二〇二一年・そんなに不幸になりたいの?

 小学校の時も高校の時も、いじめてきた同級生たちは最初はみんな友達だった。それなのに、気付いたときにはいじめる側といじめられる側に隔たってしまった。彼らが何か悪いことをしたのだとは思わない。でも、自分が何をしたのかも判らない。皐醒にはいま振り返っても何も判らないのだ。

 彼らに罪を犯させたのは、俺のどこかに、彼らを歪めて攻撃へ駆り立ててしまったからだと考えるのが一番妥当である。

「幸太郎もね、本当はあんな酷いことする人じゃないんだ。俺が一緒にいたせいで、あの人はどんどん不幸になっていって、……危うく大月くんのことまで巻き込んじゃうところだった」

 大月はちゃぶ台に両肘をつき、口許で指を組んで黙っている。鋭い視線を天板の木目に注いで、思考に沈んでいる顔は、意外と言っては失礼だが、知的に見えた。

「助けてくれてありがとう。お弁当も。……だけど、俺はここにいちゃいけないと思うんだ。俺が一緒にいると、大月くんのことも歪めちゃうと思うし、それにね、いつか幸太郎がここに来るかもしれない。そうなったら、結局大月くんに迷惑を掛けることになっちゃうからさ、だから、俺は行くよ」

 視線だけが皐醒に向く。何処へ? 問うているのが解る。

「幸太郎のところへ帰る。あの人は、俺のせいで歪んじゃったんだ。だから、最後まで俺が責任取らなきゃね」

「違う」

 指を解いて、立ち上がって、ぐいーと背中を反らして、「それはぁ……、全然違う、違うよ。こうせいくん帰ったらあいつに何されるか解ってんでしょ?」とちょっと細くなった声で言う。

 当然、解っている。殴られるのだ。たぶん、これまでで一番酷く。

「俺は、……これ、俺の意見じゃねーな、こうせいくんの意見に乗っかって言うんだけどさ。どんな間柄でも人のこと殴んのはダメだよね、罪なことだよね。こうせいくんはあいつに悪いことさせたくないんでしょ? だったら、こうせいくんが帰るのって、あいつに罪を犯させることにしかなんないんじゃない?」

 立っている男を見上げると、自然、口が開く。ちょっと間抜け面だと自覚するまでに時間が掛かった。

「……そんなさあ、可愛い顔しちゃって、『責任』なんて言うなよ」

 と苦笑して言った大月が、奥のふすまを開けた。なるほど、彼女と住んでいたときは、そちらが寝室だったのだろう。心なしか女性的なにおいが流れて来たようだ。

「でも……、でも、俺が一緒にいたら、今度は大月くんに」

「俺は俺だよ、俺のまんま変わんないよ、良くも悪くもね……。それよりも、俺も俺でこう考えるわけだ。いまこうせいくんをあいつのところに帰しちゃったら、今夜はもう眠れないだろうな。こうせいくん、いまごろどれだけ痛い思いしてるんだろう、怖い思いしてるんだろう……。それはちょっと耐えられないかな」

 優しい心の持ち主なのだろう。だったらなおさら、その心が歪み傷むところは見たくない。

「でも、俺、ゲイだよ。男の人が好きなんだよ」

「それがどうかした?」

 皐醒が応えられないでいるうちに、寝室に引っ込んだ大月はピンク色のバスタオルを持って戻ってきた。そのまま皐醒の背中を通り過ぎてバスルームに入る。しばらくして、水が浴槽の底を叩く音が聴こえてくる。台所のシンクに寄りかかって換気扇を回し、引き出しから取り出した煙草で火を点けた。ほとんどにおいがしなかったので、少し意外だった。顔をしかめてすう、はぁ、と一つ苦々しい呼吸を挟んで、

「……いじめられてたって言ってたね」

 大月は問うた。

「……高校の時にね」

「それまでは、全然?」

「中学の時も、小学校の時も、少し」

 煙草って、おいしいのだろうか?

 高校時代には、不良であるとかヤンキーであるとか、そういうレッテルを貼られている子が吸っているところを何度も見た。人通りが少なくなると平気で吸い始めるのだ。「やめなよ、誰かに見付かったらどうするの」と皐醒が諫めても一向に聞き入れてくれないので大いに困った。

 北木翔大はそういう人間で、小学校の時の同級生でなかったら、高校で再会したときにはまばゆい金髪になっていた彼と一緒に時間を過ごすことなどなかっただろう。

「……そいつが、こうせいくんのこといじめてたの?」

 一度頷いてから、慌てて皐醒は首を振った。

「翔大は、……翔大は、どっちかって言うと、いじめられてた方」

「ヤンキーなのに?」

 意外そうに問いながら、灰皿に煙草を押し潰す。火が消えてもまだしばらく、懐かしく寂しいにおいが残っていた。

 北木翔大は皐醒と同じ小学校から私立の中学に進学したのに、結局のところ皐醒の行くレベルの公立高校に通うことになった。その経緯について彼は多くを語らなかったが、齎された数少ない言葉を繋ぎ合わせて想像するのは、私立中学の学力レベルに達しなかったということらしい。そんな次第で、高校での彼はずいぶんと不貞腐れた様子で友達も作らずいつも一人でいた。一方で皐醒は、中学時代にしょっちゅう痛みを伴うちょっかいを出してきた連中と別れた高校で幸いにして新しい友達を作ることも出来ていたから、教室での立ち位置は対照的だった。

「俺ね、翔大と付き合ってたんだ。翔大に告白されて、全然嫌じゃなかったし、嬉しかった。言われて初めて、自分がゲイだって気付いたんだよね」

 幸せだった。いま思い返しても、頬が軽くなる。人生全体で見ても、蒔田皐醒がいちばん幸せだった時間。誰も来ない屋上で一緒に弁当を食べて、キスをした。昼休みが終わると「行け」と言われて教室に戻る。翔大はしょっちゅう授業をサボった。

 彼を悪く言う人はいっぱいいた。そうした言葉はどうしても皐醒の耳に届いた。皐醒は翔大に言われた通り、すべて右から左に押し流そうとした。翔大は本当はとても優しい子なんだ、繊細な子なんだ。お願いだからそんな風に悪く言わないでという願いを必死に喉に止めて、そうだねえ、なんて同意した振りをした。事実として、翔大は生活態度の悪い要注意人物ではあったかもしれない。しかるに高校で再会して以降、翔大は一度だって皐醒に意地悪なことはしなかった、嫌がらせも、暴力も。

 かつての翔大とはまるで別人のように。

「……ちょっと待って。あの、ごめん、こうせいくんはさっき小学校のときにもいじめられてたって言ったよね、それって……」

 うん、と皐醒は頷いた。

「翔大だよ」

 大月は言葉を失った。

「小学校のときの俺はね、いまよりもうちょっとぐらいは可愛かったんだと思う。……好きだったんだって。だけど、どうしたらいいかわかんなくて、いっぱい意地悪をしちゃったんだって」

 かなりの意地悪だったことは、しっかりと記憶している。その全部を許せたわけでもない。

 暴力はあまり振るわれなかった。それでも、心にかなり深い傷を負った。辛かったのは、その年齢を考えれば相当に性的な嫌がらせを受けたことである。

「性的な……」

「学校でさ、……もう、水泳のときの着替えで男同士でも当たり前にタオル巻くぐらいの学年になってるころに、男子だけじゃない、女子もいっぱいいる前で、ズボンもパンツも下ろされた。みんなに見られたよ。すごく嫌だったし、恥ずかしかった。それ見て翔大は笑ってた。何がおかしいんだろう、何がそんなに嬉しいんだろうって当時は思ったけど……」

 ああ、俺のこと好きだったんだ。俺に意地悪をして、裸にして。俺の裸が見たかったのか。

「見たいって言えば、たぶん見せてあげてたと思うのにね。そんなに酷いことしなくても。あとは、……うん、トイレに行かせてもらえなかった。遠足のときにね、みんな帰りのバスに乗る前にはトイレに行くでしょう? そのときに、行かせてもらえなくてさ。お陰で俺は五年生にもなってお漏らしをした。……でもさ、偉かったんだよ、俺はすごく偉かったんだ。その次の日も学校休まないでちゃんと行ったんだからね」

 全部が全部、酷いことだったとは思う。しかし翔大の告白を受けて、皐醒は二つのことを学んだのだ。

 一つには、俺を好きと思う感情が、翔大に酷いことをさせていたのだという、原因。

 もう一つは、

「人は本質的に悪いものじゃないんだって、翔大は教えてくれたんだ。確かに俺をいじめてたときの翔大は悪かったと思うけど、俺に好きだって言った翔大は違うと思った。離れてた間に人として正しい成長をしたってことだと思うんだ」

 という事実。

 ひとたび歪むことがあったとしても、人は修正することが出来るのだという理解は、皐醒にはとても感動的だった。

「翔大は、もう、土下座するぐらいの勢いで俺に謝ったんだよ。もう二度と俺を傷付けたりしない、お前が傷付けられることを許さないって、約束してくれたんだ、……でもね」

 思い返すたび、いまでも皐醒の顔は歪む。あれほどの痛みを覚えたことはない。

「翔大も、結局最後には歪んじゃったんだ。歪んで、歪んで、これ以上ないぐらいに歪んで」

 大月が、二本目の煙草を消した。

「……そいつ、こうせいくんのことを、またいじめたの……?」

 違う。翔大は本当に約束を守った。再会してからは一度だって暴力を振るわなかったどころか、皐醒の心に些細な傷さえ負わせなかった。

 そして、皐醒のことを傷付けた者を許さなかった。

「高校二年に上がってしばらくしてね、学校で事件があったんだ。……下着泥棒、もちろん女子のね」

 疑われたのは翔大だった。

 体育の授業も最低限しか出ないような男だったから、サボっている間に犯行に及んだのだという噂はあっという間に広がった。

 翔大がゲイであることを知っているのは校内で皐醒ただ一人だ。翔大が女子生徒の下着を欲するはずがない。翔大は本当にそれでいいのかと思うぐらい皐醒のことが好きで、多少は可愛かったかもしれない小学校時代とはまるで違って、いまとさほど変わらない大人の男へと育っていく皐醒の身体を心から愛してくれた。皐醒は彼の身体が熱を帯びて、遠慮がちに解放を求める言葉を口にするとき、自分が生きていてよかったという悦びを心の底から味わったのだ。

「翔大じゃない、……翔大は絶対にそんなことしない、って、言っちゃったんだよね」

 大月は三本目の煙草を指に挟むところまで至っていたのに、火を点けずに箱へ戻した。皐醒から見える顔の半分を歪ませて、大きな溜め息を吐いて、シンクの前にしゃがみこんだ。

 そうしたら、どうなったと思う? そんなクイズを出さなくても、もう大月は答えに辿り着いていたようだ。皐醒は小学校、中学校時代以上の苛烈ないじめのターゲットになったのである。

「俺は、そのときは、全然後悔なんてしてなかった。盗んだのはお前だろうって濡れ衣着せられることもあったけど、それでも俺は、翔大が犯人扱いされるよりはマシだと思った。いじめられるのは慣れてたしね。俺は少し解ったことがあったんだ。高校生になっても、そういう連中のやることって小学校のときの翔大と大差ないんだなって」

「……そんなに酷い目に遭ったのかよ」

 大月が沼から口だけ覗かせて喘ぐかのように苦しげに声を絞り出した。

「そうだね、……そうだったね。うん……、小学校のときは、まだ耐えられたけど、……こどもだったからね……、でも、やっぱりある程度こう、自尊心? みたいなものが育ってる高校生だからさ、辛かった……、やっぱり、辛かったよね……」

 いまもこうして生きている。けれど、危ういところで生きているなとは思う。生きなければいけない理由があるから生きているのだ。

「……その日俺はね、女子更衣室のロッカーに閉じ込められた。そういうことをするのって、……大月くんは意外に思うかもかもしれないけど、いわゆる『不良』じゃないよ。クラスの中の、普通の子たち。これはただの遊びだよなってお互いに判って……、判ってはいないんだけどね、本当は……、でも、こんな程度でお前怒りゃしないよなって。男子だけじゃない、女子もいたんだよ。みんなでね、俺を、女子更衣室のロッカーに、楽しそうにね、……本当に楽しそうに笑いながら閉じ込めて、つっかえ棒で開かなくして。何時間も、何時間も、そのまま放置された。信じられる? 放課後にそれやられて、翌朝まで俺はロッカーの中にずっといたんだ。真っ暗で、泣いても喚いても誰も来てくれないんだ。寒い、痛い、痒い……、そう、痒いんだ。パンツの中、ぐっちゃぐちゃだからね、ものすごく痒くって、気が狂うかと思った」

 そのまま皐醒は朝を迎えた。ロッカーが異臭を放っていることに気付いたのは、別のクラスの女子生徒たちだった。

「その日の、二時間目だったのかな、それとも、三時間目だったのかな、わからない、俺は保健室にいたから、前の夜ほとんど眠れてなかったしね、……朦朧としてたし……、もうちょっとしっかりしてたら、止められたかもしれない」

 皐醒は、その日のことを忘れない。

「翔大が、トンボ……、トンボってわかる……?」

 大月が、掠れた声で「グラウンドならすやつ」と答えた。彼はどうしてか、微かに震えているように見えた。

「そう。トンボ持って、……どこから持ってきたのかな、体育倉庫なんだろうけど、どうしてトンボだったのかな、わかんないけど……。教室に飛び込んで、もう、男も女も先生も関係なしに、片っ端から殴り付けていったんだ。大勢が大ケガをした、顔に、もう治らないぐらいひどい怪我をした子もいた。耳が取れちゃった子もいた。顔を守ろうとして指が潰れちゃった子もいた。先生は、失明した。そのときは化学の授業で、うちのクラスの担任だった先生で」

 死ね。

 翔大はただそうとだけ言っていたのだそうだ。

 死ね。

 その言葉を、そのまま実現するために、彼はそうしたのだ。

 しかし、僅かに理性が残っていたのだろうか。暴力の嵐が吹き荒れた教室で、死んだ人間は一人もいなかった。

「もちろん、すぐ警察が呼ばれた、救急車も、あと、なんでか判らないけど消防車も来たみたい。でも、翔大は待たなかったんだ。あの子は昔から、すごく足が速かったからね」

 教室を血の海にした翔大は屋上に駆け上がった。

 そして、死んだ。

 軽々とフェンスを越えて、恐らく、ほとんど何の躊躇いもなく宙へ身を踊らせて、保健室の外に、皐醒の目の前に落っこちてきた。

「どうして俺の真上に墜ちて来てくれなかったんだろうって今でも時々思うんだ。でも、……こうも考えるよ。俺を巻き添えにしてたら、翔大はきっと、死んでも死に切れなかったんだろうなって。……俺の出た高校、……河野台高校って調べると、今でもその事件のことが出てくるよ。頭のおかしい不良が大暴れして、勝手に死んだって」

 翔大は、約束を守った。お前のことを傷付けない。

 お前が傷付けられることを許さない。

「たぶん、だけど。翔大はさ、自分が、……小学五年生のとき、俺に意地悪をして、俺にお漏らしさせたことがある。その時は笑ってられた。でも、同じ目に俺がまた遭った。あの日翔大は、自分が昔したことを、もう一度、……最初のときよりも比べ物にならないぐらいに強く悔やんだんだと思う。殺してやりたいって思うときに、あの子がその対象にしたのは、クラスの連中と、……そして、自分自身だったんじゃないかって。……大月くん? ねえ、……大月くん……」

 皐醒は慌てた。大月が、両手を覆って、声を殺して泣き始めていたからだ。

 全く想定していなかったことだ。皐醒は自分が同情されるなどとは微塵も思っていなかった。

 大好きな人は歪んでいく。

 翔大は死んだ。

 ぜんぶ俺のせいだ、俺が悪いからこうなるのだ。

「……あの、だから……、だからね、俺は、大月くんの側にいちゃいけないんだ。俺と一緒にいると、みんな悪いことをしちゃう、俺は大月くんにそんなことして欲しくない、大月くんには、唄ってて欲しいっていうか……、そう、あのね」

 自分の思っていることが、どうしたらこの人に伝わるだろう。おろおろと、スマートフォンをポケットから引っ張り出して、オーディオを再生する。してから、イヤフォンが刺さったままだと気付いて更に慌てて抜いて、……流れ出すのは、「ドアストッパーズ」のとびきり騒がしくて元気なナンバーだ。

「俺、大月くんの声が好きなんだ。元気ないとき、落ち込みそうなとき、今日とかも、……続けてアルバム全部聴くっていうんじゃなくて、一曲、どれでも一曲、聴いてさ、大月くんの声聴いて、元気になって、うん、頑張ろうって……。ね、大月くんってすごくいい声してるんだ、俺大月くんの声が好きで、だから、大月くんは不幸になっちゃ駄目なんだ。どうしよう、俺なんかがこんなの言ってもしょうがないのかもしれないけど、でもっおっ」

 何で。

「……駄目だよ、大月くん、駄目なんだよ、俺は、大月くんのこと不幸にはしたくない……」

 洗剤と柔軟剤と煙草と汗のにおいだと思った。同じ黒いTシャツなのに、こんなに違うものなのか。でもサイズは同じようだ。メンズのMサイズが、皐醒にも大月にも少し大きい。

「やべえ……、くそ……、チクショウ……、何だよ……」

 呪詛めいた言葉を、大月は繰り返していた。

「こんなの……、こんなのあるかよ……、こんな話があるかよ、なあ……。マジで……? こうせいくん、そんな酷い目ぇ遭わされて、まだ、まだ笑えんの……? まだ、自分がどうこうじゃなくて、人のこと言うの……?」

 男の人がこんな風に泣くところを、鏡の中以外で見たことがなかった。いまも、見ているというよりは額に頬に伝わる震えで感じているのがほとんどだけれど。

「……そうか、そうか……、だからか、……だから、こうせいくんは……」

 座っている人間の胸に頭を抱き締められているのだ。かなりに腰に来る体勢である。それよりもなによりも、皐醒が気にしているのは別なことだった。

「大月くん、大月くん、あのね」

「……ごめん」

 やっと腕が解かれた。大月はシャツの袖で目を拭う。「ごめん」の指し示すところがどこであるか、皐醒にはいまひとつ判然としなかったが、明確に皐醒が謝らなければいけないことは二つ。

 一つは、こんなに接触してしまっては、この人のことをやっぱり不幸にしてしまうのではないかという点。

 そしてもう一つは、

「あの、……ごめんね、あの、俺が長話しちゃったから、くだらないことだらだら喋っちゃったから」

「くだらなくはない」

 きっぱりと、紅い目をした男は笑った。

「俺は、びっくりしたんだ。いまもすげービックリしてんだ。こうせいくん、すごいね。こうせいくんは、……こんな子ほんとにいるのかよって思った。俺、何書いて来たんだろ。マジで、俺全然空っぽだわ。なのに、こうせいくん俺の書いた詞聴いてくれてんだ、……やべえ、俺めちゃくちゃ空っぽだわ……」

 両手で顔を覆って、溜め息を閉じ込める。皐醒には大月の言っていることの意味が、半分も判っていないと思った。なのでいま判ろうと思ったならそれが可能なことをする。

 恐る恐る、バスルームのドアを開けて……、

「あー! やっぱり!」

 じゃぶじゃぶと溢れているお湯に、半ばパニックになって踏み出して、びちゃ、と靴下の裏を思い切り濡らしてしまった。

「あ……、忘れてた、やべえ、もったいねえことしちゃった」

「そう、そうだよ、こんな……」

 水道代だってガス代だってただじゃない。生活に必要なそういったコストがどんどん上がっている今日この頃である。その上、この人はいま、慣れない自転車配達員の仕事までしてどうにかして生計を立てようとしているのではないか。

 涙の余韻の残る顔で立ち上がった大月が、ひとつ、大きく深呼吸して、

「こうせいくんはさ、名前、どういう字書くの?」

 唐突なことを訊いた。

 まきたこうせいです、と自己紹介をした二年前、彼が知ったのは音だけであったから、そう言えば字を知らなくたってしかたがない。皐醒は中寉に、「とても綺麗な字のお名前なんですね」と言われたことがあったと思い出した。綺麗な顔の男にそう褒められたのは、正直ちょっと気分がよかった。

「字……、ええと、こういう……」

 スマートフォンのメモ帳に書いて、見せる。大月は暫し覗き込んでから、「ほー……、かっけーな……、俺たぶんね、人生でどっちの字もまだ一度も書いたことない」と笑う。

 逆に、大月は、……大月くん大月くんと呼んでいるけれど、下の名前はなんと言うのか。「ドアストッパーズ」のメンバーたちは大月・鳥橋・柳・川津というのだが、アルバムのどれを見てもクレジットには苗字しか記されていなかった。柳は結婚して姓が変わって「藤尾」になっていた。そこは旧姓のままでもよかったのではあるまいか。

「俺はね、ユイトっていうんだ。結ぶ人で結人」

「へえ……」

 失礼ながら、可愛い響きの名前だと思ってしまった。顔は綺麗だし、背は自分と同じほどしかない、けれど、男らしい男の人だ。例えば「タケシ」とか「ケンジ」とか「ユウジロウ」なんかも似合いそうである、……兄弟があるかどうかは判然としないけれど。

「末っ子なんだよね」

 どういう意味なのか、皐醒にはいまひとつぴんと来なかった。皐醒は、名前から想像される通り五月生まれである。

「上に女ばっかり五人きょうだいの一番下」

「ごっ……、すごいね……、全部お姉ちゃんなんだ……」

「そー。どうしてもお袋が男の子が欲しいって、まーやりまくったんだろうね」

 ちょっと下品なことを言って、

「じゃー、改めて、皐醒くん」

 大月は自身の靴下が濡れることも厭わず、ひょいとバスルームに上がった。「あっ」と皐醒が声を上げる暇もない。

「俺の側にいてください」

「おっ……つっ……」

 妙な声が出てしまった。黒いTシャツと黒いTシャツ、「DOOR STOPPERS」という二つのロゴ、そこだけプリントなので、ちょっとだけ質感が違う。ずっと着続けている皐醒のものも、よく見れば大月のものも、少々ひび割れている。

 二つ重なって、擦れた。

「もう駄目だわ。俺、皐醒くんから目ぇ離せない」

「め……、目……?」

「不安で不安で仕方がない、怖くてしょうがない、皐醒くんの中に詰まってるもの、……綺麗な綺麗な心が、これ以上傷付いちゃったらどうしようって思う。だから、俺と出会ってくれてありがとう。俺に、皐醒くんのこと守るチャンスを与えてくれて、本当に本当にありがとう」

 今日一日いっぱい嫌な汗を吸ったシャツの背中に手のひらが当てられる。

「俺と……、付き合ってください。友達からでもいいので、俺と、……一生一緒にいてください」

 どういう。

 どういうことか。

 この人はもう歪み始めてしまっているのか。

「俺は……、俺は……、男なんだよ……? 大月くんは、ゲイじゃない、……それに俺は」

 困惑というよりはもう混乱である。どうして? どうして? どうしてこの人はそんなことを言うの? こんな俺にそんなことを言うの?

 そんなに不幸になりたいの……?

「心配しないで。俺は、不幸にはならないよ。……人生はどう足掻いたってイージーなもんじゃないけど、でも、俺は幸せ者だよ。でもって、皐醒くんも幸せ者にならなくっちゃ……。俺の……、皐醒くんは、……皐醒くんはね……」

 また、大月の胸に涙の発作が巻き起こった。彼は大きく声を上げて泣きじゃくった。とてもとても悲しそうに泣いて、泣いて。皐醒は、大いに弱った。どうしたらいいのかまるで判らなくて、ただ、ただ、自分がそうされてきっと嫌な気持ちにはならないはずだからと、おずおずと彼の波打つ背中に手を回した。

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