第26話

名古屋駅、名鉄百貨店の前に巨大なマネキン人形がある。

『ナナちゃん人形』と呼ばれ、待ち合わせ場所の定番だった。地元の人間なら知らない者はいない。

名古屋に不慣れな人は、名駅付近でよく迷子になるらしい。

地下鉄、私鉄、JRの乗り換えが分かりづらい。加えて、名古屋は地下街がメインなので、方向感覚も狂ってしまうとのことらしい。

でも『ナナちゃん人形』なら、東京の人だって迷わないだろうと野口珠緒は考えた。

珠緒は巨大人形からやや離れたビルの壁際に立っている。

さすがにあの人形の股の下で待つのは恥ずかしい。それにあそこで待っているより、少し離れていた方が大吾の姿を見つけやすい。


三日前、大吾から電話があった。

男の子からの電話なんて初めてだった。それも大好きな人からの電話で珠緒は舞い上がった。

「ちょっと遅れたけど、ホワイトデーのお返しに食事なんかどう?」

三月十四日はとうに過ぎているが、それはすべてが終わってからの方がいいという大吾の配慮があったからだった。

中学の卒業式、公立高校の入試、そして合格発表もみんな終わった。

珠緒は今、解放感と恋の高揚感で心が満ちていた。

自分にもこんな日が来るなんて嘘みたいだ。

くるっと振り返るとピカピカに磨かれたガラス窓がある。

そこに自分の姿がくっきりと映っていた。

メガネはしていない。コンタクトにしたのだ。

髪は緩めのソバージュ。これは一昨日、美容院に行ってやってもらった。色々迷ったが、思い切った髪型にした。少しでも大人の女を演出したかった。

洋服もこの日の為に買った。

明るいベージュのワンピース。しかし窓に映った姿を見て、気落ちする。似合ってないような気がした。きっと若葉ならこういう大人っぽい服が似合うんだろうなと思った。

ガラス窓を鏡代わりにし、前髪を指で整えていると、突然肩を叩かれた。

振り返ると白い歯を見せた大吾がいた。


大吾と並んで歩いたが、緊張してうまく話しかけられなかった。これから食事だと言うのに食欲もない。食べられるだろうか。男の子とデートなんかしたことがなかった。

これってデートでいいのよね、と歩きながら珠緒は思った。

あのさ、と珠緒は言った。何か会話しなきゃ。

「木崎の事、知ってる?」

大吾は「ああ」と興味なさそうな返事をした。

担任の木崎が自殺したということを知ったのは、卒業式が終わり、公立高校の入試が終了して合格発表を待っている間だった。

話は若葉から聞いた。

若葉が自己採点の結果を学校に報告に行った時、副担の池田からその事を聞いたらしい。

木崎はここ最近、かなり痩せて体調が悪そうだったが、とても自殺する人間には思えなかった。

なんでだろう、と若葉ともその事を話し込んだが、もう学校も終わっているし、知らない者もいるかもしれない。

大吾は知っていたようだが、関心はなさそうだ。いや、デートの最中にこんな暗い話題を出す方がどうかしている。失敗だったと珠緒はちょっと悔いた。

「ここだよ」

大吾が指さしたのはイタリアンレストランだった。

「イタリア料理?」

と珠緒は驚いた。

トレンド雑誌やテレビの情報番組でよく取り上げられるイタリアン。リゾットとかイカ墨とか高級ワインとか出てくる場所。若いOLや女子大生のデートコース。珠緒はちょっと身構えた。

珠緒の顔を見て、大吾は「あはは」と笑った。

「そんな高級店じゃないよ。チェーン店だから。ほら見て」

ランチメニューが出ている。確かにそんなに高くはなかった。


二人で同じおすすめのセットメニューを頼んだ。

パスタも、添えてあったパンもスープも美味しかった。

珠緒はクリームパスタというものを初めて食べた。

「パスタと言えば、名古屋には『あんかけスパ』というのがあるのよ」

何それ、と大吾が聞いた。

「甘いの?」

甘くないと珠緒が笑う。

「今度、私が奢るから」と珠緒は言った。楽しみだなと大吾が答える。

ランチメニューの最後にコーヒーが出てきたが、どうせならと大吾がティラミスを追加した。

ちょっと苦味のある甘さが、珠緒を最高に幸せな気分に導く。大人の味と恋の味。

このまま時間が止まればいいのに。

「大吾くんは春からどうするの?」

珠緒が尋ねた。

「向こうは九月入学だからね。それまでは現地の語学学校に通う」

「確か西海岸って言ってたけど、ロス辺り?」

そうなると思うと大吾は頷いた。

「やっぱり」と珠緒は顔を綻ばせた。

珠緒は梨南女子の事を入念に調べた。海外のミッション系の高校といくつか姉妹校提携している。そのうちの一つにロサンジェルスの高校があった。あそこに交換留学が出来れば大吾とアメリカで会えるのだ。


食事を終えて、二人はレストランを出た。

今から大吾は用事があるらしい。海外へ行くための準備があるそうだ。

本当はこの後、大吾と映画にでも行きたかったが、仕方ない。「ご馳走様」と言って別れることにした。焦ることはない。次の約束もした。今度は珠緒が彼に「あんかけスパ」を奢るのだ。

珠緒はこのまま家に帰るのはもったいないなと思い、少しその辺をぶらぶらしようと思った。

地下街を歩き、雑貨や靴を見て回ろう。気分もまだ高揚している。

その感覚にしばらくは浸っていたい。

地下街には大勢の人がいた。ちょっとよそ見をしていると他人とぶつかりそうになる。

人波を分けるように歩いていて、珠緒は立ち止まった。

目の前に村上健太がいたのだ。

「村上、じゃない」と珠緒は驚いた。

なんで、ここに村上がいるんだろうかと思った。

小学校からの腐れ縁の村上。成績ではいつも競っていた。

彼の事は好きではなかったが、村上が人一倍の努力家である事を珠緒は知っている。その村上が東英学園はともかく公立高校の受験にも失敗したとは俄かには信じがたい。

なんとか二次募集で他校に合格したらしいが、彼には到底ふさわしくない高校だ。

珠緒は慰めの言葉を探したが適当な言葉が浮かばない。

村上はうつろな目をしている。様子がどこか変だった。

「大丈夫?」

珠緒は言った。村上はそのままゆっくりと珠緒の方に近づいてきた。

彼は珠緒の脇を通り過ぎる時に耳元で囁いた。

「全部、お前のせいだ」

「えっ、何?」と珠緒が村上の顔を見た時、下腹部に激痛が走った。

あまりの痛さに声さえ出なかった。そのまま下腹部に手を当てて、崩れ落ちた。

目の前が暗くなる。押さえた手を見ると赤かった。

どうして?

と珠緒は薄れゆく意識の中で思った。

今日は完璧な一日だったのに。

どうして?

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