第30話

「鮎川くん、この間、頼んでおいた資料は捜してくれたかな」

「はい、先生。こちらでよろしかったでしょうか」

若葉は抱えていたブリーフケースからプリントアウトされた書類の束を差し出した。


青蘭女子大の吉永教授は、社会心理学を専門にしている。その分野では第一人者で、新聞でコラムを連載し、講演で全国をまわっていた。若葉は青蘭の大学院の修士課程にまで進み、吉永教授のゼミを仕切る立場にいた。

院生十五人、学部生二十人。そのリーダー格だ。

吉永教授はネットやパソコンが不得意だ。その手の作業は若葉が手伝った。


大学院まで進みたいと言った時、実家の両親は強く反対した。

理由はただ一つ。

婚期が遅れる、だった。

田舎の両親の頭の中には、女の子は短大を出て就職し、二十五歳ぐらいで結婚相手を見つけて寿退社する、という固定観念があり、四大への進学にもいい顔を見せなかった。大学院となればなおさらだ。

特に父親はまったく理解を示さなかった。

「もう、仕送りはしないからな。そんなに大学院まで行きたいなら自分の力で行け」

父親は怒った。

母親も「若葉がそんなに勉強が好きだったとはねえ」と溜息をついた。

唯一、賛成してくれたのは五つ離れた兄だった。

どこかちゃらんぽらんだった兄も、家庭をもって、今やいっぱしの父親。仕事は輸入車のカーディーラー。営業成績も良く、近いうちに主任になるそうだ。

「大学院って何年あるんだ?」と兄が聞いた。

「修士は二年」

と若葉は答えた。

「親父、後二年分の学費だけは払ってやりなよ。若葉は生活費を自分で稼ぐ。これでどうだ?」

しぶっていた母親もそれなら、と言って賛成に回ってくれた。父親はなかなか承諾しなかったが、若葉の頑固さに折れたのか、最後はこう言った。

「三十までには結婚しろよ。それが条件だ」


若葉は家賃や食費などの生活費は家庭教師のアルバイトでなんとか稼いだ。ぎりぎりの生活だった。家庭教師のバイトをもっと密に入れれば、ずっと楽になったが、それよりも学業の方を優先した。そのために院にまで進んだのだ。

若葉の研究分野は行動心理学。


大学院での二年も若葉はあっという間に感じた。

今は修士論文の最後の追い込みに入っている。

論文のテーマは『見えない反社会性人格障害~ソシオパス』というものだった。

シリアルキラーの殺人鬼としてサイコパスは有名だが、その類型にソシオパスやサベェッジという定義がある。

サイコパスはその残虐性ゆえに犯罪がすぐに露見するが、やや凶悪性が低いソシオパスやサベェッジは長期にわたり社会の陰に潜む存在になることがある。

英国で国民的スターだった芸能界の重鎮が、長年、少女を性的虐待し続けていたという例をモデルケースにして、若葉は心理学的アプローチで細かに分析した。

その英国のスターは齢なんと八三で、女王陛下より勲章まで授与された人物だった。


このテーマを選んだ時、指導教授の吉永は、いい顔をしなかった。吉永ゼミで研究していた心理学から逸脱していたし、女子学生が取り上げる題材でもないというのが彼の言い分だった。

吉永教授は心理学を応用したカウンセリングやセラピーの講演が多い。

「心理学は実学だ」が教授の口癖だった。

昨今、もてはやされている犯罪捜査のプロファイリングの話になると、とたんに機嫌が悪くなった。

「『羊たちの沈黙』はまったくのデタラメ」とゼミの飲み会で酔うと、くだを巻くこともあった。大きな犯罪事件があると必ずテレビで解説する他大学の教授と何かあったらしいが、詳しいことは誰も知らない。

「先生、私の論文も先生の教え通り、実学に即しています。読んでくださるとわかると思います」

と若葉は吉永教授に言った。

「社会病的性向の人間なんてまわりにゴロゴロいます。私のテーマは彼らから身を守るにはどうすればいいかという事です」

日本ではサイコパスとソシオパスの違いを、サイコパスが先天性であるのに対し、ソシオパスは生活環境が原因と解説している文献が多い。

しかし、実際はサイコパスもソシオパスも大きな違いはない。

アメリカで反社会性人格障害を語る時、「サイコパス」という言葉を使うのが敬遠され、いつしか「ソシオパス」の方が使われるようになった。

それはサイコパス=凶悪犯罪者のイメージがついたからだ。

サイコパスが必ずしも犯罪者になるわけではない。

そして程度の差こそあれ、サイコパスの素因を持っている者はけっこうな割合で潜んでいる。

五十人に一人、いや素因というなら、二十人に一人かもしれないと若葉は考えている。


若葉は、論文を書きながら、たえず頭の中にある人物を思い浮かべていた。

サイコパスは一見、魅力的な人間に見えるのだ。



沢村正樹が亡くなって十年目のお盆が来た。

若葉は彼の墓参りに行こうと、その夏に豊石市に帰省したのだった。

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