どうしても病まなければ生きていけないのならば、生きている限りはどうかどうか、幸せに。

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二〇二一年・山王ティールーム

 真上の線路を電車が通り過ぎるたび、水色のタイルがびりびり震える。三分に一本を上回るペースで十何両も繋がった電車が走るのだから、静寂に包まれている時間の方が短い感覚だ。

 何もかもがひんやりと硬いトイレだった。

 入り口から突き当たりを左に折れて、またすぐ突き当たったら右に折れたところ、左手に洗面台が二つ並んでいる。覇気に乏しく、ここ数日に渡る睡眠不足を隠せていない顔が、丸い鏡の中から蒔田皐醒を見返して来た。長袖の、黒いTシャツの胸に黄色い太ゴシック体で書かれた「SREPPOTS ROOD」というロゴ、もちろんこれは逆さまであるけれど、着ている人間の身体の薄さは鏡の中でも同じだった。心もぺちゃんこになって、悴んでいる。

 奥に三つある個室の一つが塞がっている。パステルブルーの閉じたドアの向こうから、少なくとも二人の人間が活動する気配が濃密に漏れ出していた。それを除けば、五つある小便器にも洗面台にも人はおらず、皐醒はしばらく呆然と立ち尽くしていた。

 ここは都心のターミナル駅の一つ、山王駅北口地下通路の隅にあるトイレ、通称「山王ティールーム」である。

 私鉄各線との乗り換え、あるいは大規模商業施設の建ち並ぶ南口と中央口の混雑に比べると、駅前に見どころのない北口は地味でうらぶれた印象だ。そうした都会のエアポケットとでも呼べそうな一隅に設けられたトイレが、日夜束の間の快楽を求めるゲイの出会いの場になっている。

 そういう知識を、皐醒は持っていた。

 皐醒くんは近付かない方がいいです。

 かつて、そんなアドバイスを皐醒にくれた者がいた。皐醒と彼は都内屈指のゲイタウンである宿木橋に店を構える『緑の兎』というバーでボーイとして働いていた者同士で、年齢は皐醒の方が一つ上、職歴においても皐醒の方が先輩であった。

 皐醒くんの身体は見ず知らずの人との刹那的な快楽に消費されるような軽いものではありません。僕のような者とは魂の造りからして違うのですから。

 彼はそんな具合にずいぶんと高く皐醒を見積ってくれた。魂の良し悪しは置くとして、皐醒がパートナーを求めるとして、こうした非公式な発展場に足を向けることはまず思い付かなかった。そして余談ながら、皐醒よりも彼の方がずっとずっと、美しく高価である。そもそも比べることさえ馬鹿らしくなるぐらいに。

 けれど、仕方がない。来たくて来たのではないけれど、来なければならなかった。

 俺と関わった人が俺みたいに歪んでしまうなら、まだ何の情も交わしていない人の方がなんぼかマシ、ぐらいのものである。お腹がきゅうと切なく啼いた。今朝から何も食べていない、いや昨日の昼過ぎぐらいから、ずっと。自分の生命を維持するための金を、どうしてか、人間である以上は自分で稼がなければならない。

 だからこれから皐醒は、初対面の相手とセックスをする。段取りは、「行かない方がいい」と、恐らくは友情に基づいて忠告した彼から聞いたことがあった。こんなことは初めてだし、覚悟を決めきれているとも言い難いが……。

 二つの角の向こうから足音が聴こえてきた。

 皐醒は五つある便器の真ん中に陣取った。真っ当な神経をしている男ならば、一つ埋まっている小便器に間を空けずに立つことはない。しかしここではそうではない、はずだった。

 皐醒の視界の端、入ってきた男は一番左端に立ってチャックを下ろした。

 俺が真ん中に立っているのが見えないのか。皐醒がやや面食らいながら、男の右隣でチャックを下ろす。気持ちを落ち着けるために深呼吸をする余裕もなく、そっと男の横顔を見やった。髪が長い、……皐醒よりも長い、ボサボサの茶髪だ。身長はほんの少し皐醒より高いか。同じ黒のロンTを着ていて、大きくて四角いバックパックを背負っている。それが単なるバックパックではないことはすぐに分かった。背側のど真ん中には『CUBOID』のロゴがあるはずだ。世界中が病気の嵐に苛まれるようになって以降、この国のあらゆる街角で見かけるようになった委託配達員『CUBOIDER』に支給されるバックパックである。仕事の合間に立ち寄ってここで一息つこうという魂胆かも知れない。

 そんなことを考えながら視線を送る皐醒に、男が居心地悪そうに顔を向けた。長い前髪のせいで、顔は三分の一ぐらいしか判然としない上に、不織布のマスクをしているのだからほぼ顔はないと言っていい。何となく、自分より少し歳上だろうかと想像出来るぐらいである。

「あ」

 放尿の最中でありながら、男がマスクの中で声を上げた。彼の、見えない場所からの視線はどうやら皐醒の胸の辺りにあったようだ。マスクをしていても口が丸く開いているのは解る。続けて「あっ、あっ、ああっ」と同じ音を繰り出す。皐醒も、

「あ……!」

 と同じ声を上げていた。

 二人は、お揃いのTシャツを着ていた。

 黒字に『DOOR STOPPERS』と黄色字のロゴ。これは、とても珍しいものである。

 インターネット通販か、さもなくばライブハウスに足を運んで「ドアストッパーズ」の物販ブースで買わなければ手に入らない。

 とどのつまり、「ドアストッパーズ」というインディーズバンドのファン向けグッズとして販売されているTシャツである。着心地がよくて、縫製がいいのか洗ってもへたらなくて、皐醒のお気に入りである。

 東京のインディーズシーンにおいてはそこそこの知名度を誇る「ドアストッパーズ」ではあるが、そのTシャツを普段使いする人間はさほど多くはないはずだ。奇縁、よりによってこんなときに、よく判らないレベルの奇跡。

「っああ!」

「あー!」

 ペアルックであることを自覚した二人の男は、小便器に向けて放尿しながらお互いが誰であるかを認識して、揃って危うく靴を濡らしかけることとなった。

「こっ……」

「おっ、お、おっ、大月くん……!」

「こうせいくん、こうせいくんだよね? こうせいくんだ……、びっくりしたぁ……」

 皐醒は、大月が自分を認識し、記憶していたということに更に驚かされた。大月は「えーマジで、びっくりした、ウチのTシャツに似てんなぁと思ったら、マジでウチのTシャツで、顔見たらこうせいくんなんだもん!」とはしゃいだ声を上げる。正面を向いても彼の相貌は前髪とマスクでほとんど見えないが、嬉しそうに笑っていることは伝わってくる。

 皐醒は大月が好きだった。

 これは特別な色付けが必要な感情ではなくて、ああこの人かっこいいな、好きだな、というだけの、反射的に浮かんだもの。皐醒が大月を初めて見たあの日あのとき、同じ場所で同じ思いを抱いた人間は、多数いたはずである。

 例えば、例の年下の同僚もそうだった。

 普段はちょっと眠たげな目をぱっと見開き、乙女のようにキラキラさせて、「格好いいですね、とても、とても格好いいです」と言っていた。彼の涙袋の目尻寄りは生まれつき赤らんでいて、メイクで頑張ってそういう色を当てて可愛い振りをしなくてもとってもキュートなのだが、あの子があんな顔をするところを見たのは、二人にとって上司であった男、店主の指示を受けて、「はい、わかりましたマスター」とお行儀のいい返事をするときを除けば見たことがない。

 皐醒が大月を見たのは、……なんという名前だったか、……ボックス、……そうだ、「ボックスボックス」という名前のライブハウス。ライブハウスというものに足を運ぶのはあの日が初めてで、緊張しながらも一人で行ったのだ。同僚と店主、それから近所の店のミツルママ、あと、知らない女の人(同僚が後になって「マスターの昔の彼女さんです」と教えてくれた)がバンドを組んで、ライブをやるからと誘われて、安くはないチケットを買って行ったのだ。同僚がボーカルを、店主がギターを務めるバンド「ショッキング・ピンク・ジン」は、バンド名はダサいけれど、そして悔しいとも思ったけれど、格好よかったことを皐醒は認める。

 しかしそれ以上に皐醒の胸を打ったのは、トリ(そういうライブでは「ヘッドライナー」と言うんだそうである)を務めた「ドアストッパーズ」のボーカルの、大月だった。

 何がいい、と上手く表現することは、皐醒には難しい。

 声がいい、と思った、顔もいい、と。けれど、大月より声がいい、顔がいい人なんていっぱいいる。ボーカルをやっているわりに、唄がめちゃめちゃ上手いというわけでもない。けれど、堂々としていて、本当に本当に楽しそうに唄っていて、何だか年下の男の子が元気いっぱいにステージの上を散らばる音符の上をぴょんぴょん跳びはねて遊んでいるところを見ているみたいで、とってもいいなと皐醒は思ったのだ。

 ライブハウスの壁際では、「ドアストッパーズ」CDを売っている物販ブースがあった。ライブを終えたばかりの大月が、すぐそばで「ピンク・ジン」でベースを弾いていた女の人と話していた。ちょっと緊張しながら、長机の向こうのお姉さんに「あの、これ、CD、ぜんぶください」と言ったら、

「マ?」

 きっと話の途中だっただろうに、彼は振り向いたのだ。

「ほんとに? え、いいの?」

 ビックリした顔に、じわじわと喜びが広がっていくのが判った。さっき舞台の上で唄っていて、かっこいいなと思って見ていた人が、目の前で自分を見ているという事実が、皐醒には何とも不慣れで気恥ずかしい気がした。慌てて頷き、

「あの、すっごいかっこよかったです」

 と言ってから、もうちょっとこう、なんかこう、具体的な……、と思ったのだけど言葉が出て来ない。そんな程度の言葉ならきっと聞き厭きているだろうに、

「マジでー、マジかぁ、嬉しい、初めて言われたそんなん、ありがとうー」

 纏う音がないと少しばかり萎んで見える、……自分とそんなに背の高さも変わらない、きっと歳も、向こうの方がちょっと上かな、というぐらいの人は、皐醒の両手を強く強く握って、

「……ん? ……あれ。男……、おっ、おー、男の子か!」

 今さらのように気付いた。その日皐醒ははっきりと見て判る女装をしてライブに行ったわけではなかったが、髪は長いし最低限のメイクはしていた。

「ごめん、可愛いから女の子かと思っちゃった。でもそっかー、ありがとう、マジでめちゃめちゃ嬉しい! ねえ名前なんて言うの。こうせいくん。こうせいくんありがとね、ほんっとに嬉しい」

 いっぱい買ってくれたからおまけ、という言葉と共に彼からプレゼントされたのが、よりによって今日もこうして来ている「DOOR STOPPERS」のロゴが入ったTシャツなのだった。

「びっくりしすぎて、しょんべん溢しそうになった」

 屈託のない笑みを浮かべた大月は洗面台に移動する。彼の迷いのない動きに、皐醒は自分が一瞬勘違いしかけたことを恥じた。

 大月くんもそうだったの? と訊いてしまいそうになったのである。

「どう、して、どうして、大月くんが、『ここ』に……?」

 皐醒の問いを、丁寧に手を洗った大月は言葉の通りに受け取ったようだった。

「そっちのさ、北口出てちょっと行ったとこに楽器屋があってさ、ギターの弦買いに行った帰り。割りと品揃えがいいって、上之原さんが教えてくれたんだよね」

 上之原、というのは皐醒が働いていた『緑の兎』の雇われ店主、同僚言うところの「マスター」の名字である。

「あーでも、そういえばここのトイレはなんかあんま寄らん方がいいみたいなこと言われてたな……、なんでか知らんけど」

 いまの言葉からも明らかな通り、大月はこのトイレに、トイレ以上の用途を求めて入ってきたわけではないのだ。上之原の紹介で訪れた店でギターの弦を買い、電車に乗って帰る前に尿意を催して、上之原の警告を忘れて入って来たに過ぎない。

 居たのが俺だけでよかった、という安堵に遅れて、

「そう……、そう、だったの……」

 皐醒は遅れてじわじわと焦りを感じ始めていた。

 地下通路の、離れたところでは、幸太郎が待っている。

 彼は大月が一人でトイレに入っていく姿を当然見ているはずだ。揃いのTシャツであることには気付かなかったかもしれないけれど。

 皐醒は迷った。大月がこのトイレに入って、いまから出て行ったとして、用を済ませるために要した時間としては極めて妥当である。しかし、いまの幸太郎に冷静に大月を見送るだけの余裕があるだろうか?

 だって幸太郎は、愚かである、救いようもないほど馬鹿である。元々は頭もよくて心優しい男だったのに、皐醒が歪ませてしまったせいで、彼は信じがたいレベルにまで堕ちてしまった。

 皐醒に、美人局をさせて金を稼ごうなどと思い付くほどに。

 皐醒が彼をそこまで追い詰めてしまったのだ。

「こうせいくんは……」

「大月くん」

 せめてこの人は歪ませたくない、と思った。

「ここを出たら、……ここを出たらね、一目散に走って、後ろ振り向かないで、電車に乗って。誰に話しかけられても、何があっても、絶対に止まらないで」

 きょとん、という音の聴こえてきそうな顔を、皐醒の無垢なるロック・スターは浮かべた。

「なんで?」

「それは……、それは、大月くんが嫌な思いをしないために」

「俺が、嫌な思いを……、しないため……? それっていうのは……」

「ここは、……大月くん普通の人だから知らないかも知れないけど、ここはね」

 皐醒は声のヴォリュームを小さく絞っている。個室に入っている二人の人間たちに気を遣っているつもりだったのだが、いつまでも部外者であるところの大月がトイレから出て行かないことに業を煮やしたのか、かちゃん、と鍵が外れる音がする。

 出てきたのは、二人どころか三人であった。全員サラリーマンのようで、一人の眼鏡はマスクから漏れる息で白曇っていた。呆気に取られる大月の横を、三人が出て行く。まさか幸太郎もあの三人ひとかたまりに声を掛けるほどの度胸はあるまい。

「あっ……、あー、……そっか、なるほど、なるほどね……」

 大月は、ここがどういう場であるか理解したらしい。皐醒が上之原の店で働いていたことは知っているはずだ、つまり皐醒がゲイであることも、大月は了解している。

「……でも、逃げることなくない?」

「それはっ……、そのう……、そうなんだけど、でも、俺と一緒にいると、いや、いなくても、危ないっていうか、だから、だからね、もう、逃げて欲しい、できればスタコラサッサと」

「森のくまさんかな……」

 熊とは真逆のタイプの皐醒である。止めるんじゃなかった、もう、さっさと行かせてしまった方がよかったのだと後悔が浮かんで来た。大月が今から無防備に出て行ったら、まず間違いなく幸太郎に捕まるだろう。

 いいな、この人、……一度でもそう思った相手に失望されることと引き換えであっても、

「……美人局だから」

 守れるならば。覚悟を決めて皐醒は言った。

「つつ……?」

 大月の鼻の頭の辺りまで垂れる前髪のせいで、いまどんな表情を浮かべているか、今一つ読み取りづらい。どう思われようと、必要なことを伝えるべきときであると自分に言い聞かせる。

 いや、嫌われた方がずっといい。

 下手に親しくなって、歪ませてしまうよりはずっと。

「……俺は、美人局をやってるところ、なんだ。俺のパートナーが、トイレの外で待ち構えてる。大月くんを脅して金を取るつもりなんだ」

「んー……? でも俺、こうせいくんと何もしてないよね? 並んでおしっこしただけだ」

 大月はあくまで暢気であった。口許には濃度の低いものではあるけれど笑みが浮かんでいる。

「こうせいくんは、それ、やりたくてやってんの?」

 のんびりとした口調であり、表情も、伺い知れる限りでは柔和である。

 しかし、平均すると一日に二度は聴いている声なのだ。いつもは耳の中に閉じ込めて、自分にだけ向けられているものと思っていた声。電車の中で聴こうと思ったらうっかりイヤフォンジャックを差しそびれてしまったせいで、車内に駄々漏れになったみたいな気恥ずかしさを催す。

「もしそうなら、俺は何も言えないし、……まあ、そうだなあ、どんな相手か知らないけど、絡まれるのは嫌だから言われた通りに逃げるけども」

 彼は少し首を傾げる。皐醒はライブを見た日、少し離れた場所からではあったけれど、ステージで声を張り上げる彼の大半が髪に隠れていながら、時々垣間見えた眼付きの鋭さが印象に残っていたことを、唐突に皐醒は思い出した。気さくで優しく愛想がいい、しかし、とても強さのある眼だと思った、まっすぐな眼だと思った。

「でも、こうせいくんはそんなん、やりたくてやってんの? いつもやってんの?」

 彼の、見えないところにある双眸に、失望が立ち上るところを見ないために、髪のカーテンが降りていてくれることは却って有り難く思われた。

 皐醒は答えを用意できなかった。

「行こう」

 大月が、お揃いのTシャツの左肩をぽんと叩いた。「一緒に。そんなやつの言うこと聴くことないよ」

「でも……」

「大丈夫だって。そんなね、人に言えんようなことしなくたって生きていけるよ。こうせいくん、さっき震えてたじゃん、隣に立ったとき。だから、『お、なんだ』って思って見たんだ。自分のパートナーにそんな顔さして、怖い思いさすような奴の言うことなんて聴いちゃダメだよ。もっと自分大事にしなきゃ」

 でも、でも。

 皐醒が明確な言葉を発することも出来ないでいるうちに、手を洗ってまだ拭いていない手を大月に掴まれた。迷いのない足取りになかば引きずられるようにして通路に出る。離れたところで幸太郎がこっちを見ていた。皐醒と大月が全くのペアルックであったものだから、虚を突かれた表情を浮かべたのが皐醒には見えたし、

「あいつ?」

 大月もそれに気付いたらしい。

 大月はずんずんと大股に皐醒の手を掴んだまま歩く。皐醒は掴まれた手がやけに熱く思われるほど、自分の指先が冷え切っていることに気付かされる。頭の中はもう真っ白である。幸太郎が大月にためらいのない暴力を振るうことを皐醒は想像した。自分が浴びた痛みを何の罪もないこの人までもが浴びることを思って絶望した。どうしてこうなってしまうんだろう?

 どうして俺に関わる人は、みんな。

 幸太郎の目の前に、大月は立ち止まった。幸太郎は事態を把握できない。できるはずもない。

「ねえ、そこのあんたさあ」

 大月のごく軽い呼び掛けに、幸太郎の肩はビクンと震えた。それを滑稽とも思われない。だって皐醒にとって幸太郎とは、とてもとても怖い人なのだ。逆らってはいけない人なのだ。まして、裏切ることなんて絶対に許されない。

「俺のこうせいくんの何なわけ?」

 幸太郎からは返答がなかった。大月と皐醒の顔というよりはむしろ揃いのTシャツを、左右に視線を震わせながら彼は見ていた。「DOOR STOPPERS」「DOOR STOPPERS」意味を考えたってしょうがない、もとよりそうそう強い意味があるとも思えない、「ショッキング・ピンク・ジン」と同じぐらいにダサいバンド名だと皐醒は思っていた。

「俺、この子と二年前からずーっと付き合ってんだけど。まさかとは思うけど、俺の可愛いこうせいくんに酷いことしたりしてないよねえ?」

 意外なほどの陰険さを感じさせる声に、幸太郎は全く答える言葉を持たなかった。大月は驚くほどの気安さで皐醒の肩に手を回して、「行こ、こうせいくん」と促しながら階段を上り始める。

 幸太郎は追って来なかった。

「振り返っちゃダメだよ」

 大月にそう言われなくとも、怖くてそんなこと出来るはずもなかった。幸太郎がいまどんな顔で背中を睨み付けているのか、考えるだけで背筋が凍るどころか背骨が凍結して砕けてしまいそうに思われた。だから大月がずっと肩に手を回してくれているのは、心の底から有り難い。

 階段を登りきると、そこはひっきりなしに電車が発着する、都心のターミナル駅のホーム。男同士、肩に手を回して、なおかつペアルックとなれば、衆目を集めることになるのは当然ながら、

「とりあえず乗っちゃうよ。追い掛けて来られたら厄介だからね」

 ぐるぐる廻る環状線の内回りであるか外回りであるかも確認しないで乗った電車のドアはすぐに閉まり、ホームを離れる。幸太郎はどうやら追い掛けて乗り込んで来るような真似はしなかったらしい。

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