもそういう目的意識を携えてその山に向かったのではあるまいかというのは邪推に過ぎないけれど。

「だから、まあ、そうだなあ……。お互いが楽しくってさ、気持ちよくなって、あーまたやりたい、明日もやりたい、明後日もしあさっても、ずーっとずーっとやりたいって思えるようなセックスが出来たらいいよね」

 明日も明後日もしあさってもずーっとずーっと……、俺はここに居てしまうのだろうか?

 皐醒は途方もない気持ちになった。大月は蓋然性のある未来として捉えているのかも知れない。けれど皐醒は、明日の自分がどうなっているのか、全く想像が出来なかった。

「だからねえ……、例えば……、そう。あの、嫌だと思ったら言ってね?」

 そういう断りを入れられた上ではあったけれど、

「いっ……」

 嫌だ、と本来思うべき権利を有する大月の両手が皐醒の腹に回った。

「お。痩せてるけど、ちょっとぷにぷにしてんだなー……」

「お、おっ、お腹っ」

 くすぐったい。確かに、まあ、あまり締まりのいい身体ではない。食べたものがスムーズに肉になって溜まりやすい体質である自覚はあるので、あまり後先考えずに量を食べるということは元々あまりしない。

「なんかねえ、不思議な気がするんだ。昨日まで俺さ、一度だって自分が男の身体にこんな風に触ることがあるなんて思ってなかったのに、全然平気。昨日の夜もさあ、寝るとき、もう、この子と一緒に寝なきゃって思ったもん。断られたら嫌だって」

「く、くしゅ、くしゅぐったいっ、おおちゅきくんくしゅぐったいぃ」

 悶絶する皐醒を楽しげに笑って、やっとその手を止めてくれたときには、彼の胸は皐醒の背中にぴったりとくっついていた。

「たぶんねえ、皐醒くんのことがめちゃめちゃ好きになっちゃったんだと思うんだ」

 まだ洗っていない髪に、キスをする音が届いた。

「この子の、綺麗な、……見たことないぐらいに綺麗な、透明な心が、汚れたり、傷つけられたり、壊されたりすることがありませんようにって、俺は最初、願った、願ったっていうか、祈ったって言うのかな」

 まだひくひくと震えの余韻を残す皐醒を、しっかりと後ろから抱き締める。彼の両手の指は組まれていた。

「でも、祈ったってねえ。神様なんていないんだってこと、俺はもう判っちゃった。神様がもしいたなら、皐醒くんこんな苦労してねーよなって」

「そ、それはぁ……、ふー……」

「つーか皐醒くんめちゃめちゃくすぐったがりなんだね」

「誰だってくすぐったいでしょあんなの……。そうじゃなくって……、あのね、神様がいないんじゃなくて、俺が神様に嫌われてるだけだよ……」

 神様に嫌われている人間の側にいて、肩入れするようなことをしたなら、何の罪もなく、心清らかに優しい大月まで神様の不興を買うことになりはしないかと、皐醒は危惧した。

「いいや」

 大月はちょっとむきになった。

「神様はいない。神様なんて嘘だし、いるんだとしたらクソだ。だから、俺が皐醒くんの心を守らなきゃいけない。皐醒くんは宝物だよ。皐醒くんは、絶対に幸せにならなきゃいけない。……正直、それは俺じゃない方がいいのかもしれない、俺よりもっと上手に皐醒くんのこと幸せにしてあげられる男はいるのかもしれないけど、……でもね、俺は俺がいい、俺がその仕事をやりたい。俺に勇気をくれた皐醒くんのために生きていきたい」

 もう一度、キスの音がした。髪にされると、頭蓋骨に響く。大月の言葉の意味を考えようと試みても、思考は空転する。俺がいつ、大月くんにそんな大それたことを考えさせてしまった? 何せ昨日が「二年ぶり二回目」なのだけど。

「皐醒くんは、あんま印象なかったかもしれなかったけどさ、俺にはわりとアレ、すげー衝撃的な出来事だったんだよ?」

「あれ……、どれ……?」

「『ぜんぶください』って言われたの」

 曲がいい、声もいいなと思ったからそう言った。この人の声をもっと聴いていたいなと思ったから。

「『ドアスト』はさ、ずーっと伸び悩んでるバンドだったんだ。あのころは特にね。そこそこ長くやってるし、固定でいつも来てくれるお客さんもいてくれるから、まあ、ああやってライブはやってたし、そこそこの結果は出してた。だけど、『そこそこ』止まり。いつも来てくれる人たちはいるけど、それ以上新しいお客さんが増えることもなかったし、他にもっといいバンドがいたらそっちに流れてっちゃうばっかり。だから皐醒くんみたいに、新規で来ていきなり『ぜんぶください』なんて言ってくれる人なんていなかったんだよ」

 そこそこ、なんてことはないと思ったのだけれど、そもそもあの日の一度きりしかライブを見ていない皐醒は語る言葉は持たない。

「あの日の帰りさぁ、俺彼女と喧嘩したんだ。俺があんまり『こうせいくんこうせいくん』うるせーもんだから。『そんなにあの子が好きならあの子と結婚しろバカ!』って言われちゃった。あ、彼女って、あれね、大月くんが『ぜーんぶください』って言った相手」

「……あの、机のところにいたお姉さん……?」

 確か、ものすごく綺麗な人だったと記憶している。あんな人と別れて、いまこの人は、男である俺に触っているのかと、悲鳴を上げて押し入れか天井裏まで逃げ込みたい気持ちになった。

「あれからずーっと皐醒くんのこと忘れらんなかった。ウイルス流行ってさ、バンドも全然活動出来なくなって、……あーもうダメかなぁって思って。でも、皐醒くんの顔思い出すと、まだまだ全然行けるぞって気になるんだ。もう一回会えないかなあって思ってたけどさ、でも、中寉くんとか上之原さんに『こうせいくんに会いたいです』とかって言うのもカッコ悪いなと思ったし……」

 よくよく考えてみれば……。

 二年前に一度会ったきりの、ワンオブゼムなファンだったら、たとえ揃いのバンドTシャツを着ていたとして、それが「こうせいくん」であると認識されることはなかったのではないか。

 こうせいくん。

 名前を思い出してくれたのではない。ずっと忘れずにいてくれたのだ。

「結果的に、『ぜーんぶ』になったね。俺はもう、身も心も皐醒くんのものだよ」

 あんまりにも重たい言葉だけれど、一生を左右するような言葉だけれど。

 一歩間違えれば、びりびりと痺れるぐらいに苦い言葉でもあるのだけれど。

 彼の舌によって授けられた味は甘かった。甘すぎて、結局のところ痺れてしまうことに変わりはなかった。まだ泡でぬるつく右手が皐醒の砲身を収める。抗うという選択肢は、この時点でもう、皐醒の中から掻き消えていた。

 嘘みたいだ、っていうか、嘘でしょう? この俺が、大月くんを勇気づけた?

「……なんつーか……、うん、やばい……、やばいね。普通に、すごく普通に、当たり前に、可愛いし、エロいって思ってる。男だとか、女じゃないとか、そういうの関係なしに……」

 男の身体は反応を隠せない。大月は手の中でのたうつ皐醒の欲を肩越しに見て、「うん、……おんなじようなもん付いてんだけど、逆に、付いててよかったって気もする」と呟く。

「だって、判るもんな。自分がされたら嬉しいって思うことを、順番にやっていけば、きっと皐醒くんも嬉しいって思ってくれるはずだって。それが判ると、こんなに嬉しいんだなぁ……」

 初めて皐醒を抱いた男は、ずっと皐醒の裸のことを考えていたのだと言った。そして自らそれを、汚らわしい欲だと言った。

 お前がしょんべん漏らして泣いてるのを見て、ゾクゾクしてたよ。お前が苦しむ顔、お前が痛がる顔、傷ついてる顔、……でも、俺は本当は、それを誰にも見せたくなかったんだ。俺の前でだけ見せていて欲しかったんだ。それなのにあの頃の俺は、そんなことも判ってなかった。もうそんな顔を誰にもさせたくない。お前が泣くなら、それは俺の前でだけ、誰にも知られないところで……。

 彼がどうしてあのような暴挙に至ったかを、繰り返し皐醒は考えてきた。彼が最後の瞬間まで許せなかったのは、何より彼自身だったのだと思った。しかし、それだけではまだ結論としては足りない気がした。

 もうこの世にお前を苦しめる人間は一人もいないよ。

 それをきちんと伝えるためにこそ、彼は皐醒の前に落ちてきたのではなかっただろうか?

 皐醒は大月がいとおしくていとおしくて仕方がなかった。生きてここにいてくれるというだけで、もう、胸がいっぱいになる。

 のみならず、その人は、

「大月くん……、大月くん、キス……しよう、もっと、もっとキスしよう……」

 とても普通なことをしようとしてくれている。皐醒が感じて、心地よくなることを手のひらで感じることが嬉しいという、全く特別ではないセックスをしようとしてくれている。

「こっち向く?」

 腰掛けから降りて、抱き着いたときに、大月がもう、皐醒を欲しいと願ってくれていることが判った。深く深く深く、互いの肺のにおいまで届くぐらいに舌を絡めて、皐醒は大月に抱き着いた。腰を動かして、彼の熱に自分の熱を重ねた。

 ほとんどそれだけで、皐醒は自身の括約筋が戦慄くのを覚える。

「可愛いね」

 大月が、こどものように無邪気な声で言った。

「ほんとに可愛いね、皐醒くんは、めちゃめちゃ可愛いんだ」

 そんなはずは決してないのだけれど。もし彼がそう見えてしまう目を得てしまったのだとすれば、皐醒がまたしても側にいる誰かを歪めてしまった結果に他ならない。皐醒はキスに執着しながら彼の熱に触れた。皐醒の生きてそうすることを寿ぐように脈打つことが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。あなたのために何でもしたいと思って、実行に移すより先に大月の手が再び皐醒を捉えて、

「こっちでもキスしてるよ」

 と笑う。誘われた視線の先で、腫れて、しかしよく似た印象の二つの雄の先端が重なっている。どちらからともなく、……いや、主に皐醒から溢れ出しているのであろう腺液が、まだ泡を纏った中であっても大月とのキスに喜んで糸を引いているのが判る。

「大事にするからね。俺、皐醒くんのこと、マジで大事にする」

 その先を、言われては困る。途方もない約束をしたせいで、それを違えて死んでしまった人を知っているものだから、ほどほどでいい、そこそこでいい。でも、こうして生きて存在していることがあなたの幸せを形作る一パーセントぐらいにはなれるように、頑張るから。

 大月は三度皐醒の唇を塞いだ。脳を舐められているのかと思うぐらい深いキスだった。間断なく動かされる手に、膝が震える。皐醒はもう、彼を手のひらで愛することはできなくなってしまった、……そうすればたちまち膝は蕩け腰も砕けてしまうだろうと容易く想像できたから。

 皐醒は声さえ飲まれている感覚だった。ひょっとしたら意識も吸い上げられているのかもしれない。経験人数は少ないとはいえ、それでも大月よりは多いはず、……いや、大月は男を抱くのが初めてなのだ、つまり未経験の童貞であると言うことも出来るだろう。

 それなのに皐醒は、処女のように怖がりながら、結果として全部を大月に委ねきって達した。手のひらの中で皐醒の弾みを捉えた後も、大月は緩やかにスピードを落としながら、しばらくは手を動かし続けていてくれた。キスも、皐醒の息継ぎのために少しの空白を作っただけで。

「皐醒くんにも俺のこと好きになってもらえたら嬉しいな」

 優しくも頼もしい手によって緩やかに腰掛けに降りた皐醒の顔を覗き込んで大月は言う。神様なんていない、だから願うことも祈ることもしないと宣言した彼は、他ならぬ皐醒を見るときに、神なるものを前にしたような敬虔な目をする。

 大月が何か盛大な勘違いをしていることは明白だった。皐醒は彼が思うような、善きものではない。人を不幸にしたくないと願っているのに不幸にしてしまって、それでもまだ願うことをやめないだけの愚か者に過ぎない。

 神々しいのは大月である。

「……好き」

 思いを口に乗せるだけで、何だか罪を犯しているみたいな気持ちになった。神様そのもの、あるいは、……皐醒は全然詳しくないけれど、とにかく神聖なアイコンを擬人化して、性的に描いた二次創作を用いて射精するような。萌える、超好き、神様しか勝たん……、なんて畏れ多くて言えないものでしょう? 

「ほんとに?」

「うん……。好き……、好きだよ……、俺ぇ……、俺っ、ごめんね、ごめんなさい、でも……、でも、大月くんが好きだ、好きだよう……」

 尊敬の歯車が噛み合いすぎて、オーバーヒートする。この人のように強く美しく在りたい、この人が穢れませんように、……どちらの言葉かももう判らない。何より共通しているのは、なぜ自分がそんな風に尊敬されなければいけないのかという困惑である。

 宗教儀式的に定められた段取りを踏んだ恋愛もあるだろう。二人がそうではないという事実は、二人が何かのルールの例外であることを意味している訳ではないはずだと皐醒は思った。二年間ずっと別々に生きてきたけれど、お互いにお互いを知らないうちに大切に思っていたのなら、機が熟していたのだ。

 メールが来なくて不安な気持ちになった挙げ句に電話をしようかどうしようかでももう十時半だから遅いかななんて諦めて眠れない夜を幾つも幾つも重ねた末の初々しいデートも初めてのキスも全部すっ飛ばして。

 けれど、枝から落ちて潰れてしまう前に、二人できちんと収穫した実はとてもとても甘い。

 皐醒が手のひらで身体を洗うことに、大月はとても悦んでくれた。皐醒は元より自分を献身的な人間であると思ったことはなかったが、心から愛しいと思う相手に、奉仕の気持ちを携えて尽くすことには不思議な満悦が伴ったし、大月が嬉しそうにしてくれるところを見ていると、もっと、何だって幾らだってしてあげたいという気持ちが湧いた。泡だらけになった身体を濯ぎ、浴室の床にほとんど腹這いになるようにして熱の塊を口の中へ収め、ほとんど努力らしい努力もしないうちに大月が雄の熱を放ってくれたときには、……例えば、と考えた。例えば、湯汲山、だっけ。そこの山に行って、大月くんが望むなら、俺はそこですっぽんぽんになったっていいよ。大月くんがそれで興奮してくれたなら、そのままそこでしちゃってもいい。大月くんは彼女さんに「変態」と言われたんだって、……女の子のお尻を使うのと男のお尻を使うのとでは、どっちが変態だろう? もっとマニアックなことだって平気だ。俺の身体をどんな風に使ったら、大月くんは喜んでくれるかな。

 大月はコンドームを持っていた。もちろん、前の彼女と使っていたものが、捨てられずに残っていたのだろう。もっと言えば、……少々マニアックなことを彼女としていたという言葉が嘘ではなかった通り、ローションも持っていた。部屋の明かりを消してもカーテンの裾から潜り込んでくる外の光のせいで、皐醒には大月が目を煌めかせて自分を見上げている顔が見えた。ということは、大月にも物欲しげな皐醒の身体は余すところなく把握されているのだ。

「すげー……、そうやって、自分でやるの……。痛くない……?」

 見られるのが恥ずかしいから電気を消してと言ったのだ。

 けれど、どうやら長い前髪にほぼ一日中塞がれていながら、大月は目がいいらしい。どうしてこれが魅力的に見えるのだろう? 理屈では判るのだけど、感覚が納得しない。

「……最初はね、いちばん、最初の頃は、ちょっと痛かった。でも……、いまは平気。身体が、知っていくんだと思う……」

「そういうもん……」

「……彼女さん、痛がってた?」

「んー、どうだろ……、あんま痛い痒い言わない人だったからな……、あと、まあ、あの、挿れるもんの太さとかもあるんじゃねーかな……」

 厳密に比べたわけでもないが、彼のそれは皐醒とほとんど変わらないように見える。皐醒が自分のそれのサイズに自信を持ったことは一度もないことを考えれば、少し気にしてしまうのも無理からぬことか。

「……了くん、俺たちよりちっちゃいよ。あとあの子包茎」

「そうなの……。っつーか皐醒くん見たの?」

「仕事の休みの日に、一緒にスパ銭行った。白くてね、ちっちゃくてぷにぷにでつるつるだから、あれで毛がなかったらマジで小学生みたい」

「へー……」

 皐醒が思い出したものを、大月も想像したに違いない。

 あんなに可愛いものではないけれど。

「俺も剃ろうか。……剃ったら、大月くんもっと興奮する?」

 ん、とか、む、とか、あるいは、ぐ、……というような声を漏らした。仮にそうだとしても、あんまりそっち方面のマニアックさを持っていることは言い出しにくいものだろう。

「……大月くんもつるつるにして……、お揃いにしちゃおうよ」

「えー俺も剃るの?」

「可愛いと思うよ。大月くん、ほんとに顔綺麗だし」

 納得しがたい顔でいるのが判った。基本的に自己評価が低い人なのだと受け止めて間違いはなさそうだ。

 似ているのか、俺たちは。

「……ん、もう、いいよ。大月くん」

 指を抜き取る。身体に負担の掛かるやり方であるとは思わない。大月は皐醒が自分を拓いている間、一瞬たりとも興奮の収まることはなかったようだ。それなのに、ゴムを装着した彼にローションを垂らす皐醒に彼は少し不安そうな顔になって、こんなことを訊いた。

「その……、中寉くんと行ったスパ銭……、スパ銭って、スーパー銭湯のことでいいんだよね? それっていうのは……、昨日のトイレ的な場所……?」

 ローションを垂らしすぎてしまった。幸いにして、シーツの上にバスタオルを一枚敷いて、大月にはその上に横たわって貰っていたから、まずいことにはならずに済んだが。

「ああ……、ううん、普通のスパ銭。家族連れ、ちっちゃい子もおじいちゃんもいるようなとこ。俺本当はね、……信じてもらえるかどうか判んないけど、発展場って苦手なんだ」

 いじめられた経験があるからか、知らない人に急所を晒すことにはどうしても抵抗感があった。それに、ミツルさんや了くんだけでなく、幸太郎もこんなことを言っていた。

 ああいうところは気を付けた方がいいんだ。どんな奴が来るか判らないんだから。一人で近付いちゃいけないよ。

 まだ幸太郎が優しかった頃、彼から得た情報としては珍しく有益なものだったと思う。しかしながら、彼がいの一番に例として挙げた「山王ティールーム」で美人局未遂をやることになったのだから、人生というものは判らない。言うまでもなくこれは皮肉だ。

「そういうところには行かないよ、……もう二度と行かない」

 少し安心したように、大月は頷いた。

「皐醒くん、手、繋いでもいい?」

「……左手汚いよ」

「いいよ。どっちみち、もう一回シャワー浴びるでしょ……? だから、お願い」

 段取りを踏んだ二人ではないにしても、初々しいことは誰にも否定されないだろう。離れ離れでいた二年間を、これから何年かけて拾い集めることが出来るのかも判然としないが、希望を抱くのは自由ではあるまいか。

 女に生まれてきたかったなと思ったことは一度もない。男の身体であれ、……綺麗ではないものであれ、孔が開いている。中寉了みたいに天性の美や、中性感を備えているものではなくとも、ときどき、こうして、愛を飲み込むことができる。

 掠れた小さな声で大月が、マジかよ、と言った。彼の熱を、皐醒が身体の中へ完全に収納しきったときだった。

「……痛い……、重い……?」

 心配になって訊いた。彼は慌てて首を振る。

「いや、あの、……ええ……、マジで、こんな気持ちいいもんなの……、めっちゃ締まっ……、でも、やらかくて、……すげえ……」

 喜んでもらえることはもちろん嬉しいけれども、ちょっと大袈裟ではあるまいか。誰のだって同じぐらいに気持ちいいはずだ、……まあ、皐醒は誰の「中」もまだ知らないのだが。

「彼女さんのお尻、したことあるんじゃないの……?」

「ある、あるよ、あるけどっ……、あー待って待ってまだ動かないでっ……」

 皐醒が両手を差し伸べるなり、ぎゅっと握り返して、「っぶねぇ……」と深呼吸をする。

「えっやっぱり痛かった……?」

「いや……、いや、そうじゃなくって……、イキそう、なった、いま割とマジで……、はー……」

 また深呼吸。裸になると、纏っているのは本当に最低限の筋肉だけという印象である。考えてみると、皐醒は今日、彼の衣服をとても心地よく着ていたのだ。

 だいたい、いろんなところが同じぐらい。

「こんなん、言ったらいけないんだけどさ……、前の彼女のお尻より、ぜんっぜん、もう、ぜんっぜん気持ちいいし、なんか、すげー興奮すんの……、なんでかね……」

「なんでかねぇ……」

 皐醒はまだまだ余裕がある。

 中寉とセックスについて話したことが皐醒には何度かあって、「えっ了くんお尻だけでいけんの?」「えっ皐醒くんはお尻だけではいけないんですか?」「お前ら仕事中だぞ」……最後のはマスターの声であるが、とにかくそんなことも話したことがある。気持ちいいは気持ちいい、もちろん、たいして綺麗でもなくて、ろくでもない考えばかりが詰まっている身体に挿入してもらえるのは嬉しいし、幸せなのだけれど。

「……女の人は、もう一個開いてるからじゃないかな……。女の人のそこ、見たことないけど、ある程度柔軟性あるもの……、なんでしょ?」

 大好きな相手とのセックスの最中に考えることとして、あまり相応しいものではないけれど、皐醒はもう、大月とのあらゆるコミュニケーションが嬉しい。恋愛関係初期の躁状態とでと位置付けられるかも知れない。

「男は、ほら、そこも詰まってるから。その分だけ圧力も強いのかも……」

「そう……、そうなのかな……、ねえ、あの、皐醒くん……?」

 ちょっとだけ、不安そうな顔になった。カッコいい声にカッコいい目もちょっと頼りなくなる。

「俺、あのさ、俺わりとこう、早い方だから……、あの……」

 顔は全然違うのに似たところが多いんだねということを学ぶ一夜なのだった。ついでに言うと……、なんだこれ、この人すっごい可愛いんだな、男らしくてカッコいいだけじゃなくて、ということも。もちろん一夜漬けで全部解るはずもない。明日明後日しあさって、ずーっとずーっと時間を掛けて学んでいくのだ。

 前向きな気持ちが皐醒の中でやけに大きく産声を上げる。

「そうなんだ……、じゃあ……」

 明日も当たり前に生きていてしまうであろうこの身体だ。そういう呪いを皐醒は帯びている。生きたいと思わなくても生きていて、生きていて欲しいと願う人は死んでしまう。

 けれど、この瞬間から、死ぬことが怖くなる。

「搾り取っちゃおっかな……、大月くんの、中身」

 願われた通り、両手を繋いでいる。指を、しっかり絡めて、どうかもう解けませんようにと。

 こんなに熱くて淫らな気持ちになるのは初めてだった。一応「中」に注がれるのは皐醒の方だけれど、この人の中を自分で一杯に満たしてしまいたいという、強烈な欲求が皐醒の腹の底で渦巻いている。

 歪んでしまう。

 歪んでしまっても、人は必ず元に戻る。

 今度こそ俺は、……今度こそ。

 俺は。

「マジで……。キンタマ空っぽにされちゃうんだ……?」

「うん。……いっぱい、いーっぱい気持ちよくしてあげる……、俺のこと、好きになってもらえるように、俺無しじゃいられなくなってくれたらいいな……、そしたらきっと、ずっと、ずっと、ずーっと一緒にいさせてもらえるよね……?」

 腰を振り始めた。

「う、あっ、ま、待っ、こぉせいくん待ってっ」

 焦燥に駆られた大月の声が暗闇にちかちかと閃く。

「待たないっ、ほら、いっぱい……、いっぱい、幸せになって、俺で、いっ……あ……っ、あ……」

 腹の底で、呆気ないほど簡単に大月は果てた。翔大の、帯びた苦しみと罪深さを皐醒に感じさせないわけにはいかなかったものとも、幸太郎のとのとも違う。そもそも幸太郎がいつどんな風に達していたのか皐醒は記憶していなかった。そういうときはだいたい、皐醒は気絶しているか、吐気を堪えているかのどちらかでしかなかったから。

 幸せなセックスの時間が始まったのだと知る。まだ全然余裕があるなんて、どうして思ったのだろう。大月の脈打ちを受け止めながら全身を痙攣させ、彼の腹にどろどろとだらしなく濃い樹液を垂らす自分を、呆然と見下ろしている感覚だった。

 遅れて「幸せなセックス」なんて簡単な言葉では括れないものであることに気付く。

「あ……、あはっ、俺も、イッちゃった……、お尻だけで出ちゃった……、すごい、すごぉい……、ね、大月くん」

 ひく、ひく、まだ震えは止まない。同じリズムで込み上げる笑いが揺れる。

「もっと。……もっと、しよ。俺、大月くん大好き、大月くんのためなら何だって出来る、大月くんの幸せのために生きるよ……」

 大月が、泣きそうな顔で見上げている。言葉を幾つか空振りする気配があって、……やがて彼は、しっかりと頷いた。

 自分の欲を、

「もっと、したい」

 真っ直ぐに告げる。羞恥心も脱ぎ捨てた感覚があった。

「……うん……、俺も……もっと、もっとしたい……」

 ゲイではなかったはずの人を、ゲイにしてしまった。これもまた、歪めたことになる? 愛しい人に愛しいと告げるのって、すごく真っ直ぐなことじゃない?

 大月は、確かにコンプレックスを抱くぐらいには早漏なのかも知れない。しかし彼が自分の中で欲を堪え切れずに放ってくれる度に、皐醒は天井に頭をぶつけるんじゃないかと懸念したくなるぐらいの悦びを得ることとなった。よく似た二人、身体の相性という点でも申し分ないのかも知れない。

 そして、願わくば心の凹凸もフィットしますように。噛み合って綺麗な円を描く二人でありますように。

 そう願いながら彼の頭を抱いて眠りに落ちるとき、皐醒は生まれて初めて、恋が甘い匂いをしていることを知った。

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