第31話
若葉の姿を見ると、正樹の母親は破顔した。
「まあ、ワカちゃん。こんなに綺麗な女性になって」
「おば様。ごめんなさい。本当に御無沙汰してしまって」
いいのよ、そんなことは、と正樹の母親は嬉しそうに若葉を招き入れた。
「ワカちゃんが来てくれて、正樹も喜んでいるはずだから」
仏壇に手を合わせ、置かれた彼の写真を見て、若葉は笑みを漏らした。
きっと「おせーよ」と不貞腐れていると。
当たり前だが、正樹は十五のままだった。
正樹の母親は、若葉が持参した『東京ばな奈』をさっそく開けて、冷えた麦茶と共に出してくれた。
彼女は『東京ばな奈』を口に入れると、これ、美味しいわと言った。
若葉は「それはよかった」と言って麦茶だけ口に運んだ。
「ワカちゃん、もう結婚している?」と正樹の母親は聞いた。
若葉は「いいえ」と首を横に振った。
「でも、付き合っている人はいるんでしょ?」
若葉は正直に、はいと答えた。
そうよね、と彼女は納得したように頷く。
「こんな綺麗な子、東京の男が放っておかないわよね」
若葉は上京してから三人の男性と付き合った。
一人目はインカレサークルの男子。二人目は合コンで知り合った六大学の男子。両方ともスポーツはやらない文系男子だった。
三人目は友人の紹介で知り合った。年は二個上。
名前は川瀬圭太。剣道をやっている公務員だった。がっしりとした体形で温厚な性格。やはり自分はスポーツをしている人と相性がいいと思った。実はその時、もう一人いいなと思える男性が若葉にはいたのだが、ちょっと迷った末、圭太を選んだ。
圭太からは若葉が大学院を出たら、結婚しようと言われているが、彼女はその答えを保留している。
正樹の母親と昔話を三十分位して、若葉は立ち上がった。帰る前に正樹の部屋を見せてもらう。
十年前のままだった。
若葉はタイムスリップしたような気がした。
勉強机の上には中学の教科書が置かれていた。机の横にはスポーツバッグ。壁にはオリックス時代のイチローのポスター。そして新品の硬式用グローブ。グローブからは革のいい匂いがした。
時間が静止していた。
十五歳の正樹が今でもここにいて、話しかけてくる気がした。いや、実際に若葉には声が聞こえていた。
彼女は眩暈を感じた。そして、すぐに部屋を出た。
まだ感傷的になるべきじゃないと思った。
やるべきことがある。
正樹の実家を出ると、狭い路地を抜け、広い一本道の国道に出た。
そこを歩いていると、脇の農道で黄色い百日草が固まって自生している。近くの花壇から種が零れ落ちたのだろう。若葉は一本だけ手でちぎって再び国道を歩き始めた。
しばらくすると、赤い自動販売機が見えた。
少し手前に小さな雑木林がある。深緑の葉っぱが道路にはみ出すように伸びていた。
近づくとクマゼミなのかアブラゼミなのかわからないが、ものすごい勢いで鳴いていた。
その場所が、正樹が事故死した場所だった。
若葉はちぎった黄色い百日草をそこにたむけると、手を合わせ数秒、目を瞑った。
この場所に来るのは初めてだった。
若葉は顔を上げ、道路の左右、車の往来を確認した。
本当に見通しの良い一本道の道だった。
何故、正樹はこんな道にふらふらと出たのだろうか。
あり得ないと若葉は今も思う。
事故当時、正樹を轢いたダンプカーの運転手は、この雑木林の歩道から正樹が突然飛び出してきたと言った。雑木林は今のように繁茂し、その手前には電柱がある。その陰から彼が突然出てきて、避けきれなかったと話したそうだ。
一方、反対車線を走行していたドライバーの証言では、もう一人、別の誰かがいるのを見たと語った。そして、その誰かが正樹の背中を押したように見えたとも言った。
当時はドライブレコーダーを付けていた車は少なかった。映像などない。
結局、反対車線を走行していたドライバーの証言は除外された。仮に警察がそれを重要視したとしても結果は何一つ変わらない。
消えてしまったもう一人を特定する方法など存在しないのだ。
若葉は事故以来ずっと考えていた。
正樹は誰かに背中を押されて道路に出たのだと。つまり、これは事故死ではなく殺人だ。
しかし、仮に殺人だとしても、合点いかない点がある。
正樹が簡単に他人に押されて道路に飛び出すだろうかという事だ。
運動神経のよい彼なら、見知らぬ人が自分の背中を押そうとしてきたら、軽々と避けるはずだ。彼はジョギングをしていた最中だった。ジャージ姿にランニングシューズ。これほど動きやすい服装はない。
先ほど、正樹の母親と話をしている時に気になる事を聞いた。
それが若葉の頭にひっかかっていた。
「そう言えば、事故直後、警察の人が妙な事を言っていたのよね」
「なんですか?」と若葉は聞いた。
「息子さん、虎のぬいぐるみを持っていますか? だって」
「虎のぬいぐるみ?」
「事故現場の歩道に落ちてたんですって。小さなぬいぐるみだそうだけど」
正樹の母親は呆れたような顔をした。
「あの子がそんな物持ってるわけないし、それを抱えて走るなんてあり得ないでしょ?」
確かにその通りだと若葉は思った。
だが・・・ここに虎のぬいぐるみが置かれていたら?
あらためて、若葉は自分が立っている歩道を見つめた。
ここにそれが置かれていたら、正樹は足を止めるかもしれないと思った。遠くからだと猫の死骸に見えるかもしれない。それに気を取られていたら一瞬、無防備になる。
あの頃、野良猫が連続して毒殺される出来事があった。正樹は切断された猫の死骸も発見し、さらにその犯人を見たとも言っていた。
俺がその犯人を捕まえてやる、と言ったので若葉が慌てて止めたのだった。
あの時、彼はこんな事を言っていた。
「腕っぷしなら負けない。だってあいつ、なんか俺と同じで中坊みたいだったからさ」
若葉は近くの自販機でスポーツドリンクを買い、ごくごくと飲んだ。
額から吹き出す汗をハンカチで拭う。
ここに寄ったらすぐ東京に帰ろうと思っていたが予定を変えた。
そのまま国道を歩き続ける。
顔を顰めながら、日傘を持ってくれば良かったと若葉は後悔した。強烈な陽射しが降り注いでいる。
ニ十分ほど歩いて、豊石市の中央公園に着いた。
日陰のベンチに座り、少し休憩を取る。
中学時代の親友、野口珠緒の話によると、三浦大吾の家は確かこのあたりの黒い家だと言っていた。その時、珠緒は大吾の家に行った時の話を目をキラキラさせながら、若葉に喋ったのだった。
この中央公園で正樹は犯人と顔を合わせている。
三浦大吾が猫殺害の犯人で、正樹も殺したというのは飛躍しすぎか?
外見の見栄えが良く、リーダーシップ型の人間の中に、サイコパスの性質を持つ者が紛れている場合がある。
例えば、多額の賄賂を貰いながら、国民の前で平気で嘘をつく政治家なんかその典型かもしれない。
サイコパスやソシオパスの中には社会的に成功している人物がいて、そういう輩が権力を手に入れるとやりたい放題になってしまう。
しかもその暴走に周囲は気付かない。心理学で言うところの「ハロー効果」によって覆い隠され、露見されないのだ。
英国の国民的スターもそうだった。少女の性的虐待の訴えは多数あったのに、長年無視され、逆に訴えた方が名誉棄損で捕まった。
若葉は三浦大吾がサイコパスなのではないかと疑っていた。
もちろん、何の確証もない。
ただ、三浦大吾が豊石市にやって来てから、忌まわしい事が頻発しすぎている。
それは正樹の死だけではない。
森麗奈の死、新海エリカの不登校、村上健太が珠緒を傷付けた事、担任の木崎の自殺・・・これらは本当に三浦大吾と関係はないのだろうか。
若葉は長い間ずっと考え続けていた。それこそ、何度も何度も。
しかし、いくら考えても、これらの出来事と大吾の接点を見い出すことは出来なかった。
はっきり言って何もないのだ。
強引に一つだけあげるとすれば、非常に薄い接点だが、エリカと珠緒が三浦大吾に惚れていた事ぐらいか。
惚れられたから、排除し、危害を与えた?
バカらしい。そんなことあるわけない。
若葉は自分が「三浦大吾をサイコパスだ」とレッテル貼りをしているのかもしれないと思った。いったん、レッテル貼りをするとバイアスがかかり、物事を正当に評価できなくなる。
自分の思考は歪んでいるのか。
思い込みは真実を見えなくする。
若葉はベンチから立ち上がり、公園のグラウンドを横切って、古い日本家屋を探した。
あれから年月が経っている。この辺りにも新しい家が多く建ち、古い家は少なくなっていた。黒い壁の日本家屋は近くに一軒だけだった。
家の表札は「工藤」だった。
少しウロウロし、違うのか、と思い引き返そうと思ったら、玄関の引き戸が開いた。
やつれた感じの中年女性が出てきた。
なにか、と彼女は疑わしそうに若葉を見た。
「あのう、三浦さんのお宅はこの辺りにありますか?」
と若葉は尋ねた。
女性は何か思い当たったような表情で、
「三浦って・・・ひょっとして大吾のお友達ですか?」と言った。
若葉は驚いた。
目の前にいるのは三浦大吾の母親だったのだ。
ええ、と若葉は返事をした。
「大吾くんは?」
母親は首を横にゆっくりと振った。
「多分、アメリカだと思うんだけど、ここ何年も連絡がなくて」
そうですか、と若葉は答えた。いないと知ってほっとしている自分に気付いた。
中に入って冷たい物でもと彼女に言われたが、若葉は断った。
母親にいったい何を尋ねると言うのだろう?
お宅の息子さんは正樹を殺しましたか、とでも?
こんな事は来る前から分かり切っていた事だった。
じゃあ、何故来たの?
若葉は自分に問いかけた。
そう。踏ん切りを付けたかったから。
過去の自分と。
次のステップに進む前に。
「すいません、なんでもないんです」
若葉は逃げるように大吾の家を離れ、すぐに東京に舞い戻ったのだった。
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