第22話
真っ暗な暗闇の中 、家を出ると沢村正樹は駆け出した。
時刻は朝の六時。路地ですれ違ったのは新聞配達のバイクだけだったが、広い国道に出るとすでに大型トラックが何台もスピードを出して往来している。
十二月末の空気は冷たいというより肌を刺すように痛い 。
正樹は上下ジャージ姿にウインドブレーカーを羽織り、耳当てをしてゆっくりと闇の中を走っていく。 ウインドブレーカーを着た上半身はいいが、下半身はジャージの生地を突き抜ける冷気が太ももに当たり、足がうまく動かない。が、それも最初の十分程度の事だった。体が温まってくれば体中から湯気が出て、むしろこの冷気が心地よく感じられるだろう。
手には真っ赤な毛糸の手袋。
クリスマスプレゼントに若葉がくれたものだ。
手編みだよと言っていたが本当かどうか。 あまりにも上手にできていて、正樹は少し疑ったのだった。 黙っていればいいものを、正樹は思った事をすぐに口に出してしまう。
若葉は機嫌を損ねて「金輪際、正樹にはプレゼントしないわ」と頬を膨らませた。
仮に既製品だろうが、正樹は貰って嬉しかった。
なのに、その事を素直に伝えられない。
逆に「こんな派手な色、恥ずかしい」みたいな事を言うのだから、「女心をわかってない」と若葉に言われるのだ。
「俺ってダメな奴だな」
正樹は自嘲した。
冬休みに入ってから正樹は早朝トレーニングを続けている。
毎朝 一時間のランニング。大体十キロの距離を走って自宅に戻る 。
一応受験生の手前、本格的なトレーニングはできない。本当は陽の射した日中にもやりたいのだが、親がうるさいので控えていた。万が一、志望校に入れなかったら親父にど突かれる。まあ、あの工業高校に落ちることはまずないだろうが。
「本格的な野球の練習は春休みまでお預けだ」
走りながら、正樹は呟いた。
一度は辞めようと思っていた野球を続けようと思ったのは、やはり若葉の存在なしには語れない。
「本人の自由だけどさあ。もったいないよ、野球辞めるの」
若葉は事あるごとにそんな風に言った。
彼女は分かっていないと正樹はその度思った。
野球の競技人口はいったいどれだけだと。野球が上手な奴なんてゴロゴロしている。その中で頂点を目指すには自分なんかはるかに力不足だった。
「別に楽しめればいいじゃん」
若葉は笑う。
「草野球だって下手だとつまらない」
正樹は言った。
そう。すべてにレベルがある。町内でエースか。県内でエースか。甲子園でエースか。
自分が目標とするレベルで満足出来る野球が出来ないと、それはつまらないということになる。
「じゃあ、正樹は高校で何するの?」
答えられなかった。そして答えられなかった事がすなわち答えだった。
高校でも野球をするよ、と言った時、若葉は嬉しそうな顔をした。
「やってみなきゃわからないよ」
「若葉って超楽観主義だな」
そう言うと、当たり前じゃないと彼女は笑った。
中央公園は自宅からちょうど五キロの中間地点だった。
そこで折り返して戻る。
公園の時計を見ると六時二十五分だった。
今日は少しだけペースが早い。体が徐々に出来上がってきたようだ。
正樹は中央公園の外周を一回りして戻ろうとした。
その時、歩道に丸い塊が落ちているのが見えた。
なんだろうと思ってスピードを緩めながら近づいていく。
最初は毛布かなにかのように思った。
しかし、間近に来て、それが猫の死骸であることに気付いた。
可哀そうに。野良猫が車にでも跳ねられたのだろう。脇の幹線道路ではトラックやダンプカーがビュンビュン走っている。車の街だから仕方ない。
だが、その猫の死骸をジャンプして避けようとした時、猫の胴体の一部が切り離されているのが見えて、ギョッとした。トラックに跳ねられたのではない。鋭利な刃物で切られている。誰かが故意に切断したのだ。
いったい、誰がこんなひどい事をするのか?
惨殺された猫を見て、正樹はある話を思い出した。
今年の夏頃から、市内の小学校の飼育動物が何者かによって撲殺される事件が起きた。
その後、その事件は鳴りを潜めたが、秋頃から、今度は野良猫が殺される出来事が起きた。毒を入れたツナ缶を拾い食いした猫が泡を吹いて亡くなったという話だった。
農薬入りの毒殺といわれている。この手の出来事は別にここだけの話ではなく、全国的に散発しているとローカルニュースのコメンテーターが嘆いていた。
しかし、猫の体を傷つけて殺すというのは聞いたことがなかった。
明らかに異常に思えた。
正樹は走るのを止め、ゆっくりと歩いて公園のベンチに腰かけた。
空が白みかけている。
もし、この一連の出来事が同一犯なら、犯人の行動はエスカレートしている。
正樹に恐怖心はなかった。
それよりも許せないという気持ちがふつふつと沸いてきた。
ウサギや猫のような小動物を相手にするのはそいつが非力だからだ。卑怯な奴だからだ。俺ならそいつを捕まえる事が出来る。
よし、やってやろうじゃないか。
そう思った、矢先のことだった。
正樹は公園のグランドを足早に横切る男の姿を見た。
目深にフード帽を被る、細身の男の姿。右手にはナイフを持っていた。
あいつが犯人?
正樹は瞬時に判断した。あいつなら体格的に負けないと。
「おい」と正樹は大声を上げた。
男が怯んで足を止め、正樹を見た。
一瞬、二人が睨みあう。距離にして百メートルだった。
正樹がベンチから立ち上がると、フードの男は全速力で走り出した。
あっという間に正樹はフードの男を見失った。
すでに五キロをランニングしてきた疲れもあったが、相手はそれ以上に敏捷だった。
「クソッ」
正樹は数十歩走った所で止まった。
そして心に誓った。
次は必ず捕まえてやると。
「来年ってもう二十一世紀なんだよね」
なんだか、ピンと来ないわねと若葉は言った。
年が明けて、一月三日に正樹は若葉と二人だけで熱田神宮に参拝に来た。
元旦ほどではないといえ、熱田神宮はけっこうな人出だった。
「あれ、今年ってもう二十一世紀じゃなかったっけ?」
「何言ってんの。『2001年宇宙の旅』って映画知らない?」
「知らない」
「とにかく、今年はまだ二十世紀」
ふうん、と正樹は言ったが、心の中ではどこか納得していない。二〇〇〇年でキリがいいのにと思った。
「俺さ、ノストラダムス信じてたから、今年は来ないって思ってた」
真面目な顔で言ったのが可笑しいのか、若葉が噴き出した。
「十五までの人生だから、お菓子いっぱい食べて好きなゲームや野球だけやろうと。それで勉強しなかったんだ」
「男子ってバカよね」
「かもな」
ようやく本殿が見えてきた。正樹は小銭を用意する。
「何をお願いするの?」
若葉が正樹に尋ねた。
「高校受験に決まってる」
お前もそうだろ?と正樹が言った。
若葉は「まあ」とだけ答えた。
帰りにファストフード店に寄っていくことにした。
二人ともおせち料理にもお雑煮にもうんざりしていたのだった。
シェイクを飲みながら正樹が言った。
「そう言えばさ、うちらの近所で夏頃から学校のウサギとか猫とか殺される事件あっただろ?」
若葉は頷いた。
「俺、犯人を見た」
えっと若葉は驚いて目を見開いた。
「それ、本当?」
「市内に中央公園ってあるだろ? そこで早朝に見たんだ。そいつ、ナイフを持ってた」
ナイフ?と若葉は怪訝な顔で聞き返す。
ああ、そうかと正樹は思った。ナイフの事は誰も知らないなと。
毒殺の方は報道されたが、猫の胴体が切られた出来事は報道されていない。
あれは一回きりだったのだろう。連続して起こった学校の飼育動物撲殺や猫の毒殺とは別だと判断して報道しなかったのか。あるいは犯人があの後、猫の死骸を始末したのかもしれない。
そう思える理由が正樹にはあった。
正樹は次の朝から、ランニングの際、中央公園付近を注意しながら見て回ったが、それ以降は、猫の死骸を見る事はなかった。
あれを境に犯人は警戒し始めたのかもしれない。
「今度見つけたら、絶対捕まえてやるよ」
大まかな事情を若葉に説明した後、正樹はそう言った。
「やめときなさいよ、そんな事」
「なんでだよ」
「そういう人間って何考えているのかわからないの」
絶対ダメだから、と若葉は言った。
正樹は、相手が強そうじゃなかったこと、腕っぷしなら負けそうにないと思ったことを話したが、若葉は聞き入れようとしなかった。
「早朝ランニングのルートも変えて」
中央公園付近には近寄らないでと言う。
そこまでしなくても、と思ったが、あまりにも若葉が強く言うので、正樹も最後には「わかったよ」と承諾した。
「絶対だからね」
と若葉に別れ際にも釘を刺された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます