二〇二一年・ここ何年かの世の中の皐醒(2)
大月は「ドアストッパーズ」の活動を休止していると言った。先月の中旬に久しぶりのライブを、……もちろん無観客でインターネット配信のみのライブを行ったが、そのライブのMCを、「どうかまたいつか、みんなの前でこうやってライブ出来る日が来ますように」という言葉で締め括ったのだそうだ。ベースの女性メンバーが結婚し出産したが、彼女のパートナーが今回の病禍で職を失った。ほかのメンバーも、大月を含め経済的に困窮していた。彼らのようにプロではないミュージシャンは、まず糊口をしのぐ手段を確立していないでは活動出来ないのである。
そんな話を、二人分の空になったプラスティックの弁当箱を重ねてゴミ箱に捨て、蓋を止めていた輪ゴムは台所のマグネットフックにまとめながら、軽い口調で大月は語った。
「しんどいけどさ」
言葉の内容とは裏腹に大月の声は軽かった。
「でも、不幸だとは思わない。生きるのは難しいことだけど、でも、とりあえず今日もこうして飯が食えて、明日も働いて、最低限暮らしていけるわけだし」
もとの通り座布団に収まって、
「こうせいくんは?」
今日の再会までの二年を括った紐にそっと触れた。
病禍は大月の夢であったろうバンド活動の道を途絶させた。どんなに苦しくとも「自己責任」という言葉で切り捨ててしまうこの国に生きる人々を、たった一度きりの十万円と粗悪なマスクで、どうして救えると言うのだろう?
皐醒も蝕まれていた。
皐醒の両親の心もそう。幸太郎の家が皐醒の現住所、罪を犯す前にこうして大月に救われることにはなったけれど、もう帰る場所がない。父も母も、もう皐醒の知る二人ではなくなってしまった。幸太郎はそれを知っている。だからこそ、彼はあんなに強気だった。お前独りで何が出来るっていうんだ、どこに行けるっていうんだ。お前を養ってやれるのはこの俺しかいない、だからお前は素直に俺の言うことに従ってればいいんだよ。
皐醒には仕事もない、だから、貯金もない。
「こうせいくんは……、何でお店辞めちゃったの?」
大月の問いには悪気はなかった。皐醒が店を辞めた事実は『緑の兎』を配達の仕事で訪れれば判るだろうけれど、中寉了も上之原も理由までは告げなかったらしい。
「俺は、……俺は、あの店にいるの、しんどくなっちゃったんだ……」
弁当は美味しかった。久しぶりに人間の食べるものを食べた気がする。やっぱり了くんは料理が上手だと思う、本当にいいなあ……。
ただ憧れていればよかった。一つ歳下の美しい彼のことを、尊敬して、自分もこんな風になれるように頑張らなくっちゃと努力をしていればよかった。
「あの二人と、喧嘩でもした……?」
皐醒はこの世の終わりみたいな顔で首を振った。辞める日にだって、皐醒は笑顔だったのだ。
「喧嘩は、してない。二人とも、あと、手伝いに来てくれる人たちも、みんな優しくっていい人たちだったから。でもね、……でも、俺はたぶん、あともうちょっといたら、喧嘩しちゃってた、二人に酷いこと言ってたと思う……」
憂鬱で塗り潰された皐醒の顔を、大月はじっと見詰めていた。辞めなければよかった、と思う一方で、辞めていなかったらもっと辛いことになっていたかもしれないとも皐醒は思う。どちらにせよ、不幸にしかなっていなかったのだ。だとすれば、この現状さえも間違いではないということになってしまう、……美人局に身をやつすこの状況が!
それって、あんまりにも救いが無さすぎる。
「話して楽になるなら、話しちゃえばいいじゃん」
大月はにっこり笑って言った。優しい声だった。
どうしてこの人は俺なんかにこんなに優しくしてくれるのだろう? 皐醒にはもはや、誰かが自分に向ける優しさはこの心に隙を作らせるための悪辣なテクニックであるとしか思えなくなっている。だって幸太郎も同じ言葉を口にした。
それでも、
「愚痴でしかなかったとしてもさ、声出すって大事だよ。俺に何か出来るわけじゃないかもしんないけど、声を聴いててあげるぐらいは出来る」
どうせ騙された末にここにいるのだ。
「俺は……、俺はね」
これ以上堕ちる余地があるのだとしたら、それはそれで、いったいどれほど深い闇の底を見ることが出来るのか……。
「マスターのことも、了くんのことも、大好きだったんだ。……本当に本当に大好きだったんだ」
中寉了を初めて見たときのことを、皐醒は忘れられない。
「本日からお世話になります」
と頭を下げて、上げた顔の、目の前に光が降りて来たみたいな鮮烈な印象……。瞬きしても瞼の裏がちかちかしていた。こんな可愛い子がいるのかと、本当に驚いた。皐醒だって少しぐらいは整った顔をしていると密かに自負していたけれど、鏡を見たくなくなるほどに美しい肌と髪と瞳、成人しているはずなのにどこかあどけない頬。何より、化粧をしているわけでもないのに、涙袋の目尻側に掛けてほんのりと赤らんでいるのが目を惹かずにはいられなかった。
上之原はスタッフの募集を掛けていなかった。面接予約の電話が掛かってきた気配もなかったのに、突然皐醒の後輩として現れた彼はとても真面目で礼儀正しく、丁寧な仕事をするおりこうさん。だけど堅物という訳でもなく、喋るとちょっとだけ笑い、目元の赤みを華やかに花咲かせる。存在するだけで人の心を捉えずにはおれず、しかし扱いを間違えたならたちまち厄介な事態を招く美を備えていると皐醒は思った。本人は強くて逞しい雑草のつもりで、実際言葉の端々には自身を軽んじる感情が隠しきれず滲んでいた。幸運にも難を逃れてこの店のスタッフをしているだけ……、皐醒にはそう見えていた。
中寉とマスターが付き合い始めたな、と気づいたのは、梅雨の三連休明けである。まだ中寉が働き始めて半月経ったかどうかという時期だ。
おっかしいな、マスターはノンケのはずなのに。いったいどうやってあの子はマスターの心を絡め取ったんだろう? 俺がどんなに誘っても遊んでくれなかったのに。俺は男には興味ないからって、けんもほろろに断ってきたのに。
大月は黙って聴いている。
「要は……、幼稚な嫉妬。了くんとマスター、俺には目もくれずにくっ付いたんだ。マスターのこと最初に好きになったのは俺なのに、了くんのこと可愛いって思ったのは俺なのに、二人でくっ付いたんだぁ……、って」
ゆるく笑って見せたつもりではいたけれど、大月の目にはどれほどおぞましいものとして映っただろう?
「それで……、辞めちゃったの?」
ううん、首を振った。辞めたのはもっとずっと後だ。
本人たちは皐醒には隠しているつもりだったのかもしれないけれど、すぐ近くで長い時間を過ごす皐醒にはバレバレなレベルで、端的に言えばラブラブだった。お揃いのモチーフをあしらったウォレットチェーンとスマホカバー、ある日を境にスラックスのブランドが同じになった。気を利かせて二人を置いて先に帰ったあと、俺っていいやつだなあ優しいなあと思っても、どんどん険しくなる顔と電車の窓で向き合う羽目になって嘆息したこと数知れず。俺って嫌なやつだなあ、だから嫌われるんだ、だからいじめられるんだ。
鬱屈の大砲に着火して清々しようと思い付いて、躊躇っているうちに、自分の指を焼いてしまう……、という経験を、皐醒は何度か繰り返してきた。いまも大月が言葉を導き出してくれていなかったら、結局自分の指先をぼろぼろにする結果を招いていたかもしれない。
「店が、ウイルスでヤバくなり始めた頃に……、さっきの人、山王の駅にいた、……幸太郎っていうんだけど。大月くんは知らないと思うけど、ゲイ向けのSNSがあって、暇してるときに話して、お互いいけそうなら会って、……やるだけっていうのもあるんだけど」
「そこで知り合った人?」
「そう……。なんか、気分転換したくて。何度かメールでやり取りして、会って、お茶して、カラオケ行って、……良さそうな人だなって思ったんだ、優しくて……、最初は、ほんとにすごく、優しかった」
最初だけ、というわけでもなかった。「俺の方が歳上だから」という理由で、デートのときに皐醒が金を出したことなんてほとんどなかったし、そのデートは五回目までとても穏やかなものだった。彼はそういうことは一度もしたことがないと言っていた。「そういうこと」を目的として集うコミュニティでありながら、そういうことを抜きにして遊ぶというのは何だか滑稽だけれど、皐醒は構わなかった。少なくとも当初はどこまでも優しく穏和な人柄であった幸太郎は、着実に皐醒の心を捉えていった。嘘で取り繕われた仮面の向こうを見抜く術は、いまだ皐醒には身に付いていない。
皐醒の味わってきた苦難、とりわけ高校時代の体験について、彼は大いに同情し、「辛かったな」と我がことのように受け止めてくれた。親にだってそうされたことのないほど優しく皐醒を抱き締めてくれたのが最初の抱擁。その夜に、皐醒は幸太郎に身体を許した。
幸太郎が変化したのはそこからだ。
男同士のセックスの話なんて、ノンケの人は聴きたくないに違いないと思ったから具体的な話は避けるにしても、……気を失うことが珍しくなかった。それは激し過ぎる快楽に天まで届くほど突き上げられたからではなく、痛みや苦しみからの逃避手段として。
「……気絶するほど痛いって、どういうこと……?」
緊張した顔で大月が訊いた。
「首を絞められたりとか」
皐醒の首を見て、大月は微かに身震いをした。
世の中にそういう類の方法を好む人がいるらしいということは知っていた。ミツルママに「そういう男にはくれぐれも気を付けんのよ。嫌なことはちゃーんと『嫌』って言わなきゃダメ」と言い聞かされていたのに、いざ「そういう男」と出会してしまうと。
よりにもよって、「そういう男」がセックス以外の時間ではことごとく優しいのだと理解してしまった後であると。
嫌、とは言えないのだ。
しかし、幸太郎の行為は少しずつエスカレートしていった。ボディタッチやちょっとした悪戯めいたちょっかいは、彼の言葉の通り「愛情表現」と解釈することが出来たかもしれない。お前何馬鹿なこと言ってんだよと肩をグーで叩く、……親しい仲であればこそ許されるコミュニケーションだ。一々怒っていては関係にヒビが入るかもしれない。
しかし、皐醒が過去に味わったいじめもそうやって激化したのだ。
いじめ。冗談という相互了解の上でも暴力や嫌がらせは着実に皐醒の心身に損害を及ぼした。冗談であるのだから、本気で受け取ってはいけない、むきになって反論しようものなら、その瞬間皐醒にとっても「冗談」ではなくなってしまう……、それを恐れるがゆえに、笑って誤魔化して、やがて自分の最終防衛ラインは人間の尊厳の輪郭よりも内側にまで後退してしまう。
だから、今回も皐醒は耐えることを選んでしまった。
やがて幸太郎は、皐醒がちょっと自分の意見を述べただけでも手を上げるようになった。背中を蹴る、頬を平手で打つ、……端的に暴力としか呼べない行為を受けるところまで発展してもなお、皐醒は幸太郎の元にとどまることを選んだ。
幸太郎に言われるまま、『緑の兎』を辞めた。
中寉と上之原への屈託が自分の中に育っている自覚はあったけれど、幸太郎に従う方が楽だと思ったのが現実だ。お前は家のことだけちゃんとしてろ、俺が養ってやるんだから文句を言うな。……うん、わかった。お部屋の掃除、ちゃんとやる。ごはんも、頑張って作る。幸太郎のために、頑張る……。
どうして? 大月の双眸には疑問が浮かんでいた。
「だって」
皐醒の頬はぎこちなく微笑みを作るとき、かさかさに乾いた皮膚が慣れぬ表情にひび割れるような痛みが走った。
「俺、『彼氏と結婚する』って言ってお店辞めたんだ。そう言えることは俺の喜びだった。やっと人並みに幸せになれるのかもしれない、了くんとマスターより幸せになれるかもしれないって」
精一杯の意地。濡れた障子紙のように薄く弱く、透けてしまうほどのものでも、絶妙な力加減で張って見せた。
「それに、俺にはもう、行くところがなかった。帰るところも。実家もね、もう……、両親どっちも、おかしくなってて」
「おかしく……?」
「うん。なんか、よくわかんないけど……」
病禍が世界を覆って以来、皐醒はずっと実家に帰らなかった。親元を離れて東京の大学に進学したのは、自分を知らない人に囲まれて新しい生活を始めようと思ったからだが、それでも盆と正月には帰って親の顔を見るということは当然の予定として組み込まれていた。しかるに、ピーク時には県を跨いだ移動さえ避けるようにと言われてしまっては、帰省も諦めざるを得ない。
その間、皐醒の二親は壊れた。
自粛なんてしなくていい、ワクチンなんてあんなもんは毒を射つようなもんだ。だいたいただの風邪に騒ぎすぎなんだ……。
「え。……どこなの、こうせいくんの実家……、海外……?」
いいや、同じこの国の、田舎だけれどそれなりに大きいところだ。そもそも海外にだってそんな考えの人はそうそういないはずである。
離れている間に、いったい何があったのか。電話の向こうとこちらはまるで別の世界だった。
動揺する皐醒に、機械は苦手でずっとガラケーを使っていたはずの父が、「いまお前のスマホに送ったアドレスを見てみろ」と、動画共有サイトのURLを送ってきた。「そういう動画を見てお前も勉強しなきゃならんぞ」と言われるがままに見てみたが、自称「医療研究者」なる男性がヒステリックに荒唐無稽な陰謀論を捲し立てているもので、うっかりその者がアップロードしている動画を二つほどハシゴしてしまったせいで、以後しばらく皐醒がその動画共有サイトにアクセスするたびに「あなたへのおすすめ」として「テレビが報道しないワクチンの真実」だとか「盗まれた選挙・大統領選の真相」だとか「世界が感動する日本の誇り」だとか……、そういったタイトルがずらりと並ぶようになってしまった。挙げ句「正しいことを言って何が悪い? 『非生産的』なLGBT」などという動画(これは皐醒が目撃してまもなく規約違反か何かで削除されたようだ)のタイトルを見るに至っては、眩暈と吐き気を催した。
「……なんていうんだっけ、そういうの、エコー……、エコー検査……」
「エコーチェンバー」
ちょっと和んで笑ってしまいながら、皐醒は大月の言い間違いを修正した。
「そんな家、怖くて帰れないよね」
「まあ……」
そういう中高年が増えているという話は聴いたことがあった。
皐醒は少し遅くに生まれたこどもで、両親とももう還暦を迎えている。皐醒からは叔父に当たる人物からスマートフォンを持つよう薦められて、一念発起購入したはいいが、うっかり踏んだ情報から一気に反知性的情報の網に絡め取られてしまったのだ。ウチの両親は大丈夫かなあと案じたのだろう、大月の目元に物憂げな雲が掛かった。
「そんな感じで、もう、実家にも帰れない。そうこうしてるうちに、……幸太郎が仕事をクビになったんだ。フリーターだったんだけどね、事業縮小するってなったときに、元々あんまり働きぶりが評価されてなかったらしくて、真っ先に」
幸太郎は更に、急激なスピードで歪んでいった。
自分が解雇されたのが不当だということを延々皐醒に訴えて、もし皐醒が彼の意に反するようなことを言おうものなら、たちまち暴力が飛んでくる。俺がお前を養ってきたんだ! お前は延々無駄飯を食らってきたんじゃねえか! それなのに俺が苦しいときにお前は何もしないのか! 言えよ、お前に何が出来るのか、俺のために何が出来るのか言えよ!
初めて足を運んだライブハウスで「ドアストッパーズ」の演奏を聴いたとき、めちゃめちゃに音が大きいなあ、と思ったものだ。しかしお腹の底を温かく叩くその音は決して不快なものではなかった。
幸太郎の金切り声は一度聴いただけで鼓膜にしばらくは治癒しない傷を刻んだ。ごめんなさい、ごめんなさい、無能でごめんなさい、俺のせいで苦しい思いをさせてごめんなさい。
だからお願い、殴らないで。幸太郎のために何でもするから。
大月は、痛ましげに俯いてしまった。仕方がない。こんな話、誰も聴きたくないだろう。
ぽつり、皐醒は言った。
「……俺が一緒にいる人って、歪んじゃうんだ」
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