第25話
慌ただしい二月があっという間に過ぎ去った。
若葉の中学校の卒業式も明後日に迫っている。
ただ、生徒のほとんどに晴れやかな表情は見えない。
愛知県は卒業式の後に、公立高校の入試が控えている。
そちらが本番という生徒の方が多い。
週明け、教室で若葉はまっさきに珠緒の元に駆け寄った。
「おめでとう、珠緒」
珠緒は照れながら微笑んだ。
難関私立の梨南女子に見事合格を決めたのだった。
若葉は窓際の席で黙って参考書を広げている村上健太をちらりと見た。
「村上くんは残念だったわね」
誰が合格し、誰が落ちたか、その手の話はどこからともなく伝わる。しかも即座にだ。不思議なものだ。
健太は東英学園に落ちた。
しかし思っていたほど気落ちしている様子には見えなかった。
ガラガラッと教室の前の扉が開き、担任の木崎が入ってきた。
その姿を見て、若葉は息をのんだ。
頬が痩せコケ、額や眉間の皺が深くなっている。顔色も悪い。
どうしたんだろうか。
木崎は今日の予定をざっと話すと、公立高校の入試の注意事項などを説明した。
当日は早めに各々の試験会場に到着すること。試験が終わったら、自己採点して学校に報告してほしい、と。
今日の一時間目は自習、そのあと卒業式の予行練習があって、それで終了だった。
「木崎、なんか痩せてない?」と女子の誰かが言ったが、ダイエットでもしてるんじゃない、と別の誰かが言って少し笑いが起きただけだった。
当然だが、木崎の事を気に留める生徒はいなかった。
木崎が職員室に戻ると、副担の池田が話しかけてきた。
「体調悪そうですが、大丈夫ですか」
木崎は大丈夫だと答えた。
「最近、ちょっと食欲がなくてな、それだけだ」
池田は、冬バテってあるそうですから気を付けてくださいよ、と言葉をかけた。
「冬は血行が悪くなって胃腸の調子が悪くなるみたいです。自律神経を乱したりとか」
そうだな、と木崎は答えたが、池田の話など聞いてはいなかった。
その日、木崎は学校が終わると、どこにも寄らず自宅に戻り、書斎に入ると仕舞ってあった自分宛の封筒を取り出した。
封筒の中には一枚の写真と手紙が入っている。
手紙は『民事訴訟予告状』と題されていた。
「木崎康夫様。御無沙汰しております。今回は不本意ながら、あなた様に対して民事の訴訟を起こすことになったのでご報告します・・・」
手紙の主は、木崎が忘れようとしても忘れられない青年の名前。
赤松洋。
赤松は木崎の二十年前の教え子だった。
当時十四歳の中学三年生。現在は三十四歳になっている。
木崎は同封されている写真を眺め、胸が痛んだ。あの時抱いた後悔の念が再び蘇った。
写真には悲しそうな表情の赤松洋が電動車椅子に座っていたのだった。
二十年前、木崎は隣町の中学で教鞭を取っていた。
一九七九年の事だった。
この頃の中学は今とは考えられないぐらい荒んでいた。
いわゆる「校内暴力」全盛期だった。
額にソリコミを入れ、髪の毛を赤く染めた不良が学校生活を破壊していたのだった。
赤松洋もそんな不良グループの一人だった。
ブカブカの長ランに頭はリーゼント、学校のトイレでは平然とタバコをふかし、シンナーまで吸っていた。
対峙したのは、体育教師を中心とした若手、中堅の男性教師達だった。
彼らは当時、武闘派教師として、校内の秩序を維持する役割を担っていた。
体罰と厳しい校則を手段にして、なんとかして「教師の権威」を保とうとした。
確かにやり過ぎた面もある。
だが、手加減してかかると逆にやられた。
一刀両断にして不良を叩きのめす以外に方法などなかった。
木崎は数えきれないぐらいの不良を殴り、投げ飛ばした。
その際、生徒の肋骨にヒビが入ったり、鼓膜が破れたりしたことは何度かあった。しかしそれぐらいは許容範囲だった。
木崎本人も、それ以上の事をされた。
ある時、学校帰りに暴走族に取り囲まれ、木刀で一斉に殴りかかられた。体中の七か所を骨折し、学校を三か月休んだ。
暴走族は卒業したばかりの不良連中だ。お礼参りに来たのだ。
ただし、やってもやられても、警察沙汰は極力避けた。
それが暗黙の了解のようなものだった。
赤松の時も同様だった。
赤松の素行もかなりひどかった。タバコやシンナーはもちろん、学校に爆竹を持ってきて授業中に爆発させるという事をした。女性教諭が行う音楽や理科の時間を標的にし、弱い教師に赤松は蹴りを入れた。
それを知って、木崎は我を忘れて激怒した。
思わず自分の柔道の得意技を出した。「小内刈」だった。
体格差が禍した。それが悲劇を呼んだ。
木崎は身長が一七八センチで、赤松は一六五センチだった。
小内刈りをかけた瞬間、赤松の体はクルッと回転した。
本来背中から落ちるはずなのに、勢い余って、後頭部が固い廊下に打ちつけられた。
ゴキッという感触が木崎にも伝わった。まずいと思ったが、時既に遅かった。
赤松は頸椎を骨折した。さらに脊髄損傷。首から下に高度な障害を負ったのだった。
その時ばかりは、さすがに警察が介入した。
当初、木崎には傷害罪の嫌疑もかかったが、赤松が直前に暴力を振るっていたこと、それを木崎が止めようとしたという他の教師や生徒の話もあり、最終的には「事故」という判断を警察はした。
木崎は半年間休職したのち、学校を転任した。
そしてそれ以降、木崎はどんな事があっても体罰を封印したのだった。
この事故は地方紙にも小さく載った。
『行き過ぎた体罰が原因か?生徒が全身不随に』という見出しだった。
赤松はリハビリにより、多少、腕や足が動くようになったが、大きく改善することはなかった。
木崎は事故以来、ほぼ毎月、赤松を見舞いに行っていた。ここ数年、頻度は落ちたものの、それでも半年に一度のペースで赤松に会いに行っている。
最初は木崎を恨んでいた赤松だったが、時間が経つにつれ、木崎に対して徐々に心を許すようになった。
「先生、もうあまり気にしないでください。こうなったのには自分にも責任があるんです。ほんと、ひどい生徒でしたから」
赤松がそう言うようになって、木崎は少しだけ肩の荷が降りた気がした。
いっときは教職を辞めようとまで思った木崎だったが、辞めたところで赤松への責任は果たせない。木崎は自分が貰うボーナスをすべて赤松の両親に差し出した。
けっして裕福ではない赤松家は息子の介護を、これから先もずっとしなければならない。少しでも助けになればという思いだった。さらに木崎は後数年で定年を迎える。
その時に貰う退職金すべてを赤松に渡すつもりだった。
これが木崎の赤松への償いだった。
手紙にこう書かれていた。
「・・・あの事故で僕は人生のすべてを奪われました。高校進学、就職、結婚という誰もが経験するはずの人生経験すべてをです。僕には友人もいませんし、恋人もいません。朝起きて夜寝るまで、他人の介護がなければ死んでしまいます。食事も着替えも排泄さえ自分ではままならないのです。
こんな状態を『生きている』と言えますか?
こうなった責任の半分は僕自身にあるとして、残りの半分は木崎康夫さんにあります。
そこは理解してもらえると思います。
一人の男性が一生に稼ぐ賃金は約二億円と聞きます。そこで僕は慰謝料として、あなたにその半額、一億円を請求いたします。これは正当な要求だと考えます」
木崎は手紙を読みながら頭を抱えた。
俺の退職金じゃまったく足りない。
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