第28話

鮎川若葉は職員室に呼ばれていた。

職員室の扉を開けると、担任の女性教師が手招きしている。

若葉は軽く一礼をして、その女性教師の方に向かって進んだ。

背は中学時代より五センチ伸び、髪は肩まで伸びた。

あどけない表情は消え、顔の輪郭はややシャープになっている。

「鮎川さん、本当にこの大学を受験するの?」

女教師は一枚の紙を手に取りながら若葉に確認した。

「はい、受けます」

きっぱりと若葉は言った。

そう、と女教師は頷いた。

「あなたなら、受かるかもしれないわね。でもうちの高校じゃあ、合格実績ないのよね」

関係ありますかと若葉は聞いた。

「高校のレベルと大学入試」

そう言うと担任の女教師は笑った。

「ないわね」

若葉の通っている高校は、男女共学の普通科だが、けっして進学校ではない。生徒の半数が就職し、残りの三割が専門学校、大学進学は二割程度だ。大学に進学する生徒のうち、女子生徒はほとんどが地元の短大だった。

「地元の国立大学を受けてみる気はない? やっぱり東京がいいの?」

「はい、東京がいいです」

それも明確に若葉は答えた。

「わかったわ。じゃあ期待してるから」


あれからすでに二年半が経過していた。

鮎川若葉は高校三年生になっていた。

中学三年の時にはあまりに多くの事が起きた。いや、起きすぎたと言ってもいい。

冷静な若葉でさえ、それを受け入れるのに時間がかかった。

野口珠緒が村上健太に刺され、病院に入院した時は号泣したのに、正樹が亡くなった時は涙一粒も出なかった。

若葉の心は、正樹が死んだ事を受け入れなかったのだ。

拒否した。後から知ったが、それは人間が持つ防衛本能の一種だった。もし、あの時、その事実を受け入れていたら若葉の心は壊れていただろう。

若葉は自分が生き伸びるために、正樹の死を拒否したのだ。


珠緒の怪我は軽症で済んだ。

だが、もちろん珠緒の心には大きな心的外傷が残った。

珠緒は梨南女子高に進み、そこでの生活に集中した。中学時代の事は忘れようとした。

その気持ちは若葉にはよくわかる。若葉だって同じだったからだ。

珠緒は夢見ていたアメリカ留学を高校では諦めた。

大学に入ったら許すと両親に言われて、それに従った。三浦大吾への熱も冷めたようだ。それで良かったと若葉は思った。

珠緒とは時折会ったが、密に連絡を取り合う関係ではなくなった。


若葉の高校生活は味気ないものだった。

スレンダー美人で男子生徒からも人気があったが、誰とも付き合うことはなかった。

ただ一人だけ信頼できる女友達が出来た。


高校に入学して半年ぐらい経った時だった。

学校帰りにふとグラウンドを見ると野球部が練習していた。

若葉は足を止めて、遠くからしばらく眺めていた。

今までも学校帰りに野球部の練習を何度か見かけてたはずだった。野球部は毎日練習していたのだから。しかしそれまでは何の感情も沸かなかった。

だが、どういうわけか、その日は野球部の練習を見ていると、体の中心から熱いものがマグマのように押し寄せてきたのだった。

そしてそれは若葉の体中を一瞬で駆け巡った。その刹那、若葉の目から涙が次から次へと止めどなく溢れ出た。

心の奥底に押さえこまれていた悲しみが一気に噴き出したのだった。

ようやく自分は正樹の死を悲しめたと若葉は感じた。


「これ使って」

目の前にハンカチが差し出された。

クラスメートの小笠原真央だった。

真央は何も聞かなかった。ただ、若葉の横にいてくれた。

少し時間が経ってから、真央にだけは正樹の事を話した。

誰かに話す事で若葉は知った。

正樹という人間が再び、他人の記憶の中で生きるということを。

この先、大切だと思える人と出会ったら、その人には正樹の事を話そうと思った。


若葉は高校生活のほとんどを図書館で過ごした。最初は手あたり次第に本を取っていたが、ある時から特定の分野に興味を持ち始めた。

それは心理学や精神医学、行動学などだった。

それらの本を読んでいると人間の謎が解けるような気がした。

この世は分からない事だらけだ。


ある日曜日、小笠原真央に誘われて映画を観に行った。

誘ってくれる友達の存在を有難く感じた。

だが、映画館の前まで来て、若葉は固まってしまった。

上映していた映画は『ザ・メキシカン』

主演はブラッド・ピッドだった。

正樹と観た映画を思い出した。

若葉の異変に気付いた真央が「どうしたの?」と聞いてきた。

中学の時、ブラピの映画を正樹と一緒に観たと言った。

「じゃあ、別のにする?」

と真央は言った。

そうした方がいいかもと若葉は思った。内容なんてとても頭に入って来そうにない。

持参していた情報誌で真央が上映中の映画を調べている。

「どうしようかな。邦画でも観ようか?」

「いや、やっぱりこれ観よう」

そう言って若葉はチケット売り場に歩いて行った。

「大丈夫なの? 若葉」真央が尋ねた。

うんと若葉は答えた。

これからもブラピを見ては正樹を思い出す。野球を見ては正樹を思い出す事だろう。

それは避けられない。

しかし、それはもう悲しむことじゃない。


映画を見終わった後、駅前の店でクレープを買って食べた。

その後、真央とゲームセンターに行った。

二人で大はしゃぎして「ダンスダンスレボリューション」をやり、女子高生の列に並んでプリクラで何枚も写真を撮った。

「私達も女子高生活を楽しもう」

帰り際に真央が叫んだ。

「じゃあ、ルーズソックス履く?」

二人とも普段は学校指定の紺のハイソックスを履いている。

「あっ、それいい」

と真央が手を叩いた。

さっそく帰りにファッションセンターに寄り、お揃いのルーズソックスを買った。

そのルーズソックスは学校に持っていき、帰りに履き替えて、カラオケやゲーセンに行った。

若葉の高校生活で一番楽しかったのは真央と遊んだことだった。

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