第34話
北米には十七年周期と十三年周期に大量発生する蝉がいる。
今年は十七年蝉がアメリカ北部に大発生しているというニュースがあった。
若葉は自分がその小さな蝉の幼虫のように、ずっと暗い地中に潜っていて、ようやくお日様の下に這い出て、蠢動するように感じたのだった。
あれから二十年。
最初は痛哭の涙さえ出ないほどの悲しみが若葉を襲い、心をシャットアウトした。
その後、半年が経って、間欠泉が噴き出すように、唐突に悲しみが若葉の体中を駆け巡った。
それからは一年一年の歳月が、彼女の心の傷をゆっくりと塞いでいってくれた。
その時間の経過を、若葉は半ば安堵し、半ば寂しく感じたのだった。
没頭できる日々の仕事、寄り添ってくれるパートナーの存在は確かに彼女を穏やかにした。
一方、過去の悲しみは曖昧模糊となり、薄まっていく。
薄まる事は自分にとって大切な思い出を消し去ることに違いなかった。
自分は正樹を忘れようとしている。
そのことに罪悪感を抱く。
何故なら、彼はまだ成仏出来ていないのだから。
だが、もしもそれが可能なら、例え万に一つもないと知りつつも成仏させてやれるとしたら、このチャンスをものにする以外にないと若葉は思った。
十七年地中に潜っていた蝉は地上に出て僅か二週間という時間制約の中で生殖のチャンスにかける。その一瞬におのが生のすべてをかけて鳴き続ける。
自分にもそれが出来るのか?
番組ディレクターに、若葉は三浦大吾を指名した。
実は彼とは中学の時の同級生だったのよ。だから出演依頼も私がするわ、と若葉は申し入れた。ディレクターは「本当ですか?」と喜んだ。
「これは面白い番組になりそうだ」
三浦大吾は今やちょっとした有名人だ。
彼の経歴はウィキペディアにも載っている。
中学卒業後、単身渡米してカリフォルニアのハイスクールに進学した。
そのままカリフォルニアの公立大学に入学。
大学在学中の二〇〇五年頃からビジネスを始める。
ジーンズを中心としたUSビンテージの古着を仕入れて、日本向けにネット販売した。
当初はオークションサイトで細々と販売していたが、売上が伸びるとECサイトを立ち上げて、そこで売るようになった。
ECサイト名は「ギブンズ」
ギブンズは二〇一〇年には法人化。
取り扱う商品を次々と増やしていく。ミリタリーウエア、Gジャン、スカジャンなどの衣類の他、アクセサリーやサングラスなどの小物類、アーリーアメリカンの家具や雑貨、食器類。さらにピンボールやジュークボックスなどの娯楽品。五十年代、六十年代のブルース、カントリー、ロックなどの音楽レコードに加え、アメコミとその関連グッズなど。
取り扱い商品数はあっという間に一万点を超えた。
従業員を雇い、年商十億円の規模になると、三浦大吾は若き経営者としてマスコミ、ネットメディアでもしばしば取り上げられるようになる。
その頃、大吾はいずれ、ギブンズを東証マザーズに上場させたいと抱負を語った。
しかし二〇一四年、ギブンズは急遽大手IT企業の傘下になる事を発表した。
大吾はギブンズを身売りしたのだった。身売り金額は十一億と言われている。
この金額が安いのか高いのか、ネット上で少し論争があったが、年商十億だと粗利で一億に届かない。妥当ではないかというのが世間の評価だ。
大吾はそのお金を原資に株式投資を始めた。
二〇一六年、スマホゲーム会社の株価がわずか半年で三十倍になる出来事があった。
大吾も資産の大半をそのゲーム会社の株につぎ込んだ。
そして三浦大吾は資産を一気に百億超にまで増やしたのだった。
現在はカリスマトレーダーとして、SNSで百万人を超えるフォロワーを持つ。また政治や社会問題にも積極的に言及し、ある一定程度の影響力を日本社会に持っている。
大吾には熱烈な信者と言われるファンと、毛嫌いするアンチが多く存在する。
アンチが多い理由は成功した人間に対するやっかみもあるが、大吾の傲慢な態度も要因だった。常にネット上の発言で炎上している。
大吾は炎上してもけっして謝らない。それではアンチの怒りが収まらないままだ。
だが、それも彼の計算のうちではないかと見ている者もいる。
「悪名は無名に勝る」ということのようだ。
若葉は三浦大吾のオフィシャルサイトに記されているメールアドレスに連絡した。番組への出演依頼をしただけの、要件のみの簡単なメールだった。
三日後、大吾からメールが返信されてきた。
そのメールには「ぜひ、一度会いたい」とのことだった。番組への出演の可否はその時に伝えると書かれていた。
五日後、若葉は神谷町にある三浦大吾のオフィスが入っているビルに向かった。
約束の時間よりかなり早く到着した。
スマホのナビをみると、三浦大吾のオフィスはすぐ近くだったが、気分を落ち着かせるために若葉はいったん芝公園まで足を伸ばした。
二十年振りに三浦大吾に会う。
そう思うとやはり若葉はどこか恐怖心を抱かずにはいられなかった。彼はサイコパスの可能性があるのだ。
ところで、彼は自分の事を覚えているだろうか。
野口珠緒や新海エリカの事は忘れていないだろう。しかし、若葉はそれほど彼と会話を交わしていなかった。
彼との会話で一番記憶に残っているのは、夏休みの夜、塾帰りに偶然コンビニで大吾を見かけた時の事だった。
あの時、彼はゴルフクラブを肩に担いでいた。
テニスを辞めて、これからはゴルフをするんだと言っていた。しかし、彼の経歴を見るとゴルフを真剣にやったという記述は見当たらない。
気紛れだったのか。
いや、と若葉は思った。
彼の行動には必ず理由がある。
当時、豊石市では小学校の飼育動物が撲殺される事件があった。あの事件の犯人は大吾だったのではと、若葉は後に思ったのだった。
殺人願望のある反社会性人格障害の人間が、予行練習として動物に危害を加えることはよくある。
考えてみれば、三浦大吾の中に、ある種の危うさを直観的に感じたのは、初めて彼を見た時からだった。
さしたる理由などはなかった。
しかし直観はバカに出来ないと誰もが経験上学ぶ。
人間は古来より他者との意思伝達を言語外からしてきた。それをノンバーバルコミュニケーションという。
感情と繋がりやすい表情やしぐさから相手の思考を読み取ってきたのだ。手や脚の動き、姿勢のちょっとした動き、微妙な表情の変化を敏感に感知する。
理由はないけど、この人、どこか信用できないと感じる時はたいてい、その言語外の情報を受け取っているのだ。
危険を予知する能力は人間が生き延びるために不可欠なものだ。
田舎では新参者や古い慣習を破る者を「村八分」にしようとする。それも一種の共同体を維持するための防衛機能だった。
現代社会では「村八分」を田舎の忌まわしいしきたりと一蹴するが、サイコパスやソシオパスのような人間は「寛容な都会」で水を得た魚のように悠々と泳ぎ回る。
そして、私達は彼らの餌食となってしまうのだ。
若葉はスマホ画面で時間を確認した。
彼を待たせてはいけない。
ゆっくりと芝公園を離れた。
約束のビルの前に到着すると三浦大吾がちょうど出てきたところだった。
「久しぶり」
ビルのエントランスで三浦大吾から声をかけられた。
お久しぶりね、と若葉も答えた。
大吾は口元を緩めているが、目は笑っていない。
警戒心を抱いている。もっともそれ以上に若葉は大吾を警戒していたが。
「暑いから、どこか涼しいところで」
と大吾は指さした。
目の前に黄色と黒が目印のコーヒーショップがあった。
若葉は頷いた。
通りが眺められるカウンターテーブルで並んで立ったまま話をした。
「鮎川さん、大学教授になったんだ。その若さですごいね」
ありがとう、と若葉は言った。
「三浦くんの方が百倍もすごいじゃない」
そう言って、『三浦くん』という言い方は適切でないと感じた。
「くん、呼ばわりはダメね」
と若葉は言った。
「二十年前の呼び方で構わないさ」と大吾は笑った。
そう、と若葉は言ったが、中学生の時、そういえば大吾の事をどう呼んでいたんだろうと思った。『三浦くん』だったのか、それとも『大吾くん』だったのか。いや、それ以前に名前を呼んだことがあったのだろうか。はっきり思い出せなかった。
「私の事なんか忘れていたでしょ」
と若葉は言った。
彼は首を横に振る。
「君の事ははっきり覚えている」
断定した口調で言うので若葉は少し身構えた。まるで若葉の事をマークしていたみたいな言い方に聞こえたのだ。
「光栄だわ。三浦くんはモテたからね」
そうだったかな、と彼は嬉しそうな表情をした。
サイコパスが謙虚になることはない。
若葉は少し試してみたくなった。
「そうよ。クラスの女子はみんな、あなたに夢中だったわ。今だってそうじゃない」
行き交う若い通行人の何人かは大吾の事に気付いて、こちらを振り返りながら足を止める。中にはスマホのカメラを向けている者もいた。
ツイッターにでも投稿するんだろう。大吾はすでに二回の離婚歴がある。今付き合っている相手は、二十歳過ぎのモデルだった。
彼が誰と付き合い、別れるかも即座にネットニュースになる。
「新海エリカさんとか野口珠緒さんは、あなたにアタックかけてたでしょ?」
そう言うと、しばらく間を空けてから「そうだったかな」とだけ答えた。
何かを察して慎重になっているように若葉には思えた。
「新海さんは学校来なくなったけど、珠緒の事は覚えているはず。彼女とは・・・」
若葉が先を言うのを遮るように大吾は言った。
「そうか。珠緒さんって・・・鮎川さんと親友だった」
思い出したよ、と大吾は大げさ気味に頷いた。
「そう、野口さんとは一緒に学級委員をやった。確か食事にも行ったなあ。あの後、彼女は大変な目に遭ったんだってね。僕は留学の準備が忙しくて会えなかったけど」
若葉は自分が言うべき事をすべて先に言われてしまったと思った。
これでは彼の反応を窺う事は出来ない。
「じゃあ、担任の木崎先生の事は覚えている?」
キザキ?
と大吾は表情を曇らせた。覚えていないという顔だ。
「中学の卒業式の後すぐに、木崎先生が亡くなった事知らない?」
彼は視線を右上に向けて何かを思い出す仕草を見せた。
「担任の事はあまり記憶にないなあ」
実はね、と若葉は言いかけてやめた。
大吾が右の人差し指でトントンとテーブルを叩いているのだ。
これは『これ以上喋ったら帰る』というサインだった。
機嫌を損ねて番組出演を断ってきたら、元も子もない。
「忙しいのに御免なさい。今日は番組に出てくれるかどうか確認に来ただけだから」
そう言って、番組の大体の内容と収録予定日を話した。
大吾はスマホのスケジュールアプリにそれを入れた。
彼が番組出演をOKする事は最初から分かっていた。
断るならメールで返事すればよいのだ。
わざわざ会おうと言ったのは若葉がどういう人物になったかを下見をするためだったはずだ。
さあゲーム再開よ、と若葉は心の中で呟いて、彼と別れた。
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