二〇二一年・ここ何年かの世の中の皐醒(1)

 環状線を時計の盤に例えるなら、「2」のところから「11」のところまで、文字通り時計回りで四分の三周してから私鉄に乗り換えて、急行で十分、更に各駅停車で十分。皐醒がやっと言葉を取り戻したのは「6」を過ぎた辺りであったが、大月はずっと盛んに喋っていた。

 まず彼が言ったのは、

「はー、怖かった。めっちゃ怖かったねえ……」

 ということで、これは全くもって意外なことだった。まったく動揺する素振りもなくやってのけたように見えていたので。

「だってさ、俺、喧嘩とかしないもん。やばいって思ったらすぐ謝っちゃう。痛い思いとか嫌じゃん……。でもさ、やっぱね、悪いことはダメだよね。自分でやんのもダメだけど、人にやらすのはもっとダメだよ」

 時節柄、あまり電車内でぺちゃくちゃ喋るのは好ましくない。しかし彼が饒舌だったのは、不慣れな動きに昂った神経をどうにかして抑えるためだったのだろうと想像する。

 人の入れ替わりの激しい環状線の車内ではあったが、二人はずっと立っていた。

「……ごめんなさい」

 やっとその言葉を口に出来た皐醒に、

「俺の方こそごめんなさい。あんな、『二年前から付き合ってる』なんて言っちゃってさ」

 会うのは今日が二年ぶり二回目という男は笑って返した。

「……あの男と一緒に住んでるの?」

 小さく、小さく頷く。

 美人局なんて人間の風上にもおけない真似をせずに済んだことには感謝している。誰かから金を騙し取るなんて、やっぱりするべきではない。皐醒にとって大月は言うなれば正義の使者であった。

 しかし、正義をノーリスクで行使することは難しい。

「そっかぁ。……こうせいくん、いまでもあの男のこと好きなの?」

 皐醒は即答出来なかった。大月は幅も厚さも皐醒とさほど変わらない肩を縮ませて、

「……余計なことしちゃったかな、余計どころか、ヤバイことしちゃったのかな」

 ちょっと声を小さくして言う。

「その、俺はさ、こうせいくんが嫌なのにあんなの無理矢理させるのは、なんつーか、俺の美学に反するっつーかさ……」

 大月が気に病まなければいけないことではない。

「いいんだ、……いいんだ。だって、……うん」

 別れられるならばとうの昔に別れていたと思うから。

 逆に、こういうことでもなければ皐醒は間違いなく罪を犯していた。自分のせいで幸太郎が歪み、その責任を取るように皐醒が罪を犯す。皐醒は刑法には詳しくないが、共謀し人を騙して現金を奪うのは詐欺だろう。仮に幸太郎がしらばっくれれば皐醒一人が犯罪者ということにされかねないが、それもまた自分の責任であると皐醒は解釈していた。解釈、という言葉が相応しくなければ、覚悟と言い換えてもいい。あるいは、自分の犯した行為が巡りめぐって自分に帰って来るのだから、「責任」かも知れない。

「でも……、どうしたらいいんだろう」

 隣の男は、じっと皐醒の横顔を見詰めて、暫し黙り込んだ。今から皐醒が幸太郎の部屋に戻ったなら、何が起きるか。皐醒には明瞭にイメージ出来たし、自分のパートナーに美人局をさせるような男がどういう性情の持ち主であるかということは大月も想像するはずだ。

「……俺ねえ、先月の終わりに彼女と別れたばっかなんだ」

 ぼんやりとカレンダーが頭に浮かぶ。このところ大変で、今日が何月何日であるかという意識も持たないでいた。今日は十月四日である。

「ついこの間ってことだよね……?」

「まー、うん、そうなんだけど」

 そのわりにケロリとしている。

「ほら、生活とかも苦しいし、向こうもさ、俺もだけどバイトで暮らしてて、それでもなんとかやってたんだけど、彼女の実家がさ、もう帰って来い、見合いしてちゃんとした相手と結婚しろって。だからまあ、俺も『帰れ』ってさ、なんか、執着すんのみっともないかなって思って……」

 傷付いていないふりをして見せているのだと判った。

 大月がそう促したのは、恋人が二者択一を迫られるまでに追い込まれた末に、自分と実家を天秤に掛ける苦しみを味わうことになるのを避けるためというのが一つ。そしてきっともう一つ、結果として自分が捨てられるぐらいならば自分から降りてしまおう……、という思いもあったはずである。人間とは虚しい意地を張るものだ。

「そう、……そんでね、だから、都合がいいんだ」

 大月は一瞬暗く曇り掛けた目に笑みを取り戻して見せた。

「俺んち、いま部屋が一つ余ってる。こうせいくん行くとこないならうちに泊まりなよ」

 この言葉をきっかけに、皐醒はまたしばらく声を失うこととなった。

 私鉄の急行から各駅停車に乗り換えてまもなく長い鉄橋で大きな川を渡ったから、ここはもう東京ではない。まだ九時を回ったばっかりで、駅で降りた人は結構多かったはずなのに、少し歩いただけで唐突に頭から突っ込む感じで住宅街が始まり、たちまちひとけがなくなる。

 途中、

「ここ、俺がこないだまで働いてた中華料理屋」

 立ち止まった店はシャッターが降りている。「こだま飯店」という看板も眠りに落ちている。緊急事態宣言も少し前に解除されて夜の営業は出来るようになっているから、営業時間外だからではない。

 シャッターには少し滲んだ字の貼り紙があった。「三十五年間御愛顧頂き、誠に有難う御座いました」から始まる筆ペンの文字は、この店が九月の終わりに閉店したことを告げていた。

「そんで、ここが俺んち」

 駅から歩くこと十五分近く、トイレに行きたいな、でも、いつそれを言い出そうと思って困り始めていたタイミングであった。トイレに行きたいという気持ちがなかったなら、「散らかってるけどどうぞどうぞ」と促されても上がらなかったように思う。

「お邪魔します。……あの、トイレ借りてもいい……?」

「いいよー、そっち」

 散らかってる、という言葉は謙遜だったに違いない。僅かに男っぽいにおいがする、煙草のにおいも少し。あとは概ね、洗剤と柔軟剤のにおい。トイレの中も綺麗であったし、バスとは別になっている。丁寧におしっこを済ませて出て行くと、先に手洗いうがいを済ませた大月は六畳間の真ん中にある丸い卓袱台の上に、プラスティックの容器に入った弁当を二つ並べて置いていた。

「こうせいくん、晩ごはんまだでしょ。手ぇ洗ったらおいで。弁当二つあるから」

 言われた通りに手は洗う、もちろん。

 だけど。

「あの」

「ん?」

「……俺は、ここにいたらまずいよ」

 ついこの間まで彼女が暮らしていた部屋、だから座布団が二つあるのも当然だろう。大月はもうマスクを外していた。食事の時には邪魔になるからか、前髪もゴムで結わえて額を出していた。隠れていた眉はとても細くしていて、双眸は、やはり記憶の通り鋭い。しかし形とは裏腹に、威圧感を与えるものではなかった。

「それはー、こうせいくんがゲイだからってこと?」

 あ、飲み物、と皐醒が座るのと入れ替わりに立ち上がって、「麦茶でいい?」と訊く。答えあぐねているうちに、色違いのグラスになみなみと注いで皐醒の前に置いた。

「でも、中寉くんも上之原さんもゲイでしょ、あと、ドラムのミツルさんも」

 中寉というのが皐醒の友達だった男だ。中寉了、美しくて可愛くて、とても一個しか歳が違わないとは思えないぐらいあどけない顔立ちをした子。一緒に上之原のバーで働いていた。

「そんな特別じゃないよね」

 そう、なのだろうか。

「俺の、いまの仕事ね、これ」

 彼は『CUBOID』のバックパックを指差す。

「宿木橋の周り、仕事多くて稼げるって『CUBOIDER』の中で評判だよ。美味い弁当出してるお店が急に増えてさ」

 彼らの業務形態や、どれぐらいの収入が得られるものなのか、皐醒はまるで疎かった。

 それでも、宿木橋界隈の弁当がこのところちょっとバズっていることは知っている。火付け役は『緑の兎』……、つまり皐醒がちょっと前まで働いていた店である。

 夜間営業の自粛を求められるに当たって、売り上げの激減は避けがたい。ではどうするか。『緑の兎』をはじめとして食事を提供する幾つかの店は、腕によりを掛けて作った弁当の販売を始めたのだ。同時期にメジャーな存在となった『CUBOID』の配達員たちによって、それは近隣のオフィスや住宅へ届けられ、好評を博したのである。

 皐醒は、ちゃぶ台に並んだ二つの弁当が少し滲むのを覚えた。

「それまでは、こうせいくんと中寉くんたちしか知らなかったけど、いろんな人がいるなあ、みんな優しいんだなあって。お店支えようとして頑張ってんの見てさ、俺もしっかり、お腹空かして待ってる人のところに届けようって思ったし……」

 皐醒の頬に涙が伝ったところを見たのだろう。それをどう扱うべきか決めかねて、

「……彼女と別れたってまだ言ってなくてさ。『余り物ですが持って帰ってください』って二つくれちゃったんだよね。意地張ってそのまんまもらって来ちゃった」

 弁当に視線を落として彼は苦笑した。いまの言葉は、きっと中寉のものである。

 同僚、後輩。可愛くて美しい、お人形さんみたいな男の子。

 きっと、友達だった。上之原の心を独り占めにした、目元の赤い男の子。

 弁当の中身は、肉団子の甘酢餡、里芋の煮っころがし、にんじんのきんぴら、卵焼きに、二切れのたくあんを添えたふりかけごはん。

 献立のアイディアを話したときの記憶が、皐醒の脳裡に蘇った。

 こんな地味なのでいいのかって思ってるでしょー。

 いいえ。

 正直に言っても怒んないよ。

 思いました。

 いまはさ、おうちに帰りたいって思ってもみんな帰れないわけじゃん。でもってさ、ごはん屋さんも早くしまっちゃうから、了くんみたいにちゃんと料理出来る人じゃないとたいしたもん食べられないわけだよ。

 ……自分も料理なんて出来ないものだから、皐醒は実感を持って言った。幸太郎の部屋に住んでいる間も、食べるものはコンビニ弁当か冷凍食品、火を使うことすら稀で、そのくせゴミの量はやたらに嵩んでいたのだ。

 だからね、逆にこういう、地味だけどちゃんとした、普通のごはんって感じのもののほうが受けると思うんだよね。うまいこと宣伝したら新宿駅の方からも買いに来る人がいるかもしれない。俺ホームページ作って宣伝するよ!

 人手のこともありますし、一日に三十も作れれば御の字だと思っているのですが。

 ……中寉はやや困惑ぎみではあったが、彼の大好きな「マスター」こと上之原に皐醒のアイディアをそのまま通し、マスターもそれを認めてくれた。彼らはミツルママの店で働くオランダ人のヤンと協力して試作品を作り、それを一番に食べたのは誰あろう、皐醒であった。

 ばかみたいだ、と思うのに、涙が溢れて止まらなくなってしまった。

 嫌なところをたくさん見付けて、もうこりごりだと辞めたのに、思い出すのはいいことばかり。中寉とお喋りをしたこと、仕事しろとマスターにお説教されたこと……、そして、なぜだか今、皐醒が思い出したのは、中寉が来る直前の金曜夜、店に来た二人の客のことだ。

 一人は、カウンターで文庫本を読んでいた常連客だ。あまり親しく話したわけではないし名前も知らないのだけれど、読書家で、毎週金曜日の夜にやって来ては、スコッチをロックで頼み、二時間ほどかけて厚めの文庫本を読了していた人。まあまあ整った顔だったけれどそれ以上に、その人の周りに流れる知的で静謐な空気感が格好いいなと思っていた。だけど人付き合いは苦手なのだろう、宿木橋に来る男という時点でゲイであることは疑いないが、パートナーが出来たためしはどうやらなさそうだった。

 もう一人は、その金曜日に初めてやって来た客だ。ちょっと不慣れな様子できょろきょろしながらテーブル席に座り、「あの、ビール、……えーと、これ」と緊張した顔でメニューを指差した。背が高くて足が長い、スタイルがいいのに、どこか垢抜け切らない素朴さが興味を惹いて、「お待たせしました、ヴァイセス・ブルメンビァをお持ちしました」と彼にグラスを届けてからも、何となく眺めていた。何なら、話し掛けてみようかなと思ったけれど、すぐに皐醒は彼がカウンターの読書家に見惚れていることに気が付いた。

 洗い物を済ませてフロアに戻ると、彼は初々しく頬を赤らめながら読書家の隣の席に着いて、それはそれはもう、一生懸命に話し掛けているところで、……二人はしばらくして、連れ立って帰って行った。それぎり、皐醒が辞めるまで店に来たことはない。

 とてもいいものを見たなあ、という気持ちになった。この仕事しててよかったなあ、なんて思ってしまったのだ。孤独な赤い糸が結び付く手伝いを、ほんの些細だけれどしたような、誇らしい気持ちだった。

 あのまま働いていたら、どんなにか幸せだっただろう? 俺は間違えることがデフォルトになっているみたいに、悪い方へ悪い方へ転がり落ちていく。

 もとより、皐醒は幸せになれると思ったこともない。存在そのものが泥の沼を固めて擬人化したようなものだと自認している。

 仮に多少の養分があるならば、それを吸い上げて咲く美しい花が例えば中寉だと思って、……だから皐醒は中寉を憎んでしまったのだ。

 ばかみたいだ、と思えば思うほど、涙は堰を切って止まることを知らない。どうして「二年ぶり二回目」の人にこんなに丸裸になってしまっているんだろう?

 これって、不幸なことなのか、それとも幸せなことなのか。

 大月は、皐醒の涙が落ち着くまで平気な顔で待っていた。

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