第32話

若葉は東京に戻ると、修士論文を仕上げた。

その後の進路は悩んだが、吉永教授の助手として大学に残ることにした。

そして保留していた川瀬圭太のプロポーズを受け入れ、結婚した。

結局父親との約束を果たし、若葉は三十までには家庭を持ったのだった。



結婚生活は順風満帆だった。

圭太は安定した公務員だし、休日は剣道の腕を磨く事に専念するような真面目な人間だ。酒は少しだけ飲むが、ギャンブルもやらないし、金のかかる趣味もない。

結婚した当初、日本経済はちょうど失われた二十年にどっぷり浸かっていて、若者が職にあふれ、経済的に貧窮する家庭も出てきた。派遣切りが社会問題化していた時期だ。

お金の苦労がないだけでも若葉は圭太に感謝した。


子宝には恵まれなかったが、その分、若葉は自分のキャリアを築けた。

吉永教授が大学を退官した後、若葉は心理学部の准教授にまで昇進した。三十代半ばでの准教授のポストは順当に出世している証だった。

このまま行けば近いうちに教授になれるだろうと周囲は期待し、おそらくそうなるのではと若葉も思ったが、彼女自身は出世欲など皆無だった。

好きな学問に打ち込む事が出来て、それが自分の仕事になるのだ。それだけで充分な満足感があった。

勉強もさほど好きではなかった自分が今、こうして大学で教壇に立っているのを時折不思議に思う事がある。

中学までは勉強なんかよりスポーツの方が圧倒的に好きだった。

そしてスポーツに熱中している男の子に恋をした。

その時は、その彼と結婚する事を夢見たのだった。お正月にそれをお祈りした。それも思春期の少女の淡い夢だったと思う事にした。


あれから、もう二十年になる。

いつしか平成も終わり、令和の時代になった。

生活に変化がないと時間があっという間に過ぎる。

かといって退屈な人生でもなかった。

いつしか何もかもが遠い過去の話になった。すべてが記憶の中に埋もれつつある。古い記憶は一番下の引き出しのさらに奥に閉じ込められ、めったに取り出されることもなかった。


若葉にとって今一番の気がかりは「子作り」だった。

三十五を超えると高齢出産になる。晩婚化が進み、四十代での妊娠も珍しくないとは言え、そろそろ本気に取り組まなければと焦りも感じ始めていた。


圭太の有給休暇がとれた、ある日の午前中に新橋にあるクリニックに夫婦揃って出向いた。「妊活」をする事に決め、その相談をしに行ったのだった。

クリニックでの診察を終え、外に出ると圭太は大きな欠伸とともに手を上げて伸びをした。

わかりやすい人だと若葉は口元を緩めた。よほど退屈だったのだろう。

「せっかくだから飯食いに行こう」

スマホ片手に新橋界隈で美味しそうな店を探したが、どこに行っても行列を作っていた。

平日のランチタイムだ。サラリーマンやOLが殺到している。

「もう、面倒だからハンバーガーでいい」

そう言って、目の前にあったファストフード店に入った。

外の通りが見渡せる、窓際の席。注文は圭太が取ってきた。

「セットメニューで良かったんだよな」

ええ、と若葉はスマホ画面を覗きながら答えた。助手の春香から何か連絡があるかチェックした。スケジュール管理は助手に任せてある。


可愛らしい服装の店員が二つのトレイを運んで来てくれた。

「何これ?」

自分のトレイを見て若葉が圭太に尋ねた。

「何って、若葉が注文したメニューだろ」

若葉はチョコのたっぷりかかったエクレアのような物を指さしている。

「こんなの私が注文したセットメニューにはなかったわ」

ああ、それかと圭太がポテトを摘まみながら言った。

「なんか期間限定のメニューだってさ、追加で注文しといた」

若葉は呆れ顔をした。

「圭太さ、私が今、甘い物控えているの知ってるでしょ」

若葉はこの半年で体重が急増した。原因は仕事で外部の人間との会食が増えたせいだった。

それでダイエットを始めたのだった。

「でも、たっぷり生クリームが乗っているやつよりはカロリーオフだろ?」

どうやら、その新デザートは二種類あって、どちらかを選ぶように薦められたらしい。

これは追加注文させるセールストークだ。この二つのうちどちらがいいですか?みたいな聞き方をするのだ。もちろんとびっきりの笑顔をそえて。

どちらかを選べと言われると、よりマシな方を選ぶのが人間の心理。この場合は若い女性店員の笑顔という「報酬」を貰っているから余計に断れないのだ。

これは「二分法の罠」と「返報性の原理」という心理学のテクニックだ。

心理学を応用したセールストークはあらゆる場面で遭遇する。通販の『三十分以内』『お一人様限定』『今だけ半額』・・・

「いらないなら、俺食うけど」と圭太が手を伸ばしてきたので、「食べるわよ」と若葉は反射的に言った。これも心理的リアクタンスなのだけど、まあいいか、と若葉はそのデザートを食べた。


外の景色を見ると、通りを挟んだ向こう側にとんかつ屋とケーキ屋が見えた。

「ほら、圭太、外を見て」

と若葉は言った。

とんかつ屋の方は上司と部下だろうか。

食べ終えて、上司が何か話し、部下は相槌を打ちながら聞いている。しかし、部下の方は少しだけテーブルから椅子を離し、若干反り返っている。

つまり上司の話にまったく興味を示していない。さらに部下は自分の鼻の下を何度も触っている。

これは疑いのサイン。

おそらく上司の過去の武勇伝を辟易しながら部下は聞いているのだろう。

ケーキ屋の方にはスーツ姿の若い男女が向かい合って席にいる。

こっちは単なる同僚ではなく社内恋愛中だ。

女性はやや前のめりの姿勢になっている。男性の話に強い興味を持っているのだ。

また男性がコーヒーを一口飲むと、少し遅れて女性もコーヒーカップを持ち上げた。

あれは「ミラーリング」で、好きな相手の動作を真似るという行動。

極めつけは、女性の首の見せ方だ。顎を少し上げて首を男性に見せている。

首は動物にとってもっとも弱い場所。そこを見せるということは相手の事を信頼しているという証だった。

二人はまだ付き合い始めたばかりってとこかな。

・・・そんなことを圭太に話すとうんざりした顔をされた。

もう、お前のうんちくは聞き飽きたという表情だ。

「圭太も心理学を学んだら? 仕事に役立つわ」

若葉が言うと、圭太は俺は自分の勘とデータを信じるだけさ、と一蹴する。

それでよく警官なんかやってられるわね、と若葉は毎回呆れるのだった。


早食いの圭太は自分の食事を済ませると、すぐにスマホを弄りだした。落ち着きなく画面をスクロールしたりスワイプしたりしている。

最初は圭太を大らかな性格かと思ったが、案外せっかちだという事がわかった。

一緒に生活しないとわからない部分もある。


スマホを弄っていた圭太の手がピタリと止まる。何かのネット記事を真剣に読んでいるようだった。

「何か面白いニュースあった?」

若葉が聞いた。

すると圭太が顔を上げてニヤリと笑う。

「若葉の同級生、また出てるぞ」

圭太はスマホ画面を若葉に向けた。

そこには三十五歳になった三浦大吾が自信ありげに笑っている画像が掲載されていた。

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