第27話

年末から始めた早朝ランニングを沢村正樹は今朝も続けていた。

結局、高校入試があった当日でさえ、走っていたのだから、若葉にも呆れられた。

「そんな事で受験大丈夫だったの?」

正樹は笑い飛ばした。

「母親と同じ事言うなよ。落ちやしないって」


明日から四月。毎朝走っているとよく分かる。陽が昇るのはどんどん早くなっていく。

走り始めた頃は真っ暗だったのに、今の六時はとても明るい。大気もすでに冷たくはない。

走っていると春の気配が感じられた。

幹線道路は車の排ガスの匂いしかしないと思っていたが、田畑の草木の匂いの中にふわりとした新緑の息吹を捉えることができた。


一昨日、正樹は自分が通う工業高校の野球部の練習を見学した。

軟式とは違う硬式野球の練習をバックネット裏で見て、その違いの大きさをあらためて認識させられたのだった。

軟式は所詮、子供の遊びだ。硬式ボールは、気を緩めれば大怪我をする。

しっかりと基礎体力をつけねば。朝のジョギングにも気合が入った。


ジョギングのルートは若葉に言われてから変えたままだ。

中央公園がちょうど十キロの折り返し地点なので、本当は最初のルートの方が何かと便利なのだが、あそこには行っていない。

猫を殺害していた犯人はその後、犯行をやめてしまった。

もうやらないのかもしれない。とすれば捕まえることは出来ない。

正樹はもうそんな事は考えていなかった。

それにしても、と正樹は走りながら、ある事を思い出して、笑いを噛み殺した。

俺は若葉の言いなりだな。

野球を続けることにしたのも、若葉に言われたからだ。

デートの日を決めるのも、どこに行くかも常に若葉が決めた。

唯一自分の意思を通したのは「交換日記」を断ったぐらいか。いや、あれだって、「もうやめよう」と言ったのは若葉の方だったではないか。

そもそも「付き合ってほしい」と言ってきたのは若葉だった。

正樹は告白されて困惑した。若葉の事をよく知らないから好きも嫌いもなかった。

外見は少し可愛いと思ったが、十三歳だったので恋愛の事は頭になかった。正樹が返事を答えあぐねていると「じゃあ、一か月だけでいいから。嫌ならなかった事に」と若葉はさらっと言った。

今考えればうまい提案だ。一か月後に彼女に「どう、別れる?」と言われて正樹は首を横に振った。

その時には若葉の事が好きになっていた。

若葉は勉強が特に出来るわけではなかったが、決断力や洞察力に優れた女の子だった。若葉の指摘はだいたい的を得ていたし、それに対するアドバイスも的確だった。

ああいう子をお嫁さんにするといいわよ、と正樹の母親は茶化したが、正樹自身もそれを思わないでもなかった。

しかし、まだ自分達は中学三年生だ。先のことなんてわかるはずない。


正樹は国道の歩道をペースを乱さず走り続けた。

ちらりとラップ付きのデジタル腕時計を見やる。

だいたい中間地点か。

見渡しの良い一本道の国道だが、時折、取り残されたような雑木林が道沿いにある。

今でもあそこにカブトムシはいるのかなと正樹は思った。

小学生の頃、夏休みにああいう雑木林に入ってカブトムシやクワガタを捕まえたのだった。

走り続けていると、百メートルほど先の道沿いに、再びこんもりとした雑木林が見えた。

その雑木林の付近の歩道に何かが横たわっている。

ちょうど赤い自販機が置かれている傍だ。

なんだろう?と思ってその横たわっているものを見つめながら走った。

五十メートルほど近寄って、正樹はスピードを緩めた。

猫じゃないのか、あれは。

死んでいる?

黄色っぽい体に黒い縞模様の塊。

正樹は恐る恐る近づいた。

猫ではなかった。虎だ。

しかもぬいぐるみだった。小さな虎のぬいぐるみ。

汚れていて遠くからだと猫の死骸に見えた。

「なんだ、ぬいぐるみか」

と呟いた時、脇の雑木林から何かが動く気配がした。

と次の瞬間、背中を強く押され、正樹は歩道から足を踏み出し、よろけて道路の真ん中で倒れこんだ。

けたたましい音のクラクションと共に正樹の目の前にダンプカーが飛び込んできた。

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